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朝の空気は、
少しだけ乾いていた。
蝶屋敷の庭に差し込む光はやわらかく、
風も穏やかだった。
それでも炭治郎には、
その朝がどこか少し違って感じられた。
理由は分かっている。
止まっていた時間が、
また少しだけ動き出そうとしていたからだ。
縁側の前で、
炭治郎は静かに木刀を握る。
足を置く。
息を整える。
肩の力を抜く。
ここしばらく繰り返してきたことを、
身体が少しずつ覚え始めている。
傷は残っている。
喪失も消えていない。
それでも、
“立てる位置”は前より分かるようになっていた。
炭治郎は小さく息を吐き、
木刀を下ろす。
その時だった。
廊下の方から、
軽い足音が近づいてくる。
「炭治郎くん」
振り返ると、
そこには栗花落カナヲが立っていた。
変わらず静かな表情。
けれど、
その声にはいつもより少しだけ
はっきりした意志があった。
炭治郎は木刀を抱え直す。
「カナヲ」
カナヲは炭治郎の手元を見て、
それから静かに言った。
「訓練、続けてたんだね」
「うん」
炭治郎は少しだけ笑う。
「まだ全然だけど」
カナヲはほんの少しだけ視線を細めた。
「……前より、ちゃんと立ってる」
その言葉に、
炭治郎は少しだけ目を見開く。
それは真壁から言われた時とはまた違う重みがあった。
たぶん、
今の自分を見てくれていた人が
他にもいたのだと分かるからだ。
「ありがとう」
炭治郎がそう言うと、
カナヲはわずかに頷いた。
その時だった。
上空から、聞き慣れた鎹鴉の声が響く。
「任務!! 任務!! カァァ!!」
松衛門だ。
「次の任務の伝令が来たみたい」
炭治郎の表情が変わる。
空気が少しだけ引き締まる。
「……そうか」
ついに来た。
そう思った。
来るとは分かっていた。
鬼は待たない。
誰かが苦しんでいる間にも、
どこかでまた命が失われている。
だからいつまでも、
ここに留まってはいられない。
頭では分かっていた。
それでも、
胸の奥が少しだけ重くなる。
カナヲはそんな炭治郎を見て、
静かに言った。
「怖い?」
炭治郎は一瞬だけ黙った。
誤魔化そうと思えば、
たぶん誤魔化せた。
でも今は、
それをしたくなかった。
「……少し」
そう答える。
「また間に合わなかったらって、
ちょっと思う」
その言葉は、
思っていたよりも素直に出た。
カナヲは何も言わない。
ただ、
炭治郎が続きを話すのを待っていた。
炭治郎は少しだけ視線を落とす。
「でも」
そこで息を吸う。
「それでも行かなきゃいけないって、
今はちゃんと思える」
その言葉に、
カナヲはわずかに目を細めた。
「……うん」
それだけだった。
でも、
その短い返事は不思議と心地よかった。
無理に励まさない。
無理に強くもさせない。
ただ、
“そうなんだね”と受け取ってくれる返し方だった。
炭治郎は少しだけ肩の力を抜く。
その時だった。
「炭治郎ぉぉぉ!!」
騒がしい声が庭の向こうから飛んでくる。
善逸だった。
その後ろから、
当然のように伊之助も来る。
「何だ何だ! また何か始まるのか!!」
「始まってほしくないよぉぉぉ!!」
二人はそのまま炭治郎の前まで来ると、
善逸が息を切らしながら叫んだ。
「聞いた!? 次の任務来たって!!」
「今ちょうど聞いたよ」
「嫌だよぉぉぉ!! まだ心の準備ができてないよぉぉぉ!!」
「お前に準備できる時なんか一生来ねぇだろ!」
伊之助が即座に言い返す。
善逸は「ひどい!」と叫び、
伊之助は「事実だ!」と胸を張る。
そのやり取りを見て、
炭治郎は思わず少しだけ笑った。
不思議だった。
前なら、
“任務”という言葉を聞いた瞬間、
