四話読了後よろしければにお読み下さい。
あの日のことを思い出すと、
我妻善逸はいまだに胃が痛くなる。
いや、正確に言えば
「思い出したくないのに勝手に思い出してしまう」
類の記憶だった。
理由は簡単だ。
とにかく、怖かったのだ。
本当に、怖かった。
鬼が怖いのはいつものことだ。
死ぬのも嫌だし、
痛いのも嫌だし、
できることなら任務そのものをやめたい。
でも、その日の恐怖は
いつものそれとは少し違った。
鬼とは別方向で、
ものすごく胃に悪かった。
⸻
その日の任務は、
小さな山村の周辺で人が数人消えているという内容だった。
善逸は当然のように
任務開始前から帰りたかった。
「嫌だよぉぉぉ……絶対なんかいるよぉぉ……」
山道の手前で半泣きになっていた善逸に、
同行していた年上の隊士が困ったように笑う。
「まあまあ、まだ鬼が出たって決まったわけじゃ――」
その時だった。
少し前を歩いていた男が、
足を止めた。
深紺の羽織。
静かな背中。
善逸はその時すでに、
その人のことが少し苦手だった。
いや、
かなり苦手だった。
理由はうまく言えない。
怒鳴るわけでもない。
威圧してくるわけでもない。
怖い顔をしているわけでもない。
なのに――
何か全部見られている感じがする。
その人が、
ゆっくり振り返る。
真壁堅だった。
「我妻君」
「ひゃい!?」
反射で変な声が出た。
真壁は特に気にした様子もなく、
静かに言う。
「まだ山に入っていません」
「えっ?」
「今のうちに呼吸を整えてください」
「えっ、何で!?」
善逸は思わず叫ぶ。
真壁は一歩も動かないまま、
淡々と続けた。
「呼吸が浅いです」
「心拍も速い」
「足音も少し大きい」
「そのままだと、
鬼がいた場合に先にこちらが崩れます」
善逸は固まった。
いやいやいや、
まだ始まってもいないのに何でそこまで分かるんだこの人。
横の隊士も少しだけ苦笑している。
善逸は情けなく抗議した。
「そ、それはだって怖いんだから仕方ないじゃないですかぁ……!」
真壁は少しだけ目を細めた。
「ええ」
肯定された。
だが次の一言がひどかった。
「怖がるのは構いません」
「ただ、崩れたまま入らないでください」
善逸はその場でしゃがみ込みたくなった。
怖い。
この人、
優しい顔で怖いことを言う。
結局そのまま山へ入った。
夕方に差しかかった山道は薄暗く、
風が吹くたびに木々がざわめく。
善逸は泣きそうだった。
いや、
実際かなり泣いていた。
「やだやだやだやだ……絶対いるってぇ……!」
「静かに」と後ろの隊士が宥める。
その時だった。
前を歩いていた真壁が、
足を止めずに言った。
「我妻君」
「ひっ!?」
「右足をかばっていますね」
善逸は心底意味が分からなかった。
「はぁ!?」
思わず素っ頓狂な声が出る。
「何で今その話するんですか!?」
真壁は振り返りもせずに答える。
「昨日の任務の捻挫が残っています」
「残ってないです!!」
「では、なぜ右だけ着地音が軽いんですか」
善逸は黙った。
図星だった。
いや、ちょっとだけ痛いなとは思っていた。
でも鬼が出るかもしれないこの状況で
それを指摘されると思わないじゃないか。
「えぇぇぇ……何なのこの人ぉ……」
善逸は半泣きで呟く。
横の隊士が、どこか諦めたような声で小さく言った。
「……真壁さん、そういう人だから」
そういう人って何だよ…
もっと具体的に言ってくれよ。
善逸は心の底からそう思った。
鬼が現れたのは、
山の奥へ入ってしばらくした頃だった。
木々の影の奥から、
ぬるりと嫌な気配が現れる。
腐った匂い。
重い足音。
低い唸り声。
善逸はその瞬間、
頭の中が真っ白になった。
「で、出たぁぁぁぁ!!」
叫んだ。
情けなく、
全力で。
だがその直後だった。
「下がれ」
真壁の声が、
すぐ前で静かに落ちた。
大きな声ではない。
なのに、
その一言だけで空気が変わる。
善逸は反射的に足を止めた。
鬼が飛びかかってくる。
その軌道に対して、
真壁はほとんど無駄なく半歩ずれた。
斬撃は一閃だった。
派手ではない。
けれど、正確だった。
鬼の腕が飛ぶ。
だが善逸が息を呑んだのは、
そこではなかった。
真壁は鬼を見るより先に、
後ろの自分たちを見ていた。
「左へ」
短い指示。
同行していた隊士がすぐに動く。
「我妻君、木の根です」
言われた瞬間、
善逸は足元の根に気づいて飛び退いた。
その直後、
鬼の残った腕がそこを薙いだ。
「ひぃっ!?」
心臓が止まるかと思った。
真壁は鬼と斬り結びながら、
同時にこちらの崩れも見ている。
それが善逸には、
めちゃくちゃ怖かった。
だって普通そんな余裕ある?
