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昼を過ぎても、
店の空気はどこか張っていた。
忙しさが増しているはずなのに、
炭治郎には逆に
“何かを誤魔化している”ように感じられる。
笑い声はある。
言葉も飛ぶ。
廊下を行き交う足音も絶えない。
だが、
そのどれもが
どこか薄い膜を一枚噛んでいるようだった。
炭治郎は雑巾を絞りながら、
静かに息を整える。
焦るな。
崩すな。
見失わなければいい。
それだけを胸の中で繰り返しながら、
与えられた仕事を淡々とこなしていた。
そうしているうちに、
昨日から見えてきた店の流れが
少しずつ頭の中で繋がってくる。
誰がよく動くか。
誰が何を避けるか。
誰が、
どこで空気を変えるか。
特に、
あの視線を逸らした女の周りだけ
妙に流れが途切れる。
人が近づいても、
会話が長く続かない。
誰かがその女の名を口にすると、
ほんのわずかに声が落ちる。
炭治郎は床を拭く手を止めずに、
その違和感だけを拾っていた。
その時だった。
廊下の端から、
小さくこちらを窺う気配がする。
顔を上げると、
昨日、
井戸のそばで話しかけてきた少女が立っていた。
炭治郎と目が合うと、
少女はすぐに視線を落とす。
だが、
今度は逃げなかった。
炭治郎は何も言わず、
ただ少しだけ顔を向ける。
少女は周囲を確認してから、
本当にかすかな声で言った。
「……今なら」
それだけだった。
炭治郎の胸の奥が、
静かに強く鳴る。
だが表情は動かさない。
雑巾を桶に戻し、
何事もないように立ち上がる。
少女は先に歩き出した。
足音を立てないように、
早すぎず、
遅すぎず。
炭治郎もその少し後ろをついていく。
廊下を一本、
二本と折れる。
賑やかな表の空気が、
少しずつ遠ざかっていく。
奥へ行くほど、
人の気配が減る。
灯りも少ない。
同じ店の中なのに、
まるで別の場所へ入っていくようだった。
やがて少女は、
廊下の突き当たりに近い一室の前で止まる。
障子は閉まっている。
人気はない。
少女は炭治郎を見ずに言った。
「前まで、
使ってた子の部屋」
その言葉だけで、
十分だった。
炭治郎は静かに障子へ目を向ける。
「今は?」
少女は小さく首を振る。
「いない」
炭治郎は一瞬だけ、
慎重に周囲へ意識を広げた。
足音はない。
人の気配も薄い。
だが、
長居できる空気ではない。
少女はさらに声を落とした。
「急にいなくなったの」
「前の日まで、普通だったのに」
「でも……次の日には、
何もなかったみたいになってて……」
言葉が震えている。
炭治郎はその震えを聞きながら、
自分の中の焦りを押さえた。
ここで一気に聞き出そうとすれば、
この子が崩れる。
それは駄目だ。
炭治郎は低く、
なるべく静かに聞く。
「名前は?」
少女は少しだけ迷ってから言った。
「……とき」
短い名だった。
けれど、
その一言で
“消えた子”がただの噂ではなくなる。
ここにいた。
生きていた。
そして、
今はいない。
炭治郎の胸の奥で、
何かが重く沈む。
少女はさらに言おうとして、
だがすぐに言葉を止めた。
「……ごめん、私」
炭治郎は首を横に振る。
「大丈夫」
それだけ返す。
無理に続きを促さない。
少女はその返しに、
ほんの少しだけ救われたような顔をした。
炭治郎は一度だけ呼吸を整え、
そっと障子に手をかける。
音を立てないように、
わずかに開ける。
中は、
妙に整っていた。
几帳面というより、
“整えられすぎている”。
布団も畳まれている。
棚の上も片づいている。
化粧道具も、
余計な乱れがない。
誰かがいなくなった部屋というより、
"最初から誰もいなかったことにしたい部屋"だった。
炭治郎はその場に踏み込まず、
入口から中を見る。
