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午後の日差しは、朝より少しだけやわらかかった。
蝶屋敷の裏手には、
治療の妨げにならない程度の広さを持つ空き地がある。
踏み固められた土。
木陰。
使い込まれた丸太。
簡易の木人。
剣士たちが体を戻す時に使う場所だと、
炭治郎はさっき教えられたばかりだった。
そこへ向かう足取りは、
痛みのせいでまだ少しぎこちない。
だが、気持ちは自然と前を向いていた。
真壁が、先を歩いている。
深紺の羽織が、風にわずかに揺れる。
炭治郎はその背中を追いながら、
少しだけ背筋を伸ばした。
「先に言っておきますが」
真壁は足を止め、振り返る。
「今日は稽古というほどのことはしません」
炭治郎は少しだけ意外そうな顔をする。
「そうなんですか?」
「怪我人ですので」
その言い方があまりにも当然で、
炭治郎は思わず苦笑した。
真壁は続ける。
「今日は、“崩れないこと”だけ見ます」
炭治郎はその言葉に少しだけ目を瞬かせる。
崩れないこと。
それは真壁が何度も体現してきたことだった。
炭治郎は静かに頷く。
「……はい」
真壁は木人の前まで歩いていき、
その横に立つ。
「斬らなくていいです」
「えっ」
「構えるだけで」
「構えるだけ……?」
炭治郎は少し戸惑いながらも、
日輪刀を抜いて構える。
痛みが走る。
腕もまだ重い。
だが、それ以上に気になったのは
真壁がじっと自分を見ていることだった。
あの視線には、不思議とごまかしが効かない。
「右足」
真壁が言う。
炭治郎は反射的に肩を揺らす。
「えっ?」
「かばっていますね」
即答だった。
炭治郎は思わず視線を落とす。
無意識だった。
だが、言われてみればたしかにそうだ。
真壁は一歩近づき、足元を見て言う。
「痛みがあるのは分かります」
「……はい」
「ですが、かばうと崩れます」
その言葉は責める調子ではない。
ただ、事実として置かれているだけだった。
真壁は続ける。
「崩れたまま前に出ると、
自分だけではなく、隣も崩します」
炭治郎は少しだけ息を呑む。
その言葉には、
戦いの話以上の重みがあった。
真壁は、たぶんこういうことを
ずっと見てきたのだろう。
炭治郎は小さく息を吐いて、
もう一度立ち直すように足を置き直した。
真壁はそれを見て、短く言う。
「今の方がいいです」
その一言が、思った以上に嬉しかった。
しばらくの間、
真壁は炭治郎に構えさせ、歩かせ、止まらせた。
前へ。
半歩引く。
向きを変える。
呼吸を整える。
やっていることは地味だ。
善逸なら間違いなく文句を言うし、
伊之助なら途中で木人を殴り始めるだろう。
だが炭治郎には、
その地味さの中に確かな意味があるのが分かった。
何度か足を置き直すうちに、
自分がいかに“勢いで誤魔化していたか”が見えてくる。
炭治郎は少し息を弾ませながら言う。
「真壁さんって……」
「はい」
「斬ることより前の方を、すごく見ますよね」
真壁は少しだけ目を細めた。
「斬ることは、最後です」
その返答は短かった。
だが、炭治郎は続きを待つ。
真壁は視線を木人へ向けたまま、静かに言った。
「立つ場所」
「間合い」
「足の向き」
「呼吸」
「視線」
「それが崩れていると、
斬る頃にはもう遅い」
炭治郎は黙って聞く。
真壁の言葉は派手ではない。
だが、一つ一つがやけに身体に入ってくる。
「勝つ人は、斬った人ではなく」
そこで一拍置いてから、続けた。
「斬る前に崩れなかった人です」
炭治郎はその言葉を、
まるごと胸の中に受け止めた気がした。
炭治郎はそこで、ふと義勇のことを思い出す。
冨岡義勇は、もっと静かだ。
そしてもっと圧倒的だ。
立っているだけで、
こちらが勝手に正されるような強さがある。
一方で真壁は違う。
真壁は、
“分からない者がどこで崩れるか”を知っている人だ。
だからこそ、
ただ強いだけではない。
炭治郎の今の位置から見える言葉で、
必要なことを置いてくれる。
それは教えるというより、