何で鬼と戦いながら
こっちの転びそうな場所まで見えてるの?
意味が分からない。
でも――
そのおかげで、
誰も倒れなかった。
誰も噛まれなかった。
誰も死ななかった。
任務が終わった帰り道。
善逸はぐったりしていた。
魂が半分くらい抜けていたと思う。
同行していた隊士も
「助かった……」と何度も呟いている。
その前を、
真壁は何事もなかったように歩いていた。
深紺の羽織が、
夕暮れの中で静かに揺れている。
善逸はその背中を見ながら、
心の底から思っていた。
何かこの人、めちゃくちゃ怖い。
だが同時に、
この人がいたから助かった
ということも、
善逸にはちゃんと分かっていた。
その時だった。
前を歩く真壁が、
不意に足を止める。
善逸はびくっと肩を跳ねさせた。
真壁は少しだけ振り返り、
善逸を見る。
「我妻君」
「ひゃい!?」
また変な声が出た。
真壁は静かなまま言う。
「今日はよく踏ん張りましたね」
善逸は、一瞬だけ固まった。
思ってもみなかった言葉だった。
怒られるかと思った。
情けないと呆れられるかと思った。
でも違った。
善逸はしばらく口をぱくぱくさせたあと、
ようやく小さく言う。
「……こ、怖かったです」
「でしょうね」
真壁はそう答える。
それから少しだけ目を細めて、
短く続けた。
「ですが、逃げませんでした」
その一言が、
善逸の胸に妙に残った。
たぶん、
あの日のことを善逸が完全に嫌いになれないのは、
そのせいだ。
怖かった。
本当に怖かった。
でも――
ちゃんと見ていてくれる人がいた。
それが、
あの任務の全部だった。
⸻
「……ってことがあったんだよぉ……」
蝶屋敷の縁側で、
善逸はげんなりした顔のままそう締めくくった。
炭治郎は黙って聞いていたが、
やがて少しだけ目を丸くする。
「……なるほど」
「なるほどじゃないよ!? 怖いでしょ!?」
「でも、それって……」
炭治郎は少しだけ笑った。
「……何だか、すごく真壁さんらしいね」
善逸は口を開きかけて、
それから少しだけ黙る。
悔しいが、
否定できなかった。
「……まあ、助かったのは事実だけどさぁ」
炭治郎は静かに頷く。
あの人はきっと、
誰に対してもああなのだ。
特別優しいわけではない。
特別甘いわけでもない。
でも、
崩れそうなものを見つけて、先に支える。
それを、
ごく自然にやる人なのだろう。
炭治郎は庭の向こうを見た。
あの深紺の羽織が、
今は見えない。
だが、その人がどういう人なのかを、
また少しだけ知れた気がした。
真壁堅。
目立たない。
静かだ。
少し怖い。
でもきっと――
いるだけで、誰かが死なずに済む人だ。
⸻
幕間 終
幕間に関しては同日投稿できる様進めて参ります。
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