もっと胸の奥が重く沈んでいた気がする。
でも今は違う。
怖さはある。
不安もある。
それでも、
一人ではないと分かっている。
そのことが、
思っていた以上に大きかった。
善逸はまだ騒ぎながら、
ふと炭治郎の手元の木刀に気づく。
「うわ、またやってたの!?」
「うん、少しだけ」
「何でそんなに真面目なの!? 俺なんか今、心の呼吸しかしてないのに!!」
「それ呼吸できてないだろ!」
炭治郎が思わず突っ込む。
伊之助が横から鼻を鳴らした。
「よし! なら次は俺とやれ!」
「何でそうなるんだよ!」
その時、
少し離れた廊下の角から、
静かな足音が近づいてきた。
その場の空気が、
ほんの少しだけ整う。
炭治郎は振り返る。
真壁だった。
深紺の羽織を纏い、
いつものように大きな気配もなくそこに立っている。
善逸はその姿を見るなり、
露骨に肩を跳ねさせた。
「うわっ」
「おはようございます」と真壁が言う。
「お、おはようございますぅ……」
「声が小さいですね」
「朝から元気出ないんですぅ!!」
真壁は善逸の返答をそのまま受け流し、
炭治郎の方を見る。
「伝令は聞きましたか」
「はい」
炭治郎は頷く。
真壁は数秒だけ炭治郎を見て、
それから短く言った。
「……良い顔をしてますね」
炭治郎は少しだけ目を見開く。
「えっ」
「任務前の顔としては、
前より整っています」
善逸が横で小さく呟く。
「評価基準が怖いんだよなぁ……」
伊之助はよく分かっていない顔をしていたが、
炭治郎はその言葉をしっかり受け取っていた。
前より整っている。
それは、
ここまでの時間が
無駄ではなかったということだ。
炭治郎は静かに頷いた。
「ありがとうございます」
真壁はそれに対して、
特に大きく返すことはしなかった。
ただ、
いつものように事実を確認するような声で言う。
「では、
忘れないでください」
炭治郎は顔を上げる。
真壁は続ける。
「怖いと思う時ほど、
足元から」
その言葉に、
炭治郎の胸の奥が静かに熱を持つ。
何度も聞いた言葉だ。
でも今は、
最初に聞いた時よりずっと深く分かる。
「はい」
炭治郎はしっかり頷いた。
「焦らないで、
立て直してから動きます」
その返答に、
真壁はほんの少しだけ目を細めた。
「ええ」
短い。
だが、
確かに“届いた”返事だった。
その時、
カナヲが静かに言った。
「……行く前に、
みんなで朝ごはん食べるって」
善逸の目が一瞬で輝く。
「食べる!!」
「お前さっきまで死にそうな声出してただろ!」
「飯は別!!」
伊之助も「食うぞ!!」と勢いよく乗る。
一気に空気が崩れ、
庭先はまたいつもの騒がしさに戻った。
炭治郎はその様子を見ながら、
ふと静かに思う。
また前へ出る。
また鬼と戦う。
また、
間に合うか分からない場所へ行く。
それでも今は、
前より少しだけ分かっていることがある。
守るために立つこと。
崩れないように整えること。
そして、
崩れそうになっても
戻れる場所を知っていること。
それがあるだけで、
人は少しだけ強くなれる。
炭治郎は木刀を見下ろし、
それから静かに握り直した。
強くなりたい。
その願いは変わらない。
でも今の自分は、
ただ強くなりたいのではない。
守れるようになりたい。
ちゃんと、
届くようになりたい。
その形が、
少しずつ見え始めていた。
朝の光が、
蝶屋敷の庭に静かに差し込んでいる。
その中で炭治郎は、
小さく、しかし確かに前を向いた。
次の任務へ。
もう一度、
前へ。
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第十一話 終
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