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屋根の上の空気が、
明らかに変わっていた。
さっきまでとは違う。
鬼の女はまだ立っている。
帯もまだ尽きていない。
だが――
もう“余裕”では押し切れていなかった。
割れた屋根の奥。
剥がれた“核”。
そこへ刃が届いたという事実が、
戦場の均衡をはっきりと変えていた。
「……気に入らない」
鬼の女の苛立つ声音が、
夜気の中へ低く落ちる。
その瞬間、
帯が一斉に収束した。
今までのように四方へ散らばらない。
守る。
隠す。
その二つだけに絞られた、
明確な動き。
炭治郎は刀を構えたまま、
その変化を見逃さなかった。
「やっぱり……」
守っている。
帯ではない。
地下でもない。
この鬼自身の、
“本当に斬られたくない場所”を。
宇髄が口元を歪める。
「分かりやすくなったじゃねぇか、オイ」
次の瞬間――
鬼の女の目が、
はっきりと細くなる。
「黙れ」
帯が、
夜空を埋めた。
一斉射出。
数が違う。
今まで以上に、
速く、鋭く、迷いがない。
もはや牽制ではない。
完全な排除。
「こっから行くぜ!」
宇髄が踏み込む。
真正面。
一歩も引かない。
「音の呼吸――」
双刀が唸る。
「弐ノ型――響斬無間!!」
連続する斬撃が、
正面から迫る帯の群れをまとめて切り裂く。
空中で、
帯が火花のように散る。
だがその裂け目を縫うように、
別の帯が横から走る。
「炭治郎!!」
善逸の声。
「右、二本!!
そのあと足元来る!!」
炭治郎の呼吸が、
すっと深く入る。
見る。
選ぶ。
崩さない。
右から来る二本を、
正面からは受けない。
「水の呼吸――参ノ型・流流舞い!!」
流す。
斬る。
滑り込む。
帯の束を最小限で断ち、
足元から這う一撃を紙一重でかわす。
そのまま一歩、
さらに前へ。
鬼の女との距離を詰める。
「また来るぞぉ!!」
善逸が叫ぶ。
「今度は上だ!! 上、三本!!」
「助かる!!」
叫び返した炭治郎の横を、
影が飛んだ。
伊之助だ。
屋根の端から、
ほとんど獣のような軌道で飛び込んでくる。
「おらァ!!」
鬼の女の側面へ、
強引に切り込む。
帯が迎撃に回る。
だが伊之助は、
それを見てむしろ笑った。
「へへっ……やっぱそうだ!!」
斬る気ではなく、
“反応を見に行く”動き。
その狙いを、
炭治郎もすぐに理解した。
守る時だけ、
帯の軌道が変わる。
そこに、
この鬼の急所がある。
「宇髄さん!!」
炭治郎が叫ぶ。
「左から行けます!!」
「応、派手にぶち抜くぞ」
宇髄が応じる。
次の瞬間、
その身体が爆ぜるように前へ出た。
「ド派手に開けろ!!」
その一言に、
炭治郎の迷いはなかった。
必要なのは、
斬り切ることじゃない。
"通すこと"
炭治郎は踏み込む。
帯の群れが、
正面から壁のように立ち上がる。
多い。
厚い。
だが、
全部を相手にする必要はない。
「水の呼吸――」
足元を定める。
肩の力を抜く。
呼吸を深く入れる。
「陸ノ型――ねじれ渦!!」
捻りを伴う斬撃が、
帯の重なりをまとめて弾き崩す。
切るのではなく、
ずらす。
守りの噛み合わせを、
一瞬だけ外す。
その隙間へ――
宇髄が突っ込んだ。
「音の呼吸――」
双刀が閃く。
鬼の女の目が、
明確に揺れる。
「……っ!」
「肆ノ型――響斬乱舞!!」
連続する斬撃が、
帯の守りを正面から叩き割る。
割れた。
帯の守りが、
今度こそ明確に崩れた。
鬼の女の身体が、
初めて大きく後ろへ流れる。
「……あっ」
かすかに、
女の口から声が漏れる。
それは怒りでも、
嘲りでもなかった。
明確な、
“焦り”だった。
炭治郎の胸の奥が、
強く鳴る。
押せている。
今なら届く。
今なら――
その瞬間だった。
鬼の女の顔から、
感情が消えた。
「……もういい」
低い声。
その一言に、
炭治郎の背筋が冷える。
違う。
これは追い詰められた顔じゃない。
何かを、
切り替えた顔だ。
宇髄も気づいたのか、
一瞬だけ目が細くなる。
「……あ?何する気だ」
鬼の女は、
割れた屋根の奥――
あの“核”の方へ手を伸ばした。
「うるさいの、
嫌いなのよ」
その指先が、
脈打つ肉へ触れる。
次の瞬間――
ぞわり、と。
夜気そのものが、
粘ついたように重くなった。
炭治郎の鼻が、
はっきりと反応する。
「……っ!?」
匂いが変わる。
違う。
今までの鬼の匂いじゃない。
もっと濁っていて、
もっと重く、
もっと嫌な――
別の鬼の匂い。
善逸の顔色が、
一気に失せた。
「……やだ」
小さく漏れる声。
耳を押さえるように、
善逸の肩が震える。
「やだやだやだ……これ……っ」
伊之助の笑みも、
この瞬間だけ消えた。
「……何だ今の」
屋根の上の空気が、
完全に変わる。
鬼の女の背後、
割れた奥の“核”が
ゆっくりと膨らみ始めていた。
脈打つ。
膨らむ。
蠢く。
まるで、
中から何かが
押し出されようとしているみたいに。
炭治郎の呼吸が、
わずかに乱れる。
嫌な予感ではない。
ここまでの違和感が、
全部繋がる。
確信だった。
ここまで戦ってきた相手は、
まだ“片側”に過ぎない。
本当に斬るべきものは、
まだ奥にいる。
宇髄が低く吐き捨てる。
「……そういうことかよ」
双刀を握る手に、
さらに力がこもる。
「派手に面倒くせぇな」
鬼の女が、
初めて笑った。
今までのような、
薄い嘲りじゃない。
もっと歪で、
もっと醜い笑み。
「ねぇ、お兄ちゃん」
その呼びかけが、
夜に落ちる。
その瞬間、
割れた“核”の奥から――
何かが、応えた。
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夜の空気が、
どろりと歪む。
屋根の下。
肉の奥。
帯のさらに深いところから、
ゆっくりと、
何かが這い出してくる気配。
骨が軋むような音。
湿った肉が裂けるような音。
それだけで、
全員の身体に緊張が走った。
炭治郎は刀を握り直す。
善逸は青ざめたまま、
それでも逃げていない。
伊之助は低く唸り、
獲物を見る獣の目になっている。
宇髄だけが、
真正面からそれを見据えていた。
「来るぞ」
短い一言。
それだけで、
戦場の意味が変わる。
ここから先は、
もう“帯の鬼を崩す戦い”じゃない。
本体を討つ戦いだ。
割れた奥から、
ぬらりと一本の腕が覗く。
細い。
青白い。
だが、
その腕が屋根にかかった瞬間、
ぞっとするほど濃い殺気が夜に満ちた。
鬼の女が、
嬉しそうに目を細める。
「起きて、お兄ちゃん」
炭治郎の背筋を、
冷たいものが走る。
来る。
今までとは、
比べものにならないものが。
遊郭の夜の上で――
ついに、
本当の“奥”が
姿を現そうとしていた。
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第三十五話 終
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