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夜の刀鍛冶の里は、
昼間とは別の静けさを持っていた。
鉄を打つ音は止み、
山の気配だけが
ゆっくりと辺りを満たしている。
風が通る。
木々が揺れる。
遠くで、
湯の流れる音が微かに聞こえていた。
その奥にある露天の湯へ、
一人の男が静かに足を運ぶ。
真壁堅だった。
里へ来てから、
真壁が数少なく自分から足を向けていた場所でもある。
誰もいない。
湯気だけが、
白く夜気へ溶けている。
真壁は脱衣場へ刀を置き、
何も言わず湯へ身を沈めた。
「……」
熱が、
じわりと全身へ広がる。
肩。
背中。
脚。
張っていた筋肉が、
ゆっくりとほどけていく。
それでも最初の数秒、
真壁の身体は完全には沈まなかった。
肩の位置が高い。
無意識に、
どこかへ力が残っている。
それに気づいているのか、
いないのか。
真壁は静かに息を吐いた。
湯気が揺れる。
夜風が冷たい。
湯は熱い。
その温度差だけが、
妙にはっきりと身体へ残る。
里へ来てから、
ずっと気を張っていたわけではない。
任務でもない。
前線でもない。
今の自分に、
明確な役目があるわけでもない。
それでも――
完全に気を抜くことは、
どうしても出来なかった。
それがもう、
癖のようになっている。
真壁は目を閉じる。
湯の音がする。
誰の声もない。
誰かの呼吸を読む必要もない。
足音を拾う必要もない。
それだけのことが、
少しだけ不思議だった。
こんなふうに、
何も考えずに湯へ浸かる時間が
自分にあるとは思っていなかった。
いや、
正確には違う。
“あっても使ってこなかった”
のだろう。
戦いがある限り、
いつでも戻れるようにしていた。
崩れた時、
すぐ立てるように。
呼ばれた時、
すぐ動けるように。
そうしているうちに、
何もない時間の過ごし方を
少しずつ忘れていたのかもしれない。
真壁は、
湯の中でゆっくりと肩を落とした。
ほんの少しだけ、
力が抜ける。
たったそれだけのことが、
妙に深く身体へ沈んだ。
「……こういうものか」
誰に聞かせるでもなく、
小さく漏れる。
風呂や温泉は、
昔から好きだった。
湯に浸かっている間だけは、
身体の内側に溜まっていた
細かな力みが剥がれていく。
誰かと話す必要もない。
何かを考える必要もない。
ただ、
戻る前に一度だけ
力を落とせる場所。
何も考えずに、
呼吸だけを整え直せる場所。
それが、
真壁にとっての風呂だった。
湯面が揺れる。
月明かりが、
淡くその上を滑っていく。
その揺れを眺めながら、
真壁はふと考える。
もし戦いが終わったら。
そんなことを、
考えたのはいつぶりだろうか。
終わった後のことなど、
考えるだけ無駄だと思っていた。
生き残る保証もない。
誰かを残せる保証もない。
明日が続くかどうかも、
鬼狩りには分からない。
だから、
先のことは置いてきた。
今を崩さないことだけを
積み重ねてきた。
それでよかった。
そうしていなければ、
立てなかった。
だが――
もし、
本当に終わったなら。
その時、
自分は何をしているのだろう。
湯に浸かる。
朝を迎える。
食事を摂る。
誰かの怪我を気にせずに眠る。
そんな、
当たり前の時間の中に
自分がいる姿は、
まだうまく想像できなかった。
けれど、
全く想像できないわけでもなかった。
それが少しだけ、
妙だった。
真壁は目を開ける。
湯気の向こう、
夜の空は静かだった。
誰もいない。
何も起きない。
それでもこの時間は、
確かにそこにある。
その静けさの中で、
真壁はふと
ひとつのことを思った。
こういう時間を、
誰かと分け合う日が来るのだろうか。
すぐに、
自分でその考えを打ち消す。
らしくない。
そう思った。
だが、
完全には消えなかった。
真壁は、
もう一度だけ静かに息を吐く。
湯の熱が、
肩からゆっくりと抜けていく。
今はまだ、
立つべき場所がある。
戻るべき場所がある。
だから休むのも、
止まるのも、
ほんの少しでいい。
それでも――
こうして一度だけでも力を落とせることは、
決して無駄ではない。
むしろ、
崩れないために必要なのだと、
今は少しだけ思えた。
真壁は湯から上がる。
濡れた髪を軽く払う。
身体はまだ痛む。
古傷も、
疲労も、
消えたわけではない。
だが、
確かに少し軽かった。
湯気の残る夜気の中、
真壁は静かに歩き出す。
また明日、
戻るために。
また必要な時に、
立つために。
その足取りは、
相変わらず静かで。
けれどほんの少しだけ、
夜の中に柔らかく見えた。
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幕間 ― 湯けむりの静 終