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夜は深くなるほど、
店の中の音を増やしていった。
笑い声。
三味線。
酒器の触れ合う音。
廊下を行き交う足音。
どれも華やかで、
どれも人の気配に満ちている。
それなのに炭治郎には、
そのすべてが
“何かを覆い隠している”ように感じられていた。
見えている流れの裏に、
別の流れがある。
表に出るための動きと、
見せないための動き。
その二つが、
この店の中で
きれいに重なっている。
だからこそ、
気づかないまま過ぎていく。
だからこそ、
人が消えても
大きな騒ぎにならない。
炭治郎は帳場の近くで
帳面を抱えながら、
静かに息を整えた。
焦るな。
崩すな。
今はまだ、
見えた線を追うだけでいい。
その時だった。
すぐ近くを、
あの少女が足早に通り過ぎる。
炭治郎は反射的にそちらへ意識を向ける。
昨日までより、
明らかに様子がおかしい。
顔色が悪い。
目も落ち着かない。
誰かに呼ばれたようでもないのに、
急いでいる。
――どこへ行く。
炭治郎は帳面を持ったまま、
ほんの一拍だけ考えた。
追うか。
追わないか。
今ならまだ、自然に動ける。
だが、詰め方を間違えれば崩れる。
炭治郎は息を一つだけ整え、
そのまま帳面を持って歩き出した。
急がない。
自然に。
用があるように見せながら、
少女の進む方向へ距離を詰める。
廊下を折れる。
さらにその先。
人通りが少なくなる。
表の賑やかさが、
少しずつ遠のいていく。
やはり奥だ。
炭治郎の胸の奥で、
呼吸が少しだけ深くなる。
少女は途中で一度だけ振り返った。
炭治郎と目が合う。
その瞬間、
少女の目に走ったのは
驚きではなく――
迷いだった。
来ないでほしいのか。
それとも、
来てほしいのか。
そのどちらともつかない揺れを残して、
少女はさらに奥へ進む。
やがて、
昨日見た“消えた部屋”の近くまで来たところで、
少女がぴたりと足を止めた。
その前には、
あの女が立っていた。
視線を逸らした女。
暗い廊下の中で見ると、
その顔は昼よりもずっと冷たく見えた。
少女の肩が、
小さく震えている。
炭治郎は少し離れた角の陰で、
足を止める。
近づきすぎない。
聞き取れるかどうかの、
ぎりぎりの距離。
女の声が、
低く落ちる。
「……何を聞いた」
少女が何か答える。
だが、
小さすぎて聞こえない。
女は一歩だけ距離を詰めた。
「誰に聞いた」
少女の声が震える。
「ち、違……」
その言い方だけで、
炭治郎には十分だった。
責められている。
問い詰められている。
ただの叱責ではない。
口を塞ぐための声だ。
炭治郎の胸の奥が、
強くざわつく。
今すぐ出るべきか。
止めるべきか。
だがその瞬間、
身体の奥で“違う”と引っかかった。
ここで飛び出すのは早い。
今動けば、
この女だけで終わる。
その先が切れる。
炭治郎はぐっと息を抑えた。
苦しい。
だが、
ここで崩れる方が駄目だ。
その時だった。
廊下のさらに奥から、
かすかな音がした。
……ぎし。
木が鳴るような音。
人が歩く足音にしては、
妙に重い。
だが、
ゆっくりすぎる。
女が一瞬だけ、
そちらへ目を向けた。
その反応を、
炭治郎は見逃さなかった。
少女を責めていた空気が、
ほんの一瞬だけ変わる。
警戒。
いや――
確認に近い。
女はすぐに少女から離れ、
低く言った。
「もういい。戻りな」
少女は一瞬だけ目を見開いたあと、
逃げるようにその場を離れた。
炭治郎は陰に身を寄せたまま、
その背中を見送る。
次に女が動く。
今度は少女ではなく、
廊下のさらに奥へ向かって歩き出した。
やはり、
あちらに何かある。
炭治郎の呼吸が、
