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縁壱零式の胸の奥から現れた刀は、
すぐに抜き取られることはなかった。
錆びている。
古い。
それでも、
その場にいる誰もが分かっていた。
ただ古いだけの刀ではない。
長い時間、
誰にも使われず、
誰にも触れられず、
それでもそこに残されていたもの。
それが今、
ようやく姿を見せた。
「無理には抜きません」
小鉄は、
いつもより慎重な声でそう言った。
「錆を削って、
木部を傷めずに外します」
「下手にやると、
刀も零式も駄目になります」
「うん……」
炭治郎は頷く。
本当なら、
今すぐにでも手に取りたかった。
だが、
それを急いではいけないことも分かる。
積み上げられてきたものほど、
雑に扱ってはいけない。
それは今の自分にも、
少しずつ分かるようになってきたことだった。
時透は、
零式の胸元を見つめたまま
静かに口を開く。
「たぶん、
かなり古い刀だよ」
「形も今のものと少し違う」
その言葉に、
炭治郎の意識がまた刀へ向く。
「やっぱり、
特別な刀なのかな……」
炭治郎がそう呟くと、
時透は少しだけ間を置いた。
「特別かどうかは、
使ってみないと分からない」
言い方は相変わらず淡々としている。
だが、
昨日までより少しだけ
その声が“遠くない”気がした。
小鉄は刀を見ながら、
小さく息を吐く。
「300年以上前の刀でしょうから」
「……今日はこれ以上無理です」
「少しずつやります」
その一言で、
今すぐ全てが進むわけではないのだと分かる。
炭治郎は少しだけ残念そうにしながらも、
素直に頷いた。
「分かった」
その時だった。
「炭治郎くん!」
突然、
明るい声が後ろから響いた。
炭治郎が反射で振り向く。
そこに立っていたのは――
甘露寺蜜璃だった。
「甘露寺さん!」
思わず声が出る。
その瞬間、
炭治郎の背筋がほんの少しだけ伸びた。
柔らかな笑顔。
明るい声。
親しみやすい空気はある。
それでもやはり、
目の前にいるのは柱だ。
立っているだけで、
空気の張りが少し違う。
「やっと見つけたぁ!」
蜜璃はぱたぱたとこちらへ駆け寄ってくる。
その表情はいつも通り明るい。
だが炭治郎には、
その軽やかさの奥にある
“強い人の気配”がちゃんと分かった。
「朝からまた頑張ってたんだねぇ……!」
「は、はい!」
つい返事が少し硬くなる。
蜜璃はそんな炭治郎を見て、
ふわりと笑った。
(この子、本当にずっと積んでる……)
見れば分かる。
足の置き方。
肩の落とし方。
立ち方の癖。
まだ完成には遠い。
でも、
昨日より前へ進んでいる身体をしていた。
(えらいなぁ……)
蜜璃の胸の奥に浮かんだその感情は、
驚くほど素直だった。
「すごいよぉ、炭治郎くん!」
「えっ」
「ちゃんと前より立てるようになってるもん!」
その言葉に、
炭治郎は少しだけ目を瞬かせた。
自分ではまだ、
足りないところばかりが見えている。
だが、
柱の目からそう言われると
胸の奥に少しだけ熱が入る。
「ま、まだまだです」
「そういうとこもえらいよぉ!」
勢いのある称賛に、
炭治郎は少しだけ困った顔になる。
善逸が横から小声で呟いた。
「なんかこの人、
褒めの圧がすごい……」
「分かる」
炭治郎もつい小声で返す。
伊之助はそんなことなど気にせず、
蜜璃を見て目を輝かせていた。
「おい!!
この女すげぇ匂いするぞ!!」
「やめろ伊之助!!」
炭治郎が慌てて止める。
蜜璃はきょとんとしてから、
なぜか少し嬉しそうに笑った。
「えへへ、
そうかな?」
「そういう意味じゃないと思うよ!?」
善逸が即座に突っ込む。
空気が、
少しずつ軽くなる。
さっきまで縁壱零式の前にあった
張り詰めた気配が、
少しだけほどけていく。
その中心にいるのが、
甘露寺蜜璃という存在なのだと
炭治郎は自然に感じていた。
「というわけで!」
蜜璃がぱん、と手を打つ。
「今からみんなでご飯にしよう!」
「え?」
炭治郎が目を瞬かせる。
「え、って顔してるけど、
ちゃんと食べないと強くなれないんだよ?」
「それはそうだけど……」
「それに今の炭治郎くん、
完全に“鍛えすぎてご飯雑になる人”の顔してるもん!」
「そ、そんな顔あるの!?」
「あるよぉ!」
断言だった。
炭治郎は思わず苦笑する。
だが、
否定しきれない気もした。
小鉄は少しだけ炭治郎の顔を見て呟く。
「それはあります」
「小鉄くんまで!?」
時透は特に会話へ入らず、
少し離れた場所で
零式の方を見ていた。
だが、
蜜璃はそれすら当然のように巻き込む。
「時透くんも来るよね!」
「行かない」
即答だった。
「ええっ!? なんでぇ!?」
「必要ないから」
「必要あるよぉ!!