“倒れない場所へ戻してくれる”
という感じに近かった。
「もう一度」
真壁が言う。
炭治郎は頷き、構える。
今度はさっきより、
少しだけ身体が静かだった。
足の裏が土を掴む感覚がある。
呼吸が散っていない。
刀を握る手にも、
わずかに芯が戻っていた。
真壁はそれを見て、短く言う。
「いいですね」
その瞬間だった。
炭治郎はふと、
真壁が初めて自分のことを
“見た”あの夜を思い出す。
あの人はたぶん、
最初からこういう目で見ていたのだ。
言葉ではなく、
立ち方を。
炭治郎はそこでようやく、
少しだけ分かった気がした。
真壁堅という人は、
誰かを守る前にまず
“崩れない位置へ戻す”
人なのだ。
その時、木陰の方から
ぱたぱたと軽い足音が近づいてくる。
「うわぁ……何これ地味ぃ……」
善逸だった。
後ろから伊之助もついてきている。
「何だこのつまんねぇ稽古は!」
炭治郎が思わず振り返る。
「善逸、伊之助!」
真壁は特に驚く様子もなく、
二人の方を見た。
善逸は木人と炭治郎を交互に見て、
顔をしかめる。
「え、これ何? 全然斬ってなくない?」
「まだ怪我人だから」と炭治郎が答える。
「にしても地味すぎるでしょぉ!」
「お前は黙ってろ!」と伊之助が怒鳴る。
真壁は二人を見て、
ほんの少しだけ間を置いてから言った。
「では、お二人もやりますか」
一瞬、空気が止まる。
善逸が固まり、
伊之助の目が光る。
「やる!」 「やらない!!」
炭治郎は思わず吹き出した。
結局その後、
善逸はぶつぶつ文句を言いながらも参加し、
伊之助は途中から妙に真面目になった。
真壁は相変わらず、
大きな声も出さず、派手な見本も見せない。
ただそれぞれの足元と呼吸を見て、
短く言葉を置いていく。
「今のは踏み込みすぎです」
「肩に力が入っています」
「前を見てください」
それだけなのに、
三人とも不思議と少しずつ整っていく。
炭治郎はその中で、はっきりと感じていた。
この人の言葉は、
ただ技を教えるものではない。
“崩れ方を減らす言葉”
なのだ。
鬼と戦う限り、
傷つくことも、怖がることも、迷うこともなくならない。
だがその中で、
少しでも崩れにくくなるなら。
それはきっと、
剣技よりも前に必要なものだった。
立ち方を覚える
稽古が終わる頃には、
午後の光が少しだけ傾いていた。
炭治郎は額の汗を拭いながら、
深く息を吐く。
疲れた。
だが、不思議と充足感があった。
善逸は地面に座り込んで呻き、
伊之助は「次はもっとやらせろ!」と騒いでいる。
その少し先で、
真壁は木人の位置を元に戻していた。
炭治郎はその背中を見て、静かに思う。
あの人はたぶん、
何か特別なことをしているわけじゃない。
でもきっと、
こういう小さな“崩れないための積み重ね”を
ずっと続けてきた人なんだ。
だから、現場で強い。
だから、誰かの隣に立てる。
だから――
あの夜、自分たちの前に立てたのだと分かった。
帰り際、
炭治郎はふと真壁に声をかけた。
「真壁さん」
「はい」
「今日の稽古、ありがとうございました」
真壁は少しだけこちらを見て、
いつもの静かな調子で答える。
「稽古というほどではありません」
炭治郎は少し笑う。
「でも、すごく大事なことを教わった気がします」
真壁は一瞬だけ黙る。
そして、短く言った。
「それなら、よかった」
その言葉に、
炭治郎はほんの少しだけ背筋を伸ばす。
派手ではない。
熱くもない。
でも、たしかに残る言葉だった。
柱のように強く輝く人がいる。
けれどその一方で、
誰かが崩れないための立ち方を教え、
支え、
整え続ける人もいる。
真壁堅は、
そういう強さを持った人なのだと
炭治郎は少しずつ知っていく。
その日の稽古で覚えたのは、
技ではなかった。
もっと前の――
“在り方”だった。
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第五話 終
更新頻度について
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