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朝食を終えた後。
蝶屋敷は、
少しだけ静けさを取り戻していた。
その静けさの中で、
炭治郎は
蝶屋敷の門前に1人立っていた。
背には木箱。
腰には日輪刀。
任務へ向かう支度は、
もう整っている。
あとは、
ここを出るだけだった。
炭治郎はゆっくりと息を吸う。
胸の奥には、
まだ完全には消えないものがある。
煉獄杏寿郎のこと。
あの日の悔しさ。
間に合わなかった感覚。
思い出せば今でも、
胸の奥が少しだけ重くなる。
でも――
それに押し潰されるだけでは、
もうなくなっていた。
炭治郎は静かに息を吐く。
足元に意識を置く。
肩の力を抜く。
呼吸を整える。
それはここしばらく、
何度も何度も繰り返してきたことだった。
派手な変化ではない。
劇的に強くなったわけでもない。
それでも、
前の自分とは少しだけ違う。
そう思えるだけのものが、
今の身体には残っていた。
庭の向こうで、
小さく砂利を踏む音がした。
炭治郎が顔を上げる。
深紺の羽織を纏った男が、
静かにこちらへ歩いてきていた。
真壁堅。
その姿を見た瞬間、
炭治郎の胸の内が
少しだけ落ち着くのを感じる。
「真壁さん」
「二度目になりますね」
短いやり取りだが、これだけで
朝の空気が少し整うような気がした。
真壁は炭治郎の前で足を止めると、
いつものようにまず立ち方を見た。
肩。
呼吸。
重心。
視線。
一つ一つを確かめるように、
静かに見ている。
炭治郎は少しだけ背筋を伸ばす。
やがて真壁が言った。
「……大丈夫そうですね」
その一言に、
炭治郎は少しだけ目を見開く。
「本当ですか」
「はい」
真壁は飾らずに答える。
「万全ではありません」
「ですが、
崩れたままの顔ではないです」
炭治郎はその言葉を聞いて、
小さく息を吐いた。
それで十分だった。
完璧じゃなくていい。
傷も不安も残ったままでいい。
それでも、
“崩れたままではない”と言ってもらえることが、
今は何よりありがたかった。
炭治郎は小さく頭を下げる。
「ありがとうございます」
真壁は短く頷いた。
「今日は見送りだけです」
その言い方が少しだけ真壁らしくて、
炭治郎はほんの少しだけ笑う。
「結果的には、ですか?」
真壁はわずかに目を細めた。
「そうですね」
その返答に、
炭治郎は思わず少しだけ笑ってしまう。
あの日、
無限列車へ向かう朝も
こんなふうに話したことを思い出した。
あの時の自分は、
今よりもっと足元が見えていなかった。
不安も焦りも、
全部そのまま抱えていた。
でも今は違う。
少なくとも、
“そのままでは駄目だ”と知っている。
それだけでも、
前とは違うのだと思えた。
少しの沈黙のあと、
炭治郎は静かに口を開く。
「俺、
まだ全然足りないです」
真壁は何も言わずに聞いている。
炭治郎は続ける。
「強くもなれてないし、
ちゃんと守れるともまだ言えないし……」
「たぶん、
また迷うと思います」
それは、
弱音ではなかった。
今の自分をそのまま言葉にしただけだった。
真壁は少しだけ視線を落とし、
それから静かに答える。
「ええ」
短い返事。
だが、
否定も慰めもない。
だからこそ炭治郎は、
続きを言えた。
「でも」
炭治郎は木箱の重みを背中に感じながら、
しっかりと前を向く。
「前みたいに、
崩れたまま走らないようにはします」
「怖い時ほど、
足元から見ます」
「立て直してから、
動きます」
その言葉は、
誰かから借りたものではなかった。
ここまでの時間の中で、
少しずつ自分の中に落ちてきたものだった。
真壁はしばらく炭治郎を見ていた。
やがて、
ほんのわずかに目を細める。
「はい」
その一言が、
静かに胸へ落ちる。
認められた、というより――
ちゃんと届いた。
そう思えた。
真壁は続ける。
「それができれば、
簡単には崩れなくなります」
炭治郎は静かに頷く。
その言葉を、
今は前よりずっと信じられる気がした。
その時だった。
廊下の方から、
ばたばたと慌ただしい足音が近づいてくる。
「炭治郎ぉぉぉ!!」
善逸だった。
案の定、
その後ろから伊之助も来る。
「おい置いてくなよ!!」
「置いてかねぇよ!」
