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静かだった。
蝶屋敷の廊下。
窓から差し込む朝の光だけが、
白く床へ落ちている。
戦いは終わった。
鬼はいない。
もう、
夜に怯える必要もない。
それなのに。
身体だけが、
未だ戦場のままだった。
伊黒小芭内が、
ゆっくりと目を開ける。
視界は、
ぼやけている。
右目は、
ほとんど見えない。
身体中が痛む。
呼吸をするだけで、
肋が軋む。
それでも。
生きている。
その事実に、
しばらく実感が追いつかなかった。
「……」
天井を見たまま、
息を吐く。
無惨戦。
夜明け。
朝日。
そして――
自分は、
死んでいない。
その時。
静かな足音。
障子が、
少しだけ開く。
「起きてたの?」
甘露寺蜜璃だった。
包帯だらけ。
右腕には添え木。
顔色も、
決して良くない。
それでも。
笑っていた。
伊黒の目が、
僅かに揺れる。
「……何故動いている」
「伊黒さんも動いてるじゃない」
「俺は今起きただけだ」
「私も今来ただけです」
即答。
伊黒が、
小さく息を吐く。
そのやり取りだけで、
少しだけ現実感が戻る。
甘露寺が、
静かに椅子へ座る。
少しだけ沈黙。
無理に埋めるような空気ではない。
風が、
窓を揺らしている。
甘露寺が、
ふと小さく言う。
「……生きてましたね」
伊黒は、
すぐには返さない。
やがて。
静かに口を開く。
「……ああ」
短い。
だが。
その一言に、
色々なものが混ざっていた。
安堵。
戸惑い。
信じられなさ。
そして。
ほんの少しの、
願い。
本来なら。
ここには、
もう時間が残っていなかった。
痣。
赫刀。
限界を超えた戦い。
とうに命は燃え尽きている。
だが。
あの戦場は、少しだけ違った。
真壁が止めていた。
悲鳴嶼が受けていた。
全員で、削り続けていた。
だから。ほんの少しだけ。
未来へ、届いた。
甘露寺が、
自分の手を見る。
まだ震えている。
力も、
完全には戻らない。
痣の痕も、
薄く残っている。
医師からも言われていた。
「寿命への影響は、
おそらく残るでしょう」
完全な無傷ではない。
身体は、
確実に削れている。
でも。
生きている。
甘露寺が、
小さく笑う。
「なんだか、不思議ですね」
「何がだ」
「ずっと、“死ぬまで戦う”しか考えてなかったから」
伊黒の目が、
僅かに揺れる。
それは、
自分も同じだった。
生き残る未来など、
考えていなかった。
考える資格もないと思っていた。
だから今。
朝を迎えていること自体が、
どこか現実味がない。
甘露寺が、
窓の外を見る。
庭。
風。
朝日。
鬼のいない世界。
「……綺麗ですね」
小さく。
本当に小さく。
そう呟く。
伊黒は、
その横顔を見る。
戦いの最中、
何度も血に塗れていた人。
泣きそうになりながら、
それでも最後まで前へ出続けた人。
その人が今。
穏やかな朝を見ている。
伊黒の喉が、
少しだけ詰まる。
「……甘露寺」
「はい?」
伊黒は、
少しだけ目を伏せる。
言葉を選ぶように。
珍しく、
迷うように。
そして。
静かに言った。
「生きていてくれて、良かった」
甘露寺の目が、
大きく開かれる。
一拍。
そのあと。
ふわりと、
笑った。
泣きそうな顔で。
でも、
嬉しそうに。
「はい」
短い。
それだけ。
だが。
十分だった。
廊下の向こう。
隠達が忙しく動いている。
炊き出しの匂い。
誰かの笑い声。
泣き声も、
まだ少し残っている。
失ったものは、
戻らない。
傷も残る。
寿命も、
きっと少し削れている。
それでも。
朝は来た。
伊黒が、
静かに窓の外を見る。
そして。
