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里の空気は、
もう完全に変わっていた。
さっきまであった
鉄の熱も、
湯の匂いも、
人の営みの気配も。
全部が、
土煙と悲鳴の奥へ押しやられている。
代わりに広がっていたのは、
鬼の気配だった。
濃い。
重い。
そして何より、
一つではない。
炭治郎は走りながら、
歯を食いしばる。
視界の端で、
崩れた屋根が落ちる。
里人の叫びが上がる。
木々の向こうでは、
何かがぶつかり合うような衝撃音が
断続的に響いていた。
その中には、
柱の気配もあった。
時透と甘露寺は、
すでに別方向へ走っている。
時折、
遠くの建物の向こうで
何かが断ち切られるような音が響く。
柱もまた、
別の火種を潰しているのだと分かった。
だからこそ、
今ここで止まるわけにはいかない。
「善逸!
そっちの通り見てくれ!」
「分かってるよぉ!!」
「伊之助、
屋根の上!」
「わかってらぁ!!」
三人は散りすぎない距離を保ちながら、
里の西側へ駆けていた。
真壁の言葉通り、
気配は散っている。
つまり敵は、
意図的に里を壊しに来ている。
守る場所を増やし、
守る側を裂くために。
炭治郎は奥歯を噛む。
上弦。
その言葉の重さを、
もう嫌というほど知っていた。
遊郭での戦いが脳裏をよぎる。
あの時でさえ、
一歩間違えば
全員死んでいた。
それが今、
二つ以上。
しかも、
場所は守るべき里の中だ。
手が足りない――
だけど今は、
こっちで止めるしかない。
「くそっ……!」
炭治郎の足が、
自然と速くなる。
次の瞬間だった。
「うわぁぁぁぁ!!」
前方の路地から、
刀鍛冶の一人が転がるように飛び出してきた。
ひょっとこ面が半ば外れ、
足元ももつれている。
その背後――
ズル……ッ
地を這うような音とともに、
異様な影が現れた。
「っ!!」
炭治郎の全身が反応する。
それは鬼だった。
だが、
人の形が曖昧だった。
腕が長い。
脚が歪に曲がっている。
顔の半分が潰れたように崩れ、
口だけが異様に裂けている。
そしてその身体には、
まるで壺の内側から無理やり押し出されたみたいな
ぬめりが張りついていた。
「何だあれ……!」
善逸の声が裏返る。
「なんだこいつァ!!」
伊之助が叫ぶ。
炭治郎は即座に理解した。
上弦本体ではない。
だが、
ただの鬼でもない。
あれは、
上弦が生んだ“壊すための手”だ。
「下がって!!」
炭治郎が刀鍛冶へ叫ぶ。
男が振り返る。
その一瞬で、
鬼が跳ねた。
速い。
炭治郎は咄嗟に前へ出る。
足を置く。
呼吸を整える。
受けるだけじゃない。
止めるだけでもない。
“次へ繋ぐ”――
「水の呼吸、壱ノ型――」
踏み込む。
「水面斬り!!」
刃が走る。
横一閃。
鬼の腕を斬り飛ばす。
刃が、わずかに滑る。
ぬめった血が飛び散り、
嫌な匂いが一気に広がった。
「うっ……!」
切った感触が浅い。
いや、
浅いというより、
“芯がない”。
斬ったはずなのに、
手応えが気持ち悪いほど薄い。
鬼がそのまま、
裂けた口を歪めて笑う。
次の瞬間、
切り飛ばしたはずの腕の断面が
ぶるりと脈打った。
「再生っ!?」
善逸が叫ぶ。
「しかも速ぇ!!」
伊之助が前へ出る。
「なら細けぇのは俺が裂く!!」
「待って伊之助!!」
止めるより先に、
伊之助が突っ込んだ。
「うおおおお!!」
気魄と共に獣の様な踏み込みで一気に間合いを詰め、
鬼の胴を斜めに裂く。
「獣の呼吸、弐ノ牙――」
「切り裂き!!」
肉が裂ける。
だがその瞬間、
鬼の身体が
まるで泥みたいに歪んだ。
「なっ!?」
伊之助の刃が、
深く入る前に滑る。
次の瞬間、
鬼の長い腕が
伊之助の横腹へ薙ぎ払われた。
「ぐぁっ!!」
「伊之助!!」
炭治郎が叫ぶ。
だがその前に――
雷みたいな音が走った。
「雷の呼吸、壱ノ型――」
善逸の姿が消える。
「霹靂一閃!!」
一直線。
抜き打ちの一撃が、
鬼の首元を正確に薙いだ。
一瞬遅れて、
首が飛ぶ。
鬼の身体がぐらりと傾く。
善逸が着地する。
「はぁっ……はぁっ……」
呼吸は荒い。
だが、
目だけはちゃんと敵を見ていた。
「今のうちに……!」
その時だった。
落ちたはずの鬼の首が、
地面の上で
ぬるりと動いた。
「えっ……」
善逸の顔が凍る。
首だけになった鬼が、
裂けた口を大きく開く。
そして――
ギャアアアアアアアア!!