匂いを探る。
香の残り。
木の匂い。
古い畳の匂い。
それに混じって――
ほんのわずかに、
引っかかるものがある。
鬼の匂い、と言い切るには薄すぎる。
だが、
ただの空き部屋には残らない、
嫌な“抜け”だけがあった。
炭治郎の眉が、
わずかに寄る。
少女が不安そうに聞く。
「……何か、あるの?」
炭治郎はすぐには答えない。
分からないものを、
分かったふりで返したくなかった。
その代わり、
小さく言う。
「……何かを隠した感じがする」
少女の肩がぴくりと揺れた。
その反応だけで、
炭治郎には十分だった。
やはり、
この子も感じていたのだ。
“何もなかった”わけではないと。
その時だった。
廊下の向こうで、
板張りを踏む音がした。
ぎしり。
一歩。
また一歩。
誰かがこちらへ近づいてくる。
少女の顔から一気に血の気が引く。
「……っ」
炭治郎はすぐに障子から手を離した。
開けた隙間を戻す。
呼吸を整える。
今は見つかる方がまずい。
足音は止まらない。
やがて廊下の角から現れたのは、
やはりあの女だった。
視線を逸らした女。
その目が、
炭治郎と少女を順に見る。
一瞬だけ、
沈黙が落ちた。
「……何してるの」
低い声だった。
責めているというより、
確かめるような声。
「掃除の場所を聞いていました」
女の目が、
ほんのわずかに細くなる。
「こんな奥で?」
「私が……」と少女が言いかける。
だが、
その声は途中で弱くなった。
女は少女の方を見たまま、
静かに言う。
「持ち場に戻りな」
その一言で、
少女の身体がこわばる。
炭治郎はその反応を見て、
胸の奥が静かに冷えるのを感じた。
ただの先輩後輩ではない。
この女に対して、
この子は明確に怯えている。
少女は小さく「……はい」とだけ返し、
すぐにその場を離れていった。
去っていく背中を、
炭治郎は追わない。
今は、
それでいい。
女はそのまま炭治郎へ視線を戻す。
「新入り」
「はい」
「余計な場所をうろつかない方がいい」
その言い方は、
忠告にも聞こえる。
だが、
炭治郎にはそれが
“牽制”にしか聞こえなかった。
炭治郎は目を伏せすぎず、
かといって正面から睨み返すこともなく、
自然な位置で答える。
「すみません」
女はしばらく何も言わなかった。
その沈黙が妙に長い。
だがやがて、
小さく鼻を鳴らすと
そのまま廊下の奥へ消えていく。
炭治郎はその背中を見送りながら、
静かに息を吐いた。
今のは危なかった。
一歩踏み込みすぎていれば、
たぶんもっと崩れていた。
だが同時に、
もう確信に近いものもあった。
この店の中には、
たしかに“触れてはいけない場所”がある。
そしてあの女は、
そこに近づくものを止めている。
鬼そのものかは、
まだ分からない。
だが、
無関係ではありえない。
炭治郎は一度だけ、
閉ざされた障子を見た。
そこにはもう、
ただの空き部屋には見えない重さがあった。
消えた子の部屋。
消えた痕跡。
口を閉ざす人たち。
そのすべてが、
少しずつ一つの形へ寄り始めている。
炭治郎は静かに息を吸う。
焦るな。
崩すな。
今は、
ここまででいい。
見えたものを、
落とさず持っておく。
それが、
次に繋がる。
炭治郎は何事もなかったように踵を返し、
再び人の気配がある方へ戻っていく。
華やかな店の中へ。
何もかも隠してしまう、
灯りの下へ。
だがもう――
見られているのは、
炭治郎だけではなかった。
その奥に沈むものの輪郭は、
少しずつこちらを向き始めていた。
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第二十話 終
更新頻度について
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