ご飯は必要だよぉ!!」
蜜璃は本気だった。
時透はそれを数秒だけ見つめ、
それから小さく息を吐いた。
「……短時間なら」
ぶっきらぼうな返事。
それでも、
完全な拒絶ではなかった。
炭治郎はほんの少しだけ驚く。
昨日の時透なら、
もっと早くこの場を切っていた気がしたからだ。
「やったぁ!」
蜜璃はぱっと顔を明るくする。
その一言だけで、
本当に嬉しそうだった。
なんだかそれだけで、
断るのが悪いことみたいな空気になる。
炭治郎は少しだけ笑う。
甘露寺蜜璃という人は、
こうして人を場の中へ引き込むのが
とても自然なのだと思った。
押しつけではない。
だが、
気づけば輪の中へ入っている。
その柔らかさは、
戦う人のものとは少し違って見えるのに、
どこか不思議と強かった。
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里の食事処は、
昼前だというのに
すでにかなり賑やかだった。
湯気が立つ。
味噌の香りがする。
焼けた魚の匂いがする。
蜜璃の目が、
席に着く前からきらきらしていた。
「今日はいっぱい食べるよぉ!」
「いつもでは?」
善逸がぼそっと言う。
「善逸くん何か言った?」
「何も言ってません!!」
即答だった。
炭治郎はつい笑ってしまう。
運ばれてきた料理は、
どれも湯気を立てていた。
炊きたての白飯。
味噌汁。
焼き魚。
煮物。
漬物。
そして、
蜜璃の前にだけ
なぜか量が明らかに多い。
炭治郎が目を丸くする。
「甘露寺さん、
そんなに食べるんですか?」
つい敬語が強くなる。
蜜璃はにこっと笑った。
「うん!」
「えへへ、
お腹すくから!」
あまりにも自然に言うので、
炭治郎は逆に納得しそうになった。
だが、
実際に食べ始めると
その“そんなに”の意味が違った。
速い。
そして多い。
善逸が途中で箸を止める。
「え、
ちょっと待って……
今何杯目……?」
「四杯目だよぉ!」
「まだ昼だよ!?」
伊之助は逆に闘志を燃やしていた。
「負けねぇ!!」
「なんで張り合うんだよ!!」
その騒がしさの中で、
炭治郎はふと横を見る。
時透は静かに箸を動かしていた。
相変わらず無駄がない。
だが、
昨日よりほんの少しだけ
その輪郭が“人の中”にあるように見えた。
黙っているのは変わらない。
表情も薄い。
それでも、
ここにいる。
その事実だけが、
ほんの少しだけ違っていた。
蜜璃がそんな時透を見ながら、
にこにこと笑う。
「時透くんもちゃんと食べててえらいねぇ」
「……別に普通だけど」
「そういう普通が大事なんだよぉ!」
時透は何も返さない。
だが、
その沈黙は
昨日より少しだけ柔らかかった。
炭治郎はその空気を感じながら、
ふと胸の奥で思う。
やっぱり柱はすごい。
強いのに、
それぞれ全然違う。
張り詰め方も。
立ち方も。
持っている空気も。
それなのに、
ちゃんと“人”としてそこにいる。
こういう時間も、
たぶん大事なのだと
炭治郎は思った。
鍛えること。
積むこと。
通すこと。
それだけじゃない。
こうして誰かと食べることも、
笑うことも、
力を抜くことも。
きっと全部、
戦う人間が崩れないためには必要なのだ。
食事のあと、
里の空気は少しだけ穏やかだった。
炭治郎は、
縁壱零式の前へ戻る前に
少しだけ空を見上げた。
雲は薄い。
風も穏やかだ。
何も起こらないように見える。
だが、
その“何も起こらない”が
永遠ではないことを、
炭治郎はもう知っていた。
隣で、
蜜璃がふと空を見ながら呟く。
「平和だねぇ」
その言葉に、
炭治郎は少しだけ視線を向ける。
蜜璃は笑っていた。
だが、
ただ明るいだけではない顔だった。
その横顔には、
戦ってきた人の静けさが
確かにあった。
「……はい」
炭治郎も、
小さく頷く。
平和だ。
だからこそ、
守らなければならない。
この里も。
ここで刀を打つ人たちも。
食事の湯気も。
笑い声も。
温かいものは、
壊れる時ほど一瞬で消える。
それを知っているからこそ、
今この時間が
妙に大事に思えた。
その時だった。
ふいに、
風の匂いが変わる。
炭治郎の鼻先が、
わずかに動いた。
「……?」
ほんの一瞬だけ、
妙な違和感が走る。
鉄とも違う。
湯とも違う。
何か、
澱んだものが
風の奥に混じった気がした。
炭治郎がそちらを見た時には、
もう風は流れていた。
「どうしたの?」
蜜璃が首を傾げる。
炭治郎は少しだけ迷ってから、
首を横に振った。
「……ううん」
「気のせいかもしれない」
そう答えながらも、
胸の奥に
小さな引っかかりだけが残る。
それはまだ、
形にならない違和感だった。
だが――
何かが、
近づいている。
そんな気配だけが、
静かに風の奥へ残っていた。
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第五十三話 終