鬼滅の刃 ― 礎 ―   作:【規制済み】

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幕間 ― 小さな火

 

暗い箱の中で、

禰豆子は眠っていた。

 

浅くもなく、

深くもなく。

 

ただ静かに、

夜の底へ沈むみたいに。

 

炭治郎の匂いが近くにある時、

その眠りはいつもどこか安らかだった。

 

けれど今は違う。

 

どこか遠くで、

何かが崩れる気配がした。

 

音ではない。

 

声でもない。

 

もっと曖昧で、

もっと嫌なもの。

 

守るべきものが

壊れていく時の、

あの空気だった。

 

「……」

 

禰 豆子のまぶたが、

かすかに震える。

 

次の瞬間――

 

ドォン!!

 

遠くから響いた衝撃が、

箱の中の空気まで震わせた。

 

その一撃で、

眠りが浅く裂ける。

 

禰豆子は、

ゆっくりと目を開けた。

 

暗闇。

 

木の匂い。

 

炭治郎の匂いは、

ここにはない。

 

けれど――

 

嫌な匂いだけは、

はっきりと近づいていた。

 

ぬめるような。

 

湿った土の奥から

腐ったものが這い出してくるような、

不快な気配。

 

禰豆子の目が、

静かに細くなる。

 

そして、

箱の内側へ手をかけた。

 

 

 

外へ出ると、

里の空気はもう乱れていた。

 

土煙。

 

悲鳴。

 

崩れた木材の匂い。

 

鉄の匂い。

 

そして鬼。

 

禰豆子は一瞬だけ立ち止まり、

周囲を見た。

 

炭治郎はいない。

 

善逸も、

伊之助もいない。

 

だが、

あちこちで人の気配が揺れている。

 

逃げ遅れている。

 

隠れている。

 

怯えている。

 

その中に混じって、

鬼の匂いが散っていた。

 

禰豆子は走り出す。

 

音はほとんどない。

 

ただ、

風を切るように

里の細い路地を抜けていく。

 

その途中、

崩れた建物の影から

かすかな声が聞こえた。

 

「だ、誰か……!」

 

禰豆子の足が止まる。

 

そこには、

倒れた柱木の下敷きになった

刀鍛冶の男がいた。

 

ひょっとこ面は割れ、

片足が木材に挟まれている。

 

動けない。

 

そのすぐ近く、

崩れた壁の奥から

ぬるりと何かが這い出してくる気配がした。

 

「っ……」

 

男の顔が強張る。

 

見えてしまったのだ。

 

鬼が来る。

 

助からないと、

その顔が語っていた。

 

だがその時、

禰豆子が一歩前へ出た。

 

「……!」

 

男が目を見開く。

 

少女。

 

竹筒を咥えた、

鬼の少女。

 

一瞬だけ、

男の理解が止まる。

 

だが、

禰豆子は振り返らない。

 

その視線は、

まっすぐ前を見ていた。

 

ズル……ッ

 

崩れた壁の奥から、

異形の鬼が姿を現す。

 

人の形を真似ているのに、

どこか崩れている。

 

腕が長い。

 

首が斜めに折れたまま、

裂けた口だけが笑っていた。

 

身体の表面には、

壺の中の泥みたいな

ぬめりが張りついている。

 

鬼の匂い。

 

本体ではない。

 

だが、

壊すために撒かれた鬼だ。

 

鬼が、

ぬるりと前へ出る。

 

禰豆子は動かない。

 

男の前から、

一歩も退かない。

 

次の瞬間、

鬼が跳ねた。

 

速い。

 

裂けた腕が、

真っ直ぐ禰豆子の喉元へ伸びる。

 

だが――

 

バシィッ!!

 

禰豆子の蹴りが、

その腕を真横から叩き折った。

 

「!?」

 

男が息を呑む。

 

鬼の腕が

不自然な方向へ曲がる。

 

だが、

それでも止まらない。

 

折れたまま、

ぬめりながら、

鬼はなおも這い寄ってくる。

 

禰豆子の目が、

静かに赤く染まった。

 

「……ッ」

 

喉の奥で、

低い唸りが漏れる。

 

鬼が再び飛びかかる。

 

今度は、

左右から同時に伸びる腕。

 

禰豆子はその場で身体を捻り、

片方を躱し、

もう片方を掴んだ。

 

そのまま、

地面へ叩きつける。

 

ドォン!!

 

土が跳ねる。

 

鬼の身体が沈む。

 

だが、

まだ終わらない。

 

泥みたいに歪んだ身体が、

すぐに形を戻そうと脈打つ。

 

再生。

 

速い。

 

普通の斬撃や打撃では、

止め切れない。

 

その瞬間、

鬼のぬめりが

地面を這うように広がり、

下敷きの刀鍛冶へ伸びた。

 

「ひっ……!」

 

男の顔が青ざめる。

 

禰豆子の目が、

鋭く揺れる。

 

そして次の瞬間――

 

ボッ

 

小さな火が、

禰豆子の血から灯った。

爆血。

 

赤い炎が、

ぬめった鬼の腕へ走る。

 

だがその火は、

木材も、

人の衣も焼かない。

 

鬼の肉だけを、

正確に焼いた。

 

「――!!!」

 

鬼が無音の悲鳴みたいに口を開く。

 

ぬめりが一気に縮む。

 

拘束しようとしていた鬼の肉が、

火に焼かれて弾け飛ぶ。

 

男の身体から、

圧迫が消えた。

 

禰豆子はすぐに振り返り、

崩れた柱木へ手をかける。

 

ぎしり、と音がする。

 

細い腕。

 

だが、

その腕力は明らかに人間のものではなかった。

 

「え……」

 

男が息を呑む。

 

禰豆子は何も言わない。

 

ただ、

木材を持ち上げる。

 

男の足が外れる。

 

その瞬間、

禰豆子は男の腕を掴み、

無理やり引きずるように

安全な壁際へ押しやった。

 

「た、助け……」

 

男の言葉は、

最後まで形にならなかった。

 

禰豆子はもう、

そちらを見ていなかったからだ。

 

鬼が、

まだ立ち上がっていた。

 

焼けたはずの肉が、

またぬめりながら戻り始めている。

 

しぶとい。

 

壊すためだけに練られたような、

嫌な再生力だった。

 

禰豆子は低く身を沈める。

 

鬼が跳ねる。

 

その瞬間、

禰豆子も地を蹴った。

 

速い。

 

真正面からぶつかる。

 

拳がめり込む。

肋の砕ける音がした。

 

返しの蹴りが、

鬼の首を無理やりに跳ね上げる。

 

そしてそのまま、

禰豆子は鬼の頭を掴み――

 

ドン!!

 

地面へ叩きつけた。

 

赤い火が、

遅れてそこへ走る。

 

爆血が、

鬼の頭部と胴を繋ぐ部分を

一気に焼いた。

 

「――ッ!!」

 

鬼の身体が、

痙攣する。

 

そしてようやく、

動きが止まった。

 

ぬめりが、

じわじわと崩れていく。

 

残ったのは、

嫌な匂いだけだった。

 

 

 

禰豆子は、

静かに立ち上がる。

 

肩が上下している。

 

完全に無傷ではない。

 

腕には、

さっき掠めた鬼の爪痕が残っていた。

 

だが、

もう塞がり始めている。

 

壁際では、

助けられた刀鍛冶が

呆然