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朝の空気は、
まだ少し冷たかった。
刀鍛冶の里の奥、
木々に囲まれたその場所には、
今日も乾いた打ち合いの音が響いていた。
「っ……!」
炭治郎が踏み込む。
縁壱零式の腕が動く。
右。
左。
上。
速い。
鋭い。
重い。
それでも炭治郎は、
前までのように
ただ押し流されるだけではなくなっていた。
受ける。
押される。
沈む。
戻す。
足を置く。
次へ繋ぐ。
その流れを、
少しずつ身体が覚え始めている。
「まだです」
小鉄の声が飛ぶ。
次の瞬間、
零式の斬撃がさらに速くなる。
「っ……!」
炭治郎は歯を食いしばる。
一撃目を受ける。
押される。
だが流されない。
左足を沈め、
崩れかけた重心を戻す。
二撃目。
肩口を掠める。
三撃目。
低く来る。
炭治郎は刀で受けながら、
足の位置だけは崩さないよう意識を落とした。
腕じゃない。
目でもない。
先に死ぬのは足だ。
逆に言えば、
足が死ななければ
次へ繋げられる。
「……っ!」
四撃目。
弾く。
完全ではない。
だが、
ほんの一瞬だけ
零式の流れが止まる。
その隙に炭治郎が踏み込む。
刀を通そうとした瞬間――
「遅いです」
五撃目が胴へ入る。
「うわっ!」
炭治郎は吹き飛ばされ、
地面へ転がった。
背中に土の冷たさが広がる。
肺が熱い。
腕が重い。
だが――
「……今の、少し通りそうだった」
仰向けのまま、
炭治郎は荒い息を吐く。
小鉄はすぐ近くまで歩いてきて、
縁壱零式を見上げたまま言った。
「通りそう、じゃ駄目です」
「通してください」
「……はい」
炭治郎は苦笑しながら起き上がる。
厳しい。
だが、
言っていることは間違っていない。
少しずつ分かってきていた。
縁壱零式は、
ただ速いわけじゃない。
ただ強いわけでもない。
あの動きには、
まだ自分の知らない“何か”がある。
それはきっと、
力だけじゃ届かない場所にあるものだ。
炭治郎はもう一度、
人形を見た。
六本腕。
異様な造形。
それなのに、
妙に自然に立っている。
崩れない。
いや――
“立ち方そのものが違う”。
それなのに、
どこか危うい。
そんな違和感が、
胸の奥に残った。
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少しだけ間を取るために、
炭治郎は木陰へ下がった。
肩で息をしながら、
額の汗を拭う。
小鉄は相変わらず無駄がない。
零式の腕や関節を確認し、
動きの微細な調整をしている。
「小鉄くん」
「なんですか」
「……もしかして、調子悪いのかな?」
炭治郎がそう言うと、
小鉄は零式の腕を見上げたまま答える。
「はい」
「かなり古いですし、もう長くはありません」
「それは……」
炭治郎が思わず言葉を詰まらせる。
小鉄はそのまま続けた。
「でも、まだ使えます」
「簡単には止まりません」
その言葉に、
炭治郎はもう一度、
縁壱零式を見た。
古い。
確かにそうだ。
だがそれ以上に、
この人形には
積み重ねられてきた時間そのものが
残っているように思えた。
「でもこの人形は凄いね」
「今まで気づかなかったところが、
少しずつ分かるようになってきた」
小鉄はその言葉に、
ほんの少しだけ動きを止めた。
だがすぐに、
何事もなかったように口を開く。
「まだ足りません」
「はい」
即答だった。
炭治郎ももう、
そこに反論する気はなかった。
まだ足りない。
それは本当にその通りだ。
だが、
何を積めばいいのかは
少しずつ見えてきている。
それだけでも、
前とは全然違った。
その時だった。
「その鍵、貸して」
声が落ちる。
