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善逸は、
最初からこの場所が嫌いだった。
灯りが多い。
人も多い。
声も多い。
笑い声。
足音。
三味線。
酒を注ぐ音。
障子開け閉め。
全部がうるさい。
全部が近い。
なのに――
その下に、
別の音が沈んでいる。
善逸は廊下を歩きながら、
ずっと落ち着かなかった。
耳を塞ぎたくなる。
でも塞げば、
余計に聞こえる。
誰かの泣きそうな息。
押し殺した声。
言いたいのに言えない喉の震え。
そういう音が、
この店のあちこちに
薄く沈んでいる。
見た目は華やかだ。
でも中身は違う。
宇髄の言っていた意味が、
嫌なくらい分かった。
善逸は小さく息を吐く。
「やだなぁ……」
思わず零れた声は、
誰にも聞かれないくらい小さかった。
その時だった。
――とん。
どこか遠くで、
小さな音がした。
善逸の足が止まる。
今のは、
廊下の音じゃない。
人の足音でもない。
もっと重くて、
もっと湿っている。
何かが、
“下”を歩く音。
善逸の背筋が一気に冷える。
「……は?」
もう一度。
――とん。
――とん。
ゆっくりだ。
まるで、
見えない場所を
何かが歩いているみたいに。
善逸は顔を強張らせたまま、
じっと床を見る。
音は、
床の下から響いていた。
「……っ」
嫌な汗が噴き出す。
気のせいじゃない。
いる。
この店のどこかじゃない。
もっと近い。
この建物の、
すぐ下にいる。
善逸は思わず後ずさる。
その瞬間――
ぴたりと、
音が止んだ。
止まった。
いや――
気づかれた。
善逸の喉が引きつる。
聞こえたからじゃない。
向こうも、
こっちに気づいた感じがした。
今、
床の下の何かが
こっちを見た。
そんな気がしてならなかった。
善逸は息を殺したまま、
しばらくその場を動けなかった。
三味線の音が鳴る。
笑い声が響く。
誰かが廊下を走る。
いつも通りの音が、
全部上から被さってくる。
それなのに、
その下にあるものだけが
はっきり分かってしまう。
善逸は青ざめたまま、
震える唇で小さく呟いた。
「……これ、やばい」
ただ怖いだけじゃない。
この店の“下”には、
確実に何かある。
しかもそれは、
隠されている。
聞こえないはずの場所に、
わざと沈められている。
善逸はごくりと唾を飲み込む。
今すぐ逃げたい。
でも、
このまま知らないふりもできない。
炭治郎は、
たぶん何か見つけてる。
伊之助は、
たぶんもうどこか壊しかけてる。
そして自分は――
聞いてしまった。
それが、
一番最悪だった。
善逸は震える足で、
何事もなかったように歩き出す。
だがもう、
足の裏から伝わる感覚まで
気味が悪かった。
灯りの下。
笑い声の下。
この店の底には、
確かに何かがいる。
その音だけが、
耳から離れなかった。
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幕間 ― 壁の向こう side:嘴平伊之助
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伊之助は、
この場所があまり好きではなかった。
狭い。
壁が多い。
天井も低い。
何より、
匂いが多すぎる。
香。
酒。
飯。
人。
化粧。
いろんなものが混ざっていて、
鼻が馬鹿になる。
それが気に入らねぇ。
山なら、
もっと分かりやすい。
獣がいる場所。
風が抜ける場所。
踏み荒らされた土。
全部、
身体で分かる。
でもここは違う。
見えてるのに、
隠れてやがる。
伊之助は廊下を歩きながら、
何度も小さく眉を寄せていた。
気に入らない。
何かが、
ずっと引っかかっている。
その時だった。
ふと、
足が止まる。
「……あ?」
誰もいない廊下の途中だった。
障子。
壁。
灯り。
何もおかしくない。
なのに――
壁の向こうに、
“空き”がある。
伊之助はじっとその場を見る。
部屋の広さ。
廊下の長さ。
柱の位置。
見たままでは、
合わない。
この壁の向こう、
まだ何か入る。
「何だこれ」
伊之助は低く呟く。
目に見えるわけじゃない。
でも分かる。
山の岩場で、
獣が巣穴を隠してる時みたいな感じだ。
そこにあるはずの空間が、
わざと見えなくされている。
伊之助は壁に近づく。
耳を当てるわけでもなく、
鼻を押しつけるわけでもなく、
ただじっとそこに立つ。
すると、
ほんのわずかに分かった。
空気が違う。
壁の向こうだけ、
風が死んでいる。
閉じている。
ただの部屋じゃない。
もっと、
抜け道みてぇな空気だ。
伊之助の目が、
じわりと細くなる。
「……隠してやがるな」
面白い。
そう思った。
壊してみたい。
蹴れば分かる。
ぶち抜けば早い。
そう思った瞬間――
伊之助はぴたりと止まった。
「……いや」
違う。
今それをやると、
全部台無しになる。
宇髄がうるせぇ顔する。
炭治郎もたぶん止める。
善逸は泣く。
たぶん壁の奴も、うるせぇこと言ってくる。
何より、
向こうにいるやつが逃げる。
そこまで考えた時点で、
伊之助は自分でも少しだけむかついた。
「ちっ」
面倒くせぇ。
だが、
今はまだ壊す時じゃない。
それくらいは分かる。
伊之助は壁から離れる。
その時だった。
壁の向こうから、
ほんのわずかに何かが擦れる音がした。
――しゃり。
伊之助の目が鋭くなる。
今のは、
建物の音じゃない。
いる。
この向こうに、
何かがいる。
しかも、
じっとしてやがる。
伊之助は口元をわずかに吊り上げた。
怖いとは思わない。
だが、
気持ち悪い。
こっちを見てる感じがするくせに、
出てこない。
壁一枚向こうで、
息を潜めてやがる。
「いいぜ」
小さく呟く。
「隠れてろ」
今はまだ、
踏み込まない。
だが、
もう見失わない。
それだけは、
伊之助の中ではっきり決まっていた。
華やかな店の奥。
壁の向こう。
誰にも見えない場所に、
何かがいる。
その事実だけが、
妙に腹の底を熱くさせた。
伊之助は何事もなかったように踵を返し、
また賑やかな方へ戻っていく。
灯りの下へ。
人の声の中へ。
だがその奥には、
たしかに“隠された腹”があった。
そしてそこに、
何かがまだ潜んでいる。
それだけはもう、
間違いなかった。
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幕間 終
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