蝶屋敷の朝は早い。
まだ空気の冷たさが残る頃から、
庭では隠や治療員たちが忙しなく動き始めている。
薬の匂い。
湯気の立つ桶。
誰かの足音。
竹箒の擦れる音。
それらが混じり合って、
戦場とは違う意味での“整った忙しさ”を作っていた。
炭治郎は、縁側に座ったままその光景を見ていた。
傷はまだ痛む。
だが、少しずつ身体は戻ってきている。
善逸は朝から騒がしく、
伊之助は屋根の上で何かと戦っているらしい。
禰豆子は箱の中で静かに眠っていた。
その日、炭治郎の目に留まったのは、
庭の端で何かを運んでいる数人の隠たちだった。
その中心にいる人物を見て、
思わず目を細める。
深紺の羽織。
真壁堅だった。
真壁は、担架を運ぶ隠の一人に短く声をかける。
「右、少し下げてください」
言い方は穏やかで、迷いがない。
別の者には、
「その包帯は後で。先に熱の高い方を」
また別の者には、
「急がなくていいので、落とさないでください」
決して大声ではない。
怒鳴りもしない。
だが、不思議なほど全体が滞らない。
炭治郎は思わず、その様子を見入っていた。
真壁は剣を抜いていない。
鬼と戦っているわけでもない。
それでも、その場には忙しなさが渦巻いていた。
なのに――
“現場が崩れていない”
という感じがあった。
炭治郎はその時、少しだけ気づく。
この人の強さは、
刀を振る時だけのものじゃないのかもしれない、と。
「うわぁ……やっぱりいる……」
後ろから聞こえた声に振り返ると、
包帯だらけの善逸が顔をしかめて立っていた。
「おはよう、善逸」
「おはようじゃないよぉ……何で朝からあの人いるの……」
炭治郎は少し首を傾げる。
「そんなに怖いか?」
善逸は即答した。
「怖いっていうか、何か……見られてると“ちゃんとしなきゃ”ってなるの!」
炭治郎は少しだけ笑う。
それはなんとなく分かる気がした。
善逸はさらに声を潜める。
「俺、前に一回だけ合同任務で一緒になったことあるんだけど……」
「えっ、そうなのか?」
「そうだよぉ……。あの時もさ、鬼より先にこっちの状態見てた」
「状態?」
「隊列とか、足音とか、呼吸の乱れとか、そういうの!」
善逸は少し身震いして続ける。
「怖い鬼と戦ってる最中なのに、
“お前、右足かばってるだろ”とか普通に言ってくるんだよ!?」
炭治郎は思わず目を丸くする。
善逸は腕を組んで震えながら言った。
「でも、その後ちゃんと死ななかったんだよなぁ……俺たち」
その一言に、炭治郎は少し黙る。
善逸はたぶん、深く考えて言ったわけじゃない。
でも、その言葉は妙に重かった。
その時、屋根の上からどすんと音がして、
伊之助が飛び降りてきた。
「おい! 何見てんだ!」
「真壁さんだよ」
「……あァ?」
伊之助は庭の方を見る。
真壁はちょうど、隠の一人から木箱を受け取っていた。
その動きは無駄がなく、静かだった。
伊之助は数秒見つめたあと、
不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「あいつ、強えぞ」
炭治郎と善逸が同時にそちらを見る。
伊之助は腕を組んだまま続ける。
「匂いとか音じゃねぇ。動きだ」
「動き?」
「ああ。無駄がねぇ」
伊之助は、こういう時だけ妙に本質を突く。
「戦う前から、もう勝てる場所に立ってる感じがする」
その言葉に、炭治郎は少しだけ目を見開いた。
善逸も黙る。
伊之助はさらに言う。
「たぶんあいつ、戦う前に半分終わらせてる」
それは、炭治郎にも少し分かる気がした。
真壁は“戦いの最中に強い”のではなく、
“戦いが崩れないように最初から立っている”
人なのかもしれない。
その時、近くを通りかかった若い隠が、
炭治郎たちの視線の先に気づいて小さく笑った。
「ああ、真壁さんですか」
