鬼滅の刃 ― 礎 ―   作:【規制済み】

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第十九話 ― 輪郭

 

朝になっても、

店の空気は完全には緩まなかった。

 

夜の熱がそのまま残っているような、

妙に重たい朝だった。

 

炭治郎はまだ薄暗い廊下を歩きながら、

静かに周囲を見ていた。

 

夜が終われば、

少しは張り詰めた空気もほどけるかと思っていた。

 

だが違った。

 

むしろ、

人の少ない朝の方が

隠れていたものが少しだけ見えやすい。

 

笑い声がないぶん、

息遣いの浅さが分かる。

 

足音が少ないぶん、

沈黙の長さが耳につく。

 

炭治郎は桶を持ったまま、

廊下の角を曲がる。

 

すれ違う女たちは

表面上いつも通りに見える。

 

だが、どこか全員が

“見ないようにしている”気配があった。

 

何かを知っているのに、

知らないふりをしているような空気。

 

それが、

この店の奥に薄く張りついている。

 

「炭子」

 

不意に声をかけられ、

炭治郎は顔を上げた。

 

昨日、

最初に声をかけてきた年上の女だった。

 

「はい」

 

「そっちの部屋、掃除終わったら帳場の手伝いもして」

 

「分かりました」

 

女は炭治郎の返事を聞くと、

少しだけ目を細めた。

 

「……あんた、変に落ち着いてるね」

 

炭治郎は一瞬だけ言葉に詰まりそうになる。

 

だが、

そこで無理に取り繕わない。

 

「緊張はしてます」

 

そう答えると、

女はふっと鼻で笑った。

 

「そういうとこだよ」

 

それだけ言って、

また忙しそうに去っていく。

 

炭治郎はその背中を見送りながら、

小さく息を整えた。

 

目立ちすぎるな。

 

探りすぎるな。

 

宇髄の言葉がよぎる。

 

今の一言も、

受け取り方を間違えれば

余計な印象を残しかねない。

 

この場所では、

少しの違和感が

そのまま“浮き”になる。

 

炭治郎は桶を持ち直し、

そのまま言われた部屋へ向かった。

 

帳場の近くは、

思っていた以上に人の出入りが多かった。

 

帳面を運ぶ者。

客の支度をする者。

呼ばれて急いで廊下を渡る者。

 

一見すると慌ただしいだけだ。

 

だが、

その流れの中に

炭治郎はまたあの違和感を見つける。

 

昨日、

視線を逸らした女だった。

 

今度は廊下の端で、

誰かと小声で話している。

 

表情は見えない。

 

だが、

話し終わったあとに

ほんのわずかだけ周囲を確認する仕草があった。

 

自然に見えて、

やはり少しだけ不自然だ。

 

炭治郎は帳面を抱えたまま、

そのまま視線を外した。

 

追わない。

 

今はまだ、

追う方が危ない。

 

ただ、

頭の中に位置だけを残す。

 

廊下の端。

帳場の裏手に近い場所。

人の流れが少し途切れる位置。

 

その時だった。

 

帳場の奥から、

ぴしゃりと鋭い声が飛ぶ。

 

「余計なこと見てないで動きなさい」

 

炭治郎は反射的に姿勢を正した。

 

声の主は、

この店を仕切っているらしい女将だった。

 

年齢は高めだが、

立ち方に隙がない。

 

ただ厳しいだけではない。

 

“崩れ”を許さない目をしている。

 

炭治郎はすぐに頭を下げた。

 

「すみません」

 

女将は数秒だけ炭治郎を見ていたが、

やがて視線を逸らす。

 

「新入りは余計なこと考えなくていい」

 

その言葉は、

ただの叱責にも聞こえる。

 

だが、

炭治郎の胸には少しだけ引っかかった。

 

余計なことを“考えるな”ではなく、

“見ているな”とでも言いたげな目だったからだ。

 

