鬼滅の刃 ― 礎 ―   作:【規制済み】

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第五十四話 ― 崩壊の予兆

 

風の匂いが、

確かに変わっていた。

 

食事処を出たあとも、

炭治郎の鼻には

あの妙な引っかかりが残っていた。

 

鉄ではない。

 

湯でもない。

 

里に満ちていた

穏やかな匂いのどこかに、

微かに混じる異物。

 

それはまだ薄い。

 

だが、

一度気づいてしまえば

無視できる類のものではなかった。

 

「……」

 

炭治郎は、

無意識に立ち止まる。

 

その横で、

甘露寺が不思議そうに顔を覗き込んだ。

 

「炭治郎くん?」

 

「……何か、

変な匂いがします」

 

その一言で、

空気が少しだけ変わる。

 

甘露寺の表情から、

ふわりとした明るさが一段落ちた。

 

「変な匂い?」

 

「はい……

上手く言えないんですけど……」

 

炭治郎は眉を寄せる。

 

鬼の匂いに似ている。

 

だが、

いつもの鬼とも少し違う。

 

もっと、

ぬめるような。

 

湿った土の奥から

何かが滲み出してくるような、

嫌な匂いだった。

 

「里の匂いに、

何か混じってる感じがして……」

 

その言葉を聞いた瞬間、

少し離れていた時透の足が止まる。

 

表情は変わらない。

 

だが、

その目だけが静かに細くなった。

 

「どっち」

 

短い問いだった。

 

炭治郎は反射で顔を上げる。

 

時透はもう、

さっきまでの食事の空気にはいなかった。

 

柱の顔だった。

 

「……まだ、

はっきりは……」

 

炭治郎がそう答えかけた時だった。

 

――ズズ……

 

地の底を、

何か巨大なものが擦るような音がした。

 

「……!」

 

炭治郎の全身が総毛立つ。

 

遅れて、

地面がわずかに震えた。

 

里の空気が止まる。

 

誰かが遠くで足を止める気配。

 

木々のざわめきが、

一瞬だけ不自然に途切れた。

 

そして次の瞬間――

 

ドォン!!

 

凄まじい衝撃音が、

里の奥から響き渡った。

 

地が跳ねる。

 

空気が揺れる。

 

建物の一角から、

土煙が一気に噴き上がる。

 

「なっ……!?」

 

善逸が顔を引きつらせる。

 

伊之助が即座に牙を剥いた。

 

「なんだァ!!」

 

炭治郎は反射で息を呑む。

 

爆ぜたのは、

里の端だった。

 

だがその一撃だけで、

ただ事ではないと分かる。

 

崩れ方が異常だった。

 

人の手でも、

鬼の腕力でもない。

 

もっと別の、

“壊すことそのもの”に慣れた何かの破壊だった。

 

「鬼」

 

時透が、

静かに言った。

 

短い。

 

だが、

断定だった。

 

その声を聞いた瞬間、

甘露寺の空気が完全に切り替わる。

 

柔らかな気配が、

すっと消える。

 

その代わりに現れたのは、

柱としての張り詰めた強さだった。

 

「炭治郎くん、

善逸くん、伊之助くん」

 

声は明るくない。

 

だが、

不思議なほど落ち着いていた。

 

「里の人たちを守って」

 

その一言に、

炭治郎の背筋が一気に伸びる。

 

「はい!」

 

即答だった。

 

その返事を聞くより早く、

時透はすでに駆け出していた。

 

音がない。

 

ただ、

気づいた時にはもう

その姿が数歩先にある。

 

霞が流れるみたいだった。

 

甘露寺も続く。

 

こちらは時透とは違う。

 

柔らかいのに速い。

 

弾むようでいて、

一切の無駄がない。

 

その二人の背を見た瞬間、

炭治郎は改めて理解する。

 

――柱だ。

 

強い。

 

あまりにも。

 

だが、

見惚れている時間はなかった。

 

「行こう!!」

 

炭治郎が叫ぶ。

 

善逸は青ざめたまま頷き、

伊之助はすでに前へ出ていた。

 

その時だった。

 

里の反対側――

少し高い場所から、

一つの影が静かに降りた。

 

真壁だった。

 

その着地には、

音がほとんどない。

 

だが、

そこに立っただけで

周囲の空気が変わる。

 

「真壁さん!」

 

炭治郎が声を上げる。

 

真壁はすぐに周囲を見渡した。

 

一瞬で状況を測る目だった。

 

土煙。

 

崩れた建物。

 

混乱しかけている里人たち。

 

そして、

戦える者と守るべき者。

 

全部を、

一息で仕分けているように見えた。

 

「里の人を先に動かせ」

 

真壁の声は低い。

 

だが、

妙に通る。

 

「刀鍛冶達を戦場へ残さず」

 

「小鉄くんも!」

 

炭治郎が即座に言う。

 

その時だった。

 

「炭治郎」

 

低い声が、

すぐ後ろから落ちた。

 

炭治郎が振り向く。

 

そこに立っていたのは、

鋼鐵塚だった。

 

顔を隠すひょっとこ面。

 