静かだった。
大きくもない。
だが、
妙にはっきりと耳に残る声だった。
炭治郎が振り向く。
そこに立っていたのは、
一人の少年だった。
長い髪。
整った顔立ち。
年齢は、
炭治郎とそう変わらないように見える。
だが――
空気が違う。
立ち姿に無駄がない。
自然体なのに、
隙がない。
霞みたいに輪郭が薄いのに、
妙に目を引く。
その異質さに、
炭治郎は一瞬だけ言葉を失った。
少年は、
炭治郎ではなく
小鉄の方を見ていた。
視線の先は、
小鉄の手にある鍵だ。
「それが必要なんだけど」
言い方は淡々としている。
怒っているわけでも、
威圧しているわけでもない。
ただ、
必要だから言っている。
それだけだった。
だがその“それだけ”が、
妙に冷たく感じられた。
小鉄の表情が、
一瞬で険しくなる。
「嫌です」
即答だった。
少年は少しも動じない。
「どうして?」
「どうしてもです」
「必要なんだけど」
「それでも駄目です」
会話が、
まるで噛み合っていなかった。
炭治郎はそのやり取りを見ながら、
なんとなく空気の温度が
一段下がったような感覚を覚える。
少年は少しだけ視線を落とし、
それから再び小鉄を見る。
「僕はそれを開けたいだけなんだけど」
「だから嫌です」
「理由は?」
「あなたに渡したくないからです」
あまりにも真っ直ぐな返しに、
炭治郎は少しだけ目を瞬かせた。
だが、
小鉄がそう言いたくなる気持ちも分かる。
目の前の少年は、
乱暴でも横暴でもない。
それなのに、
どこか一方的だった。
“相手の気持ちを考える”という過程が、
最初から抜け落ちているように見える。
少年はそこで初めて、
炭治郎の方を見た。
視線が合う。
その目は綺麗だった。
澄んでいる。
だが、
驚くほど温度がない。
「その人は?」
「竈門炭治郎です!」
炭治郎は反射で名乗った。
少年はわずかに間を置いてから、
興味があるのかないのか分からない声音で言った。
「そう」
それだけだった。
少しだけ、
炭治郎は面食らう。
悪意は感じない。
だが、
壁みたいなものを感じる。
目の前にいるのに、
どこか遠い。
そんな妙な距離感があった。
小鉄が少年を睨む。
「時透さんには渡しません」
その名を聞いて、
炭治郎の意識が一瞬だけ引っかかる。
時透。
どこかで聞いたことがある。
そしてすぐに思い出した。
――柱。
柱合会議の時に確か名前を聞いた。
霞柱、
時透無一郎。
炭治郎の目が、
わずかに見開かれる。
目の前の少年が、
柱。
それを知った瞬間、
さっき感じた異質さに
妙な納得が混じる。
だが同時に、
別の違和感も強くなった。
柱なのに、
何かが噛み合わない。
強い人の匂いはする。
それなのに、
どこかが妙に欠けている。
そんな感覚だった。
時透は小鉄へ視線を戻す。
「その鍵があれば、
中を確認できる」
「だから必要なんだ」
「必要でも駄目です」
小鉄は一歩も引かない。
「これは僕のご先祖様が遺したものです」
「簡単に触らせません」
時透は少しだけ黙った。
だが、
諦めたわけではないのが分かる。
ただ、
相手の言葉の“重さ”が
今ひとつ伝わっていないようにも見えた。
炭治郎は二人の間を見ながら、
小さく息を吸う。
ここで黙っているのも違う気がした。
「えっと……」
炭治郎が口を開く。
時透の視線が、
ゆっくりとこちらへ向く。
その視線を受けながら、
炭治郎は慎重に言葉を選んだ。
「小鉄くんにとって、
これはすごく大事なものなんだと思います」
「だから、必要だからって
すぐ渡してもらえるものじゃないというか……」
言いながら、
自分でも少し回りくどいと思った。
だが、
そうとしか言えなかった。
時透はその言葉を、
しばらく無表情のまま聞いていた。