炭治郎はその違和感を胸の奥に残したまま、

言われた通りに手を動かした。

 

昼が近づく頃には、

店の空気も少しだけ緩んでいた。

 

それでも、

完全にはほどけない。

 

炭治郎は裏手の井戸で手を洗いながら、

静かに考える。

 

違和感はある。

 

消えた子の話も、

たぶん本当だ。

 

そしてこの店の中には、

それを知っていて

口を閉ざしている者がいる。

 

問題は、

誰がどこまで知っているのかだ。

 

その時、

すぐ後ろで小さな足音が止まった。

 

振り返ると、

年若い少女が立っていた。

 

この店で働いている子だろう。

 

まだ幼さの残る顔で、

どこか落ち着きなく周囲を見ている。

 

炭治郎が目を向けると、

その子は少しだけ肩を揺らした。

 

「……あの」

 

小さな声だった。

 

「はい」

 

少女はすぐには続けない。

 

何かを言おうとして、

やめようとして、

それでも立ち去れずにいる。

 

炭治郎は急かさず、

ただ待った。

 

すると少女は、

声をさらに落として言った。

 

「昨日、聞いてたでしょ」

 

炭治郎の胸がわずかに強く鳴る。

 

だが顔には出さない。

 

「何のこと?」

 

あえて、

すぐには乗らない。

 

少女は唇を噛んでから、

さらに小さく言った。

 

「……いなくなった子のこと」

 

風が吹く。

 

井戸の水面が、

かすかに揺れた。

 

炭治郎は一瞬だけ、

慎重に呼吸を整える。

 

踏み込みたい。

 

聞きたい。

 

だが、

ここで急けば崩れる。

 

炭治郎は声を落としたまま返す。

 

「知ってるの?」

 

少女はすぐには頷かない。

 

その代わり、

目だけがわずかに揺れた。

 

「……いたの」

 

その一言だけで、

十分だった。

 

噂ではない。

 

本当に、

ここから誰かが消えている。

 

炭治郎の胸の奥で、

違和感が少しだけ輪郭を持つ。

 

少女は続ける。

 

「でも……」

 

その時だった。

 

廊下の向こうから、

誰かの足音が近づいてくる。

 

少女の顔色が一気に変わった。

 

「……ごめん」

 

それだけ言って、

すぐに背を向ける。

 

炭治郎が止める間もなく、

小さな背中は建物の中へ消えていった。

 

足音の主は、

昨日視線を逸らしたあの女だった。

 

炭治郎は反射的に表情を整える。

 

女は炭治郎を見て、

一瞬だけ目を細めた。

 

「何してるの」

 

「手を洗ってました」

 

「そう」

 

短い返事。

 

だがその目は、

やはり何かを測っているようだった。

 

炭治郎は目を合わせすぎず、

自然に桶を持ち上げる。

 

女はしばらくその場に立っていたが、

やがて何も言わずに通り過ぎていった。

 

その背中を、

炭治郎は追わない。

 

追えない、ではなく、

追わない。

 

今はまだ、

その方がいい。

 

けれどもう、

何もないとは思えなかった。

 

誰かが消えている。

 

誰かが知っている。

 

そして、

それを口にしようとすると

空気が変わる。

 

この店の中には、

たしかに何かが沈んでいる。

 

炭治郎は静かに息を吸う。

 

焦るな。

 

崩すな。

 

今は、

輪郭が見え始めたことだけで十分だ。

 

見えないままだったものに、

少しずつ形がついてきている。

 

それを急いで掴みにいく必要はない。

 

見失わなければいい。

 

それだけで、

次に繋がる。

 

昼の光が、

裏手の壁に白く差している。

 

明るいはずなのに、

その奥にはまだ

見えない影が沈んでいた。

 

炭治郎は桶を持ち直し、

何事もなかったように

再び店の中へ戻っていく。

 

違和感は、

もう気のせいではなかった。

 

 

第十九話 終

 

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