善逸は炭治郎の前まで来るなり、
半泣きで叫んだ。
「本当に行くの!? もう行くの!? 早くない!?」
「任務なんだから当たり前だろ!」
「心の準備が追いついてないんだよぉぉ!!」
伊之助が鼻を鳴らす。
「そんなもん行きながら作れ!!」
「雑すぎるだろ!!」
炭治郎は思わず笑ってしまう。
騒がしい。
でも、
この騒がしさももう
自分を支えるものの一つなのだと思った。
その後ろから、
静かな足音が続く。
カナヲだった。
そのさらに後ろには、
アオイと三人娘の姿も見える。
蝶屋敷のみんなが、
それぞれの距離でここに来ていた。
大げさな見送りではない。
でも、
確かに送り出そうとしてくれている。
そのことが、
炭治郎にはひどく温かかった。
アオイが腕を組んだまま言う。
「任務だからって、
無茶しないでよ」
「はい」
炭治郎が素直に頷くと、
アオイは少しだけ言葉に詰まり、
そっぽを向いた。
「……ちゃんと治りきってないんだから」
その言い方に、
善逸がすぐさま便乗する。
「そうだよ!! 俺たち全員もっと休んだ方がいいって!!」
「お前はいつでも休みたいだけだろ!」
伊之助が即座に突っ込む。
カナヲは少し離れた場所で、
静かに炭治郎を見ていた。
その視線に気づいた炭治郎が目を向けると、
カナヲはほんの少しだけ頷く。
“行ってらっしゃい”
言葉はなくても、
そう伝わった気がした。
炭治郎も小さく頷き返す。
その時、
真壁が一歩だけ後ろへ下がる。
前に出るのではなく、
送り出す位置へ戻る動きだった。
炭治郎はそれを見て、
少しだけ胸が熱くなる。
この人はたぶん、
ずっとこうやってきたのだろう。
前へ出る者の、
少し後ろで。
崩れないように、
送り出す。
真壁は炭治郎を見る。
「竈門君」
「はい」
「持っていけるものだけで十分です」
炭治郎は少しだけ目を見開く。
真壁は静かに続ける。
「全部を背負って行こうとしないでください」
「持ちきれない重みは、
足元を崩します」
風が吹く。
朝の空気が、
静かに頬を撫でる。
炭治郎はその言葉を、
胸の奥でゆっくりと受け止めた。
守れなかったもの。
悔しさ。
怖さ。
焦り。
全部を消すことはできない。
全部を置いていくこともできない。
でも、
全部を一度に抱え込む必要もない。
今の自分に持っていけるものだけを、
ちゃんと持っていけばいい。
それは、
今の炭治郎にとって
とても大事な考え方だった。
炭治郎はしっかりと頷く。
「……はい」
「行ってきます」
その言葉は、
前より少しだけ
真っ直ぐに言えた気がした。
真壁は短く頷く。
「気をつけて」
それだけだった。
派手な言葉はない。
でも、
その一言で十分だった。
炭治郎は一歩踏み出す。
善逸が騒ぎながらついていき、
伊之助がその横を勢いよく走り抜ける。
朝の光の中へ、
三人の足音が伸びていく。
蝶屋敷の門が近づく。
その直前、
炭治郎は一度だけ振り返った。
そこには、
みんなの姿があった。
そしてその少し後ろに、
深紺の羽織を纏った男が
静かに立っている。
大きく手を振るわけでもない。
何かを叫ぶわけでもない。
ただ、
崩れない位置に立っている。
その姿が、
妙に胸に残った。
炭治郎は小さく頭を下げる。
真壁もまた、
ほんの少しだけ頷いた。
門を出る。
風の匂いが変わる。
屋敷の外の空気は、
少しだけ冷たくて広い。
任務が待っている。
何が起こるかは分からない。
怖さがなくなったわけではない。
迷わなくなったわけでもない。
それでも今は、
前より少しだけ違う。
炭治郎は静かに息を吸う。
足元を感じる。
呼吸を整える。
それから、
まっすぐ前を見る。
持っていくものは、
もう決まっていた。
焦らないこと。
崩れたまま走らないこと。
守るために立つこと。
そして――
傷を抱えたままでも、
前へ進めるということ。
それを胸の中で確かめながら、
炭治郎は再び歩き出す。
次の戦いへ。
次の守るべき場所へ。
ここで受け取ったものを、
今度は自分の足で持っていくために。
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第十二話 終
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