炭治郎は思わずそちらを見る。
「よく来るんですか?」
隠は少し驚いたような顔をしてから頷く。
「任務の後とか、負傷者が多い時とか……何だかんだ手伝いに来てくださるんです」
善逸が思わず口を挟む。
「えっ、何で!?」
「さあ……でも、真壁さんが来ると少し楽なんですよ」
隠は照れたように笑う。
「何をするってわけじゃないんですけど、
どこが足りないかをすぐ見つけてくれるので」
その言葉に、炭治郎はまた真壁を見る。
やはり派手なことはしていない。
だが、確かに
“いるだけで助かる人”
というのは、こういう人のことを言うのかもしれなかった。
しばらくして、真壁がこちらに気づいた。
炭治郎たちと目が合う。
善逸は反射的に背筋を伸ばし、
伊之助は腕を組んだまま睨み返す。
真壁はそんな三人を見て、
ほんの少しだけ目を細めた。
それだけで、なぜか善逸が小声で言う。
「うわ、何か褒められた気がする……」
「絶対違うだろ」と伊之助が返す。
炭治郎は少しだけ笑ってしまう。
その様子を見ていた真壁が、
静かにこちらへ歩いてくる。
足音は重くない。
だが、不思議と地面をしっかり踏んでいる感じがした。
炭治郎はその時、ふと思う。
この人はたぶん、
火でも風でもなく、
"岩に近い"
派手に燃え上がるわけではない。
鋭く切り裂くわけでもない。
ただ、そこにあって、
崩れそうなものを止める。
誰かが倒れそうになった時、
最後に身体を預けられるような強さ。
それが、真壁堅という人なのかもしれなかった。
真壁は三人の前まで来ると、
順に顔を見る。
「朝から元気ですね」
「元気じゃないよぉ……」
「うるせぇ!」
「善逸君はまだ寝ていていいです」
「今それ言う!?」
善逸が半泣きで叫ぶ。
真壁はわずかに視線をずらし、
今度は伊之助を見る。
「嘴平君」
「何だ」
「屋根の上は危ないので、次から降りてください」
「嫌だ!」
「そうですか」
真壁はそれ以上言わない。
だが、そのやり取りを見ていた炭治郎には分かった。
この人は、無理やり押さえつける人ではない。
でも、
“言うべきことはちゃんと言う人”
だ。
それが、なぜか嫌じゃなかった。
最後に真壁の視線が炭治郎に向く。
「竈門君」
「はい」
「少し歩けるなら、午後から軽く動きますか」
炭治郎は一瞬きょとんとしたあと、
すぐに顔を上げる。
「はい!」
その返事に、真壁はほんの少しだけ頷いた。
「では、転ばない程度に」
「はい!」
炭治郎は思わず声を張る。
善逸が横でぼそっと言う。
「何かもう弟子入りしそうな返事してる……」
「してないよ!」
「してるだろ!」
そんなやり取りの中で、
真壁はほんの少しだけ口元を緩めた。
それは一瞬だったが、
炭治郎はたしかに見た気がした。
この人は、厳しいだけじゃない。
ちゃんと見て、
ちゃんと支えて、
必要な時だけ前に出る。
だからきっと、
色々な場所で“足りない部分”を埋めてきたのだろう。
真壁が再び庭の方へ戻っていく。
その背中を見送りながら、
炭治郎は静かに思う。
あの人は、派手じゃない。
でもたぶん、
こういう人がいなければ
鬼殺隊はもっと簡単に崩れてしまう。
前に出る人がいる。
斬る人がいる。
守る人がいる。
そしてその後ろで、
誰かが崩れないように立つ人がいる。
真壁堅は、
そういう人なのだと思った。
昼の蝶屋敷に吹く風は穏やかだった。
だがその穏やかさの中でこそ、
炭治郎は初めてはっきりと理解する。
この人は、ただ強いのではない。
“崩れないための芯”を持っているのだ。
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第四話 終
ここまで読んで頂き誠に有難うございます。
30分後に幕間を入れます。そちらもお読み頂けると嬉しく思います。