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遅くはない。
だが――足りていない。
しのぶの刃は、
確かに届いている。
肉を貫き、
毒を流し込み、
削っている。
それでも。
「うん、やっぱりダメだね」
童磨が笑う。
「効いてるのは分かるよ」
「でも、それだと俺を“殺せない”よ」
事実だった。
毒は回っている。
だが――致命にならない。
再生が、
すべてを上回る。
しのぶの呼吸が、
浅く揺れる。
肺が軋む。
視界が、
わずかに霞む。
削られている。
確実に。
逃げ場はない。
「ねぇ」
童磨が首を傾げる。
「なんでまだ立てるの?」
「キミ本当に人間?」
純粋な疑問。
理解できていない目。
しのぶは答えない。
必要がない。
(足りない)
分かっている。
(このままでは届かない)
それでも。
踏む。
詰める。
通す。
積み上げてきたものを、
一つも崩さず、
最後まで繋げる。
それだけ。
だが――
それでもなお。
届かない。
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童磨の扇が、
ゆるく振られる。
――ドッ
衝撃。
しのぶの身体が、
大きく弾かれる。
橋を滑る。
壁にぶつかる。
息が抜ける。
それでも。
立つ。
足が、重い。
呼吸が、
遅れる。
それでも――
止まれない。
童磨が、
ゆっくりと近づく。
「もうさ」
「諦めよう?ね?」
優しい声。
本気でそう思っている声音。
しのぶは、
静かに立つ。
膝は震えない。
呼吸は浅い。
だが――
折れていない。
(……そうですね)
心の中で、
静かに肯定する。
(このままでは、勝てません)
現状の確認。
それだけ。
だから。
次で終わらせる。
しのぶの足が、
沈む。
踏み込みが変わる。
速さではない。
距離の潰し方。
逃がさないのではない。
離れないための一歩。
童磨の目が、
わずかに細くなる。
「……ん?」
違和感。
今までと同じ動きのはずなのに、
決定的に違う。
しのぶの刃が、
深く入る。
だが――
引かない。
そのまま。
距離を詰める。
「……え?」
近い。
近すぎる。
しのぶの顔が、
すぐ目の前にある。
その目に、
迷いはない。
「……かわいいね、何してるの?」
童磨の声に、
初めて“分からない”色が混じる。
しのぶは、
静かに言う。
「これでいいんです」
一拍。
「私は――」
「あなたを殺すために、ここに来ました」
童磨の目が、
わずかに見開かれる。
そして――
「偉い!」
涙を浮かべ笑った。
「頑張ったね!全部全部無駄だというのに!」
「そんなに一生懸命になれるなんて、本当にすごい!」
「君はやっぱり俺が喰うに相応しい」
穏やかな声。
「永遠に共に生きよう。」
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その言葉は、
何一つ噛み合っていなかった。
しのぶは、
何も返さない。
ただ。
さらに距離を詰める。
その瞬間。
童磨の中で、
違和感が“形”になる。
「……あれ?」
おかしい。
毒が。
多すぎる。
刃から入った量ではない。
回り方が、
違う。
「……なんで」
理解が、
追いつかない。
しのぶの身体が、
わずかに崩れる。
だが――
離れない。
逃がさないのではない。
“すべてを流し込む”ために。
童磨の目が、
初めて大きく開かれる。
「……え?」
その時、
ようやく理解する。
この人間は――
最初から、
毒だった。
「地獄に堕ちろ」
(あなたは、
そこにしか行けない。)
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遠く。
伊之助の足が、
さらに速くなる。
「……変わった」
空気が違う。
匂いが違う。
何かが、
決定的に動いた。
カナヲもまた、
同じ方向へ進んでいる。
選び続ける。
迷わず。
その先へ。
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しのぶの身体が、
静かに沈んでいく。
童磨の腕の中で。
崩れながらも。
その表情は、
変わらない。
怒りも。
憎しみも。
悲しみも。
外へ出さない。
ただ一つ。
やり切った者の静けさだけが、
そこにあった。
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九十八話 終