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煉獄家の屋敷は、
静かだった。
いや――
正確には、
静かすぎた。
庭の木々は揺れている。
風もある。
鳥の声も遠くには聞こえる。
なのに、
家の中だけが音を失っている。
炎柱・煉獄杏寿郎の死は、
この家から
あまりにも大きなものを奪っていた。
その不在は、
熱の消失として残る。
火が消えた後の炉のように。
まだ形はあるのに、
もう同じ温度には戻らない。
煉獄槇寿郎は、
縁側に座ったまま盃を傾けていた。
昼だというのに酒臭い。
いや、
もはや時間など関係なかった。
朝も昼も夜も、
最近はどれも似たようなものだった。
杏寿郎が死んだ。
その事実だけが、
ずっと喉の奥に引っかかっている。
咀嚼もできず、
吐き出すこともできない。
そんな時間だった。
その時、
廊下の向こうから足音がした。
軽くはない。
だが、
必要以上に重くもない。
無駄のない歩き方。
槇寿郎は盃を置きもせず、
鬱陶しげに視線だけを向ける。
現れたのは、
鬼殺隊の隊服に深紺の羽織を纏った男だった。
若い。
だが、
立ち方に妙な静けさがある。
門弟でもなければ柱でもない。
それでも、
槇寿郎には見て分かった。
ただの隊士ではない。
男は廊下の端で足を止め、
短く頭を下げた。
「煉獄様」
声も静かだった。
槇寿郎は面倒そうに目を細める。
「……誰だ」
男は顔を上げる。
「真壁堅と申します」
その名に、
槇寿郎の眉がわずかに動いた。
聞いたことがないわけではない。
杏寿郎が何度か、
報告の流れで口にしたことがあった気がする。
柱ではない。
継子でもない。
だが、
現場の隊士を異質なほど生き残らせる甲の隊士がいる――と。
槇寿郎は盃を口に運びながら、
ぞんざいに言った。
「何の用だ」
真壁は余計な前置きをしなかった。
「先日の任務について、
報告書には残りきらない部分をお伝えに参りました」
槇寿郎の目がわずかに細くなる。
先日の任務。
無限列車。
その言葉を、
誰かの口から聞くたびに
胸の奥がざらつく。
槇寿郎は不機嫌を隠さずに吐き捨てた。
「報告ならもう聞いた」
「はい」
「なら帰れ」
それで終わる話のはずだった。
だが、
真壁は帰らなかった。
無礼というほどではない。
ただ、
必要があるからそこにいるという顔をしていた。
それが少しだけ癪に障る。
槇寿郎は苛立ち混じりに言う。
「……何だ」
真壁は数秒だけ黙ってから、
静かに答えた。
「お伝えすべきことがあると判断しました」
その言い方は、
妙に感情がない。
だが、
その分だけ誤魔化しもない。
槇寿郎は鼻で笑った。
「今さら何を伝える」
真壁は視線を落とさずに言った。
「杏寿郎殿は、
最後まで隊士たちを守る形で戦われたそうです」
その一言に、
槇寿郎の指先がぴくりと止まる。
真壁は続ける。
「現場にいた隊士の話を聞きました」
「竈門炭治郎、我妻善逸、嘴平伊之助」
「三名とも、
あの場で杏寿郎殿が前に立ち続けたことを
強く覚えていました」
槇寿郎は何も言わない。
盃を持つ手に、
わずかに力が入る。
真壁の声は変わらない。
「守るために前へ出た」
「最後までその形を崩さなかった」
「それが、彼らの見た杏寿郎殿だったそうです」
槇寿郎は黙ったまま、
庭の方を見る。
風が吹く。
木々が揺れる。
何も変わらないような顔をして、
世界だけが勝手に進んでいく。
しばらくして、
槇寿郎は低く言った。
「……そうか」
短い。
それだけだった。
だが、
その一言には
飲み込めないものがいくつも混ざっていた。
真壁はそれ以上、
無駄に慰めることはしなかった。
そこが、
槇寿郎には少しだけありがたかった。
安っぽい励ましも、
綺麗な言葉も、
今は一つも欲しくなかったからだ。
沈黙が落ちる。
やがて槇寿郎は、
真壁の方を見もせずに言った。
「……お前、甲だと言ったな」
「はい」
「今の甲はどの程度だ」
その問いは、
試すようでもあり、
吐き捨てるようでもあった。
本来なら、
まともに答える必要のない物言いだ。
だが真壁は、
少しも揺れずに答えた。
「柱には及びません」
即答だった。
槇寿郎はそこで初めて、
ほんの少しだけ真壁の方を見る。
真壁は続けた。
「ですが、
戦場を崩さずに保つことはできます」
その答えは、
妙に引っかかった。
普通ならもっと別のことを言うだろう。
何体斬ったとか、
どれだけ生き延びたとか、
どれだけ速いとか、強いとか。
そういう話ではないのか。