静かに整っていく。
行くか。
ここまで来て、
見送るのか。
だが、
向こうはすでにこちらを警戒している。
一歩間違えれば、
全部が切れる。
炭治郎は目を閉じずに、
息だけを深く入れた。
足元。
肩の力。
重心。
焦るな。
崩すな。
それから、
音を立てないように
女の後を追う。
奥へ。
さらに奥へ。
灯りは少なくなり、
店の賑やかさが遠くなる。
同じ建物の中なのに、
別の空気に入っていくようだった。
廊下の突き当たり。
そこには、
一見すると何の変哲もない壁と障子しかない。
女は周囲を一度だけ確認すると、
迷いなくその一角へ手をかけた。
次の瞬間――
炭治郎の目がわずかに見開く。
壁だと思っていた部分が、
わずかにずれる。
隠しの引き戸。
その奥に、
さらに暗い空間が口を開けていた。
女はそのまま中へ滑り込む。
音もなく、
姿が消える。
そしてすぐに、
何事もなかったかのように
壁は元へ戻った。
炭治郎は息を止めたまま、
その場を見つめる。
あった。
奥へ続く道が。
この店の中に、
見せないための通路がある。
人の流れから切り離された、
別の道。
それを見た瞬間、
今までの違和感が
一気に繋がる感覚があった。
消えた子。
誰にも見つからない移動。
口を閉ざす空気。
あの女の役割。
全部が、
ここに集まり始めている。
炭治郎は一歩だけ前へ出る。
その時だった。
――ぞわり。
全身の皮膚が、
一斉に粟立つ。
匂いではない。
音でもない。
もっと本能に近いものが、
“ここから先は危ない”と告げていた。
炭治郎の足が、
ぴたりと止まる。
今すぐ行け。
そう思う気持ちはある。
だが、
その一歩は
今までの“見る”とは違う。
ここから先は、
完全に踏み込むことになる。
戻れなくなる可能性がある。
しかも、
一人で。
炭治郎はそこで、
ほんの一瞬だけ歯を食いしばる。
行きたい。
確かめたい。
助けられるなら、
今すぐ助けたい。
だが――
その焦りこそが、
一番危ない。
炭治郎はゆっくりと静かに息を吐いた。
足を戻す。
無理に進まない。
今は、
この入口を見つけたことだけで十分だ。
その判断をした瞬間、
胸の奥にあった熱が
少しだけ冷静な形に戻る。
崩れなかった。
今の自分は、
ちゃんと止まれた。
その事実が、
静かに身体に残る。
その時、
背後で小さな物音がした。
炭治郎が振り返る。
誰もいない。
だが、
気配だけが一瞬残っている。
見られている。
しかも、
今度はさっきまでより近い。
炭治郎は表情を動かさないまま、
自然に廊下を見回す。
だが、
もう何もいない。
気配も、
匂いも、
人の流れに紛れて消えていた。
違う。
これは偶然じゃない。
この店の奥に近づいたことで、
向こうの警戒が更に一段上がった。
炭治郎は静かに息を吸う。
入口は見つけた。
だが同時に、
こちらも確実に見られた。
もう後戻りはできない。
夜の奥で、
三味線の音がかすかに響く。
華やかな灯りの下で、
誰にも気づかれないまま
沈んでいるものがある。
その輪郭は、
もうかなり近い。
炭治郎は何事もなかったように踵を返し、
再び店の明るい方へ戻っていく。
今はまだ、
持ち帰るべきものを持って戻る。
踏み込むのは、
その次だ。
遊郭の夜はまだ終わらない。
そしてその奥には、
まだ踏み込んではいけない闇が
静かに口を開けている。
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第二十二話 終
この後に幕間ございます。30分後に投稿しますのでよろしければそちらもお読み下さい。
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