だがその立ち姿には、

いつもの奇矯さとは違う

張り詰めたものがあった。

 

鋼鐵塚は何も言わず、

一本の刀を炭治郎へ差し出す。

 

「お前の刀はまだだ」

 

「これは急拵えだ」

 

「折るな」

 

炭治郎は一瞬だけ目を見開き、

すぐにその刀を受け取る。

 

「……はい!」

 

手の中に収まる重み。

 

馴染みは浅い。

 

いつもの刀とは違う。

 

だが、

今この瞬間に必要なのは

完璧な一振りではない。

 

“立つための刃”だった。

 

鋼鐵塚はそれ以上何も言わない。

 

ただ、

炭治郎の手元を一度だけ見て、

すぐに小鉄の方へ視線を向けた。

 

「小僧は下がれ」

 

その声には、

短いが逆らえない強さがあった。

 

真壁はその様子を一瞥し、

短く言った。

 

「竈門くん、君は我妻くん、嘴平くんを連れて西側へ」

 

「気配が散っています」

 

「鬼は一体じゃない」

 

その言葉に、

炭治郎の胸が強く脈打つ。

 

一体じゃない。

 

つまり――

 

「上弦……?」

 

善逸が震えた声で呟く。

 

真壁は答えない。

 

だが、

その沈黙だけで十分だった。

 

空気がさらに冷える。

 

炭治郎の鼻にも、

もうはっきりと分かっていた。

 

鬼の匂い。

 

しかも、

一つじゃない。

 

異質で、

濃くて、

嫌な気配が

里のあちこちへ滲み始めている。

 

「っ……!」

 

炭治郎が刀へ手をかける。

 

その瞬間、

真壁の視線が一度だけこちらへ落ちた。

 

静かな目だった。

 

だが、

その奥にはもう戦場の色がある。

 

「焦るな」

 

短い一言。

 

それだけなのに、

炭治郎の呼吸が少しだけ戻る。

 

「崩れるな。

先に守るものを見失うな」

 

その言葉は、

命令というより

地面を置かれるような感覚だった。

 

炭治郎は強く頷く。

 

「はい!」

 

真壁はそれ以上何も言わない。

 

ただ、

里の中央へ向けて一歩踏み出す。

 

その背は大きく見えた。

 

派手さはない。

 

だが、

今この瞬間、

誰よりも“崩れない場所”に立とうとしている背だった。

 

 

里は、

すでに悲鳴と混乱に飲まれ始めていた。

 

ひょっとこ面の刀鍛冶たちが、

何が起きたのかも分からないまま

周囲を見回している。

 

建物の影から飛び出す者。

 

転ぶ者。

 

叫ぶ者。

 

だがその中で、

炭治郎は歯を食いしばる。

 

守らなければならない。

 

この里を。

 

ここで刀を打つ人たちを。

 

積み上げてきたものを。

 

壊させるわけにはいかない。

 

「善逸!

伊之助!」

 

「おう!!」

 

「うわああああ怖いけど行くしかないぃぃ!!」

 

三人が駆け出す。

 

その時だった。

 

ズズ……

 

また、

地の底から

あの嫌な音が響く。

 

炭治郎が反射で振り向く。

 

崩れた建物の向こう。

 

土煙の奥。

 

そこに、

何かが“いる”。

 

最初は、

建物の残骸かと思った。

 

だが違う。

 

それは、

あまりにも異様な形をしていた。

 

壺。

 

巨大な壺が、

半ば地面から生えるように

そこにあった。

 

その表面はぬめり、

歪み、

生き物のように脈打っている。

 

そしてその壺の口から、

ゆっくりと

何かが覗いた。

 

目。

 

ぬるりとした視線。

 

粘つく笑み。

 

炭治郎の全身に、

ぞわりと悪寒が走る。

 

「っ……!」

 

同時に、

別方向から

まるで“感情そのもの”が

散らばるような

不快な気配が膨れ上がった。

 

一つではない。

 

怒り。

 

喜び。

 

哀しみ。

 

楽。

 

混ざり合わず、

それぞれが勝手に膨らむような、

異常な気配。

 

それらが同時に、

里へ入り込んでいる。

 

炭治郎の喉が鳴る。

 

理解したくなかった。

 

だが、

理解してしまう。

 

これはもう、

普通の鬼ではない。

 

もっと上だ。

 

もっと異常だ。

 

もっと、

“壊すことに慣れた側”だ。

 

「……来たか」

 

遠く、

真壁の低い声が落ちる。

 

その視線の先、

土煙の奥で

異形の気配がゆっくりと形を取っていく。

 

里の静けさは、

もう戻らない。

 

積み上げてきた時間は、

今この瞬間から

壊されようとしていた。

 

だが――

 

だからこそ、

ここで立たなければならない。

 

炭治郎は刀を抜く。

 

呼吸を整える。

 

足を置く。

 

胸の奥で、

縁壱零式との鍛錬が、

夢で見た動きが、

そして真壁の言葉が

一つずつ繋がる。

 

崩れるな。

 

先に守るものを見失うな。

 

炭治郎は前を見た。

 

戦いが、

始まる。

 

 

第五十四話 終

 

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