やがて、
静かに口を開く。
「でも」
「大事かどうかより、
役に立つかどうかの方が大事でしょ」
その一言に、
炭治郎の胸の奥が
わずかに引っかかった。
言っている意味は、
分からなくもない。
強くなるため。
戦うため。
必要なものを使う。
理屈としては通っている。
だが――
「それだけじゃないと思います」
炭治郎は、
思ったより早くそう返していた。
時透の目が、
ほんのわずかに動く。
炭治郎は続ける。
「役に立つとか、
立たないとかだけじゃなくて」
「大事にしてるものとか、
守りたいものとか、
そういうのもあると思うんです」
言いながら、
炭治郎の中には
これまで出会ってきた人たちの顔が浮かんでいた。
守ってきたもの。
繋いできたもの。
失いたくなかったもの。
それらは全部、
“効率”だけでは測れないものだった。
時透はしばらく黙っていた。
反論するでもなく、
怒るでもなく。
ただ、
炭治郎を見ている。
その目は相変わらず静かだった。
だが、
ほんの少しだけ
何かを測るような色が混じった気がした。
やがて時透は、
小さく息を吐く。
「非効率だ」
「そんなことに時間を使ってる場合じゃないでしょ」
その言葉に、
小鉄がむっとした顔になる。
炭治郎も、
少しだけ眉を寄せた。
だが不思議と、
強い反発にはならなかった。
ただ、
遠い。
考え方の置き場が、
あまりにも違う。
そういう感覚だった。
時透はそこで、
もう一度だけ零式の方を見る。
その視線は短い。
だが、
明らかに何かを見ていた。
「……まあいいや」
それだけ言って、
時透はあっさりと踵を返した。
あまりにも唐突で、
炭治郎は一瞬だけ目を瞬かせる。
「えっ、帰るんですか?」
思わず聞いてしまう。
時透は足を止めないまま、
淡々と返した。
「今はいい」
「また来るから」
その言葉だけを残して、
時透は木々の向こうへ歩いていく。
足音はほとんどしない。
気づけば、
霞みたいに姿が遠ざかっていた。
しばらくの間、
その場には妙な静けさが残った。
小鉄が眉をひそめたまま、
時透の去った方を見る。
「……嫌な人です」
かなりはっきり言った。
炭治郎は苦笑しながら、
小さく頷く。
「うん……ちょっと分かる」
だが同時に、
それだけで終わらせてはいけない気もしていた。
時透無一郎。
柱。
強い人だ。
それは間違いない。
立ち方を見れば分かる。
無駄がない。
迷いがない。
あそこまで自然に立てる人間を、
炭治郎はまだあまり知らない。
それなのに――
何かが足りない。
強いのに、
どこか空っぽみたいな感覚。
それが妙に引っかかった。
炭治郎は、
時透が去っていった木々の奥を見つめる。
霞みたいな人だと思った。
近くにいるのに掴めない。
形があるようで、
どこかぼやけている。
だがその奥に、
確かに刃のようなものだけが見える。
そんな印象だった。
「炭治郎さん」
小鉄の声で、
炭治郎は我に返る。
「休憩終わりです」
「……はい!」
返事をして、
炭治郎は再び零式の前へ立つ。
木でできた人形は、
相変わらず何も言わず、
そこに立っていた。
崩れない。
揺るがない。
だが、
さっきまでとは少しだけ見え方が違った。
時透を見たあとだからかもしれない。
強い立ち方にも、
色々ある。
崩れないことにも、
色々ある。
その中で自分が掴むべきものは、
きっとまだ先にある。
炭治郎は刀を握り直す。
足を置く。
呼吸を整える。
縁壱零式が動き出す。
また、
積み上げる時間が始まる。
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第四十九話 終
30分後に幕間入ります。そちらもよろしければお読み下さい。