異様な叫びが、
里全体へ響き渡った。
「っ、耳が……!」
炭治郎が顔をしかめる。
その叫びには、
ただの音じゃない何かが混じっていた。
不快。
苛立ち。
混乱。
そういう感情を
無理やり頭の中へ流し込まれるみたいな、
嫌な響きだった。
「こいつ……!」
伊之助が歯を剥く。
善逸が首だけの鬼を見ながら、
息を荒げる。
「こいつ……
叫ぶ前に、
ほんの一瞬だけ息吸ってる!!」
その時、
少し離れた場所で
建物ごと薙ぎ払うような衝撃音が響く。
地面が揺れる。
空気が裂ける。
柔らかく見えるのに、
あの人の斬撃は
里の空気そのものを揺らす。
まだ戦場は広がっている。
ここだけじゃない。
「炭治郎!!」
善逸の叫びに、
炭治郎は我に返る。
首だけの鬼の叫びに呼応するように、
路地の奥、
崩れた壁の影、
屋根の上――
あちこちから、
同じ匂いが立ち上がった。
「……増えた」
炭治郎の喉が鳴る。
壺から生まれた鬼たち。
それが里の各所へ
すでにばら撒かれている。
その全部を、
今この場の自分たちだけでは拾い切れない。
そんな嫌な確信が、
炭治郎の胸をかすめた。
「これ、
全部相手にしてたらキリがねぇぞ!!」
伊之助が叫ぶ。
その通りだった。
ここで足を止めれば、
里全体が削られていく。
だが、
放ってもおけない。
炭治郎の頭が一瞬だけ熱くなる。
全部守らなければ。
全部止めなければ。
そう思った瞬間――
崩れるな
低い声が、
胸の奥で蘇る。
――危うい時ほど足元から。
炭治郎は息を吸う。
そして、
無理やり視界を絞った。
全部じゃない。
今、
最初に守るべきものを選ぶ。
「善逸!!」
「な、なに!?」
「叫ぶ首を先に落とし切って!
あれが呼んでる!!」
「えっ俺ぇ!?」
「伊之助は右!!
路地の中の鍛冶師さん達を引っ張り出して!!」
「右の奥まだいる!!
壁の裏だ!!」
伊之助が鼻をひくつかせて叫ぶ。
「おう!!」
「俺は前を止める!!」
言葉にした瞬間、
頭の中の霧が少しだけ晴れた。
善逸が一瞬だけ怯み、
それでも歯を食いしばる。
「やるしかないかよぉぉ!!」
泣きそうな声のまま、
足はもう踏み込んでいた。
伊之助は返事と同時に
路地へ突っ込んでいる。
炭治郎は前を向く。
来る。
ぬめった気配が、
一斉にこちらを見た。
その瞬間――
視界の端、
崩れた屋根の向こうを
霞のような影が一瞬だけ横切った。
時透だ。
もうすでに、
別の何かを斬り捨てながら
この戦場へ近づいている。
だが、
まだここは自分たちの持ち場だ。
炭治郎は刀を握る。
応急の刀。
馴染みは浅い。
重さも違う。
だが、
今はそれでも。
立てるなら、
通せるなら、
十分だ。
「――来い」
炭治郎が低く吐く。
鬼たちが、
同時に跳ねた。
壺から生まれた異形。
叫ぶ首。
散った気配。
分かれた戦場。
里のあちこちで、
戦いが同時に始まっている。
その中心で、
炭治郎は足を置いた。
崩れないために。
守るものを、
見失わないために。
そして、
その先へ繋ぐために。
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第五十五話 終
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