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落ちた直後。
空間は、すでに狂っていた。
床が傾く。
壁が滑る。
天井が、静かに裏返る。
だが――
栗花落カナヲの足は、
止まらなかった。
踏む。
ずらす。
もう一歩。
視界に頼らない。
足裏の感覚。
空気の流れ。
音の遅れ。
それだけで、
“立てる位置”を選び続ける。
一瞬で、
姿勢が整う。
呼吸が、
崩れていない。
障子が横へ流れる。
廊下が縦に立つ。
その中で、
カナヲは迷わない。
選ぶ。
右。
次は、上。
一拍置いて、左。
迷いはない。
“優しくしなさい”
かつての声が、
今はもう問いではなく、
判断の中に溶けている。
躊躇がない。
速いからではない。
“決めている”からだ。
コインは、
もう投げない。
(……行く)
理由も、
確証もいらない。
足は止まらない。
角を越えた先で、
鬼が二体。
同時に来る。
だがカナヲは、
構えを変えない。
吸う。
吐く。
最短。
――ヒュン
一閃。
一体。
返す刃で、
もう一体。
音が残る前に、
二つの頸が落ちた。
静かだった。
無駄がない。
迷いもない。
ただ、
選んでいるだけだった。
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その時。
ほんのわずかに。
空気の奥で、
何かが引っかかった。
(……?)
足が、
一瞬だけ止まる。
匂いではない。
音でもない。
もっと、
曖昧な何か。
だが――
確かに、
“違う”。
この無限城の中で、
一箇所だけ。
空気の質が、
わずかに歪んでいる。
(……あっち)
言葉にはしない。
だが、
選択は決まっている。
誰かが呼んでいる――
カナヲは、
静かに進路を変えた。
その先で。
まだ誰も知らない戦いが、
静かに進んでいる。
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しのぶの足が、
畳を踏む。
浅く。
だが、
迷いはない。
童磨の扇が、
ゆるく開く。
「まだ来るんだ、元気だねぇ」
軽い声。
だが、
目がほんの少しだけ細い。
違和感。
名付けるほどではない。
だが確かに、
さっきまでとは違う。
しのぶの踏み込みが、
また一段深くなる。
速さは同じ。
だが、
“詰め方”が違う。
逃げ場を削る。
間を潰す。
積み上げたものを、
最後まで通すための一歩。
――ギィンッ!!
刃が噛み合う。
童磨の手が、
ほんのわずかに遅れる。
「……あれ?」
小さな声。
初めての、
明確な違和感。
しのぶの突きが、
深く入る。
血が、
わずかに散る。
だが――
「うーん、これもダメだ足りないね」
軽い声が、
すぐ近くで落ちる。
抜ける。
崩れない。
止まらない。
童磨の身体は、
まだ“終わっていない”。
バッ――
(……斬られた!?)
「頸、斬ればいいのに」
「あー無理かあ、小さくて可愛いから」
しのぶの呼吸が、
さらに浅くなる。
肺が軋む。
それでも、
目は揺れない。
(足りない)
分かっている。
(なら)
次の一歩。
迷いはない。
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童磨が、
わずかに首を傾げる。
「ねぇ」
「なんで、そんなに来れるの?」
純粋な疑問。
理解できないものを見る目。
しのぶは答えない。
ただ、
もう一度踏み込む。
その一歩が、
さらに深くなる。
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少し離れた場所。
伊之助が、
梁を蹴っていた。
「……近ぇぞ」
匂いが、
濃くなる。
血。
鬼。
それと――
胸の奥を、
ざらつかせる何か。
思い出せない。
だが、
離れない。
「チッ……!」
加速する。
天井から壁へ。
壁から廊下へ。
無理やり距離を詰める。
その先で何かが起きている。
それだけは、
確信できた。
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別の方向から。
カナヲもまた、
同じ“歪み”へ向かっていた。
速くはない。
だが、
止まらない。
選び続ける足取りで、
確実に近づいていく。
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そして。
その中心で。
しのぶの刃が、
再び踏み込む。
その一歩は――
もう、
戻ることを考えていなかった。
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第九十六話 終