今度は、
少しだけ自然に言った。
「……悪くない朝だな」
甘露寺が、
隣で笑う。
「はいっ」
朝の光が、
静かに二人へ落ちていた。
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蝶屋敷の中庭。
昼前の陽射しが、
静かに石畳を照らしている。
戦いが終わってから、
しばらく経った。
まだ包帯姿の隊士も多い。
だが。
空気は、
確かに変わっていた。
誰も、
夜を警戒していない。
それだけで、
庭の静けさが違う。
縁側に、
伊黒小芭内と甘露寺蜜璃が座っている。
湯呑から、
白い湯気が立っていた。
甘露寺が、
両手で湯呑を包む。
「なんだか、こういうの久しぶりですねぇ」
「そうか?」
「そうですよぉ」
伊黒は、
少しだけ視線を逸らす。
確かに。
“何も起きていない時間”
というもの自体が、
久しかった。
任務。
鬼。
負傷。
死。
ずっと、
その繰り返しだった。
今は違う。
風が吹いているだけだ。
それが、
妙に落ち着かない。
「おーおー」
声。
軽い。
よく通る。
「随分甘ぇ空気出してんじゃねぇか」
宇髄天元だった。
包帯姿。
それでも無駄に派手だ。
片手に盆。
団子まで持っている。
甘露寺の目が、
少し輝く。
「わぁ、お団子!」
「おう。差し入れだ」
宇髄が、
にやりと笑う。
「お前ら、生き残った途端わかりやす過ぎんだろ」
伊黒の眉間に、
皺が寄る。
「何の話だ」
「はいはい」
宇髄が、
わざとらしく頷く。
「“生きてて良かった”だの、“悪くない朝”だの」
「聞こえていたのか貴様」
「聞こえるだろ、あんだけしっとりしてりゃ」
甘露寺が、
一気に赤くなる。
「えっ!? あっ、あの、それは、その……!」
宇髄は、
面白そうに笑う。
「いやぁ、青春だねぇ」
「違う!!」
伊黒が即答する。
だが。
耳まで赤い。
宇髄が、
さらに笑いそうになった時。
別方向から、
静かな声。
「別に違わないでしょう」
三人の視線が向く。
そこにいたのは、
真壁だった。
左袖は空。
まだ包帯も残っている。
だが、
立ち姿は変わらない。
宇髄が、
思わず吹き出す。
「お前、そこ真正面から行くのかよ」
真壁は、
少し首を傾げる。
「事実では?」
伊黒が、
珍しく言葉に詰まる。
甘露寺は、
顔を覆っている。
宇髄が、
腹を抱えて笑い始める。
「ハハッ! お前ほんと容赦ねぇな!」
「……?」
真壁は、
本当に分かっていない顔をしていた。
少しして。
四人で、
縁側へ座る。
団子。
茶。
風。
それだけの時間。
宇髄が、
ふと空を見る。
「平和ってのは、妙に暇だな」
「派手柱らしからぬ発言ですね」
真壁が返す。
「うるせぇ」
だが。
宇髄は少し笑っていた。
「でもまぁ、悪くねぇ」
甘露寺が、
静かに頷く。
伊黒も、
何も言わない。
否定しない。
それだけで十分だった。
真壁が、
湯呑を持つ。
ふと。
視線だけが、
庭を巡る。
出入口。
塀。
人の流れ。
それを見た宇髄が、
少しだけ笑う。
「まだ見るか」
真壁は、
小さく息を吐いた。
「癖ですね」
「まぁ、すぐには抜けねぇよな」
宇髄の声は、
軽い。
だが。
どこか実感が混じっていた。
失ったものは多い。
傷も残った。
身体も、
元通りではない。
それでも。
こうして、
昼の縁側で団子を食べている。
それだけで、
十分すぎるほどだった。
甘露寺が、
団子を頬張りながら笑う。
「美味しいです!」
宇髄が、
得意げに頷く。
「だろ? 派手に美味ぇ店選んだからな」
伊黒が、
小さく息を吐く。
その横顔は。
以前より、
ほんの少しだけ柔らかかった。
縁側へ、
穏やかな昼の光が落ちていた。
百二十七話 完