槇寿郎は不機嫌そうに眉を寄せる。
「……何だそれは」
真壁は静かに答えた。
「隊士が死ぬ時は、
強さで負ける前に
崩れることが多いです」
槇寿郎は黙る。
真壁は続ける。
「呼吸」
「足場」
「判断」
「恐怖」
「誰か一人が崩れると、
そこから全体が崩れます」
「私はそれを、
なるべく止めるようにしています」
槇寿郎はそこでようやく、
盃を置いた。
その言葉は、
理屈としては分かる。
だが、
若い隊士が口にするには妙に重かった。
真壁はさらに続ける。
「強い者が前に出ることは必要です」
「ですが、
前に出る者が倒れた時に
後ろが総崩れになれば、
守れるものも守れません」
「なので私は、
後ろが崩れないように立つことを
先に考えています」
槇寿郎はしばらく何も言わなかった。
その考え方に、
覚えがあったからだ。
杏寿郎もまた、
ただ前へ出るだけの男ではなかった。
前へ出ながら、
後ろを死なせない男だった。
それは、
単純な強さだけでは足りない。
槇寿郎はそこで初めて、
目の前の若い隊士を少しだけ見直した。
派手さはない。
熱さも前面には出さない。
だが、
芯の置き方が妙に実戦的だ。
こういう隊士は、
たしかに現場で効く。
槇寿郎は低く言う。
「……杏寿郎が口にしていた」
真壁は黙って聞く。
「柱ではないが、
妙に場を崩さない隊士がいると」
真壁の表情は変わらない。
槇寿郎は少しだけ視線を外し、
吐き捨てるように続けた。
「お前のことか」
「おそらくは」
それだけだった。
変に謙遜もしない。
誇りもしない。
ただ事実だけを返す。
その返し方が、
槇寿郎には少しだけ面白くなかった。
だが同時に、
嫌いでもなかった。
しばらくして、
槇寿郎は低く言った。
「……呼吸は何だ」
真壁は少しだけ間を置いて答える。
「礎の呼吸です」
槇寿郎の眉がわずかに動く。
聞いたことのない名だった。
「水の呼吸を基礎に、
岩の呼吸の重さを取り入れた独自の派生です」
「崩れないこと、
受け止めること、
乱れを止めることを主軸にしています」
その説明は簡潔だった。
だが、
槇寿郎には十分だった。
なるほど、と内心で思う。
それなら分かる。
目の前の男の立ち方と、
妙に一致している。
炎のように押し切るわけではない。
雷のように穿つわけでもない。
だが、
崩れない。
そして、
崩れたものを立て直す。
槇寿郎は少しだけ目を細めた。
「つまらん呼吸だな」
吐き捨てるような言い方だった。
だが、
真壁は気を悪くした様子もなく、
ただ短く答えた。
「はい。派手ではありません」
その返答に、
槇寿郎はほんの少しだけ口元を歪める。
つまらん。
だが――
現場では、そういうものほど怖い。
それを、
槇寿郎はよく知っていた。
しばらくの沈黙のあと、
槇寿郎は再び盃を取る。
もう話は終わりでいい。
そう思っていた。
だがその前に、
真壁が静かに言った。
「煉獄様」
槇寿郎は鬱陶しげに目だけ向ける。
真壁は短く言った。
「杏寿郎殿が守ったものは、
まだ前に進もうとしています」
その一言に、
槇寿郎の胸の奥が
鈍く痛んだ。
炭治郎たちの顔など知らない。
だが、
杏寿郎が命を賭して守った若者たちが、
まだ折れていないということだけは分かった。
それは、
救いなのかもしれなかった。
あるいは、
余計に苦しいだけなのかもしれなかった。
槇寿郎は答えない。
答えられない。
真壁も、
それ以上は何も言わなかった。
やがて短く一礼し、
そのまま踵を返す。
去っていく深紺の背中を、
槇寿郎は黙って見ていた。
柱ではない。
だが、
軽くもない。
ああいう者が後ろにいるなら、
たしかに若い隊士は生き残るだろう。
杏寿郎が、
あの名を覚えていた理由も少しだけ分かった気がした。
真壁の姿が見えなくなってから、
槇寿郎は盃を口に運ぶ。
酒の味は、
相変わらずよく分からない。
だが、
消えた火のあとにも
まだ残る熱があることを、
その日ほんの少しだけ思い出した。
燃え尽きたわけではない。
ただ、
形を変えて残っているものがある。
炎は消えても、
残り火は残る。
それはきっと、
次に進む誰かのためにある。
杏寿郎が遺したものも、
そういうものなのかもしれなかった。
静かな屋敷に、
風が吹く。
揺れる木々の音の中で、
槇寿郎は一人、
長く息を吐いた。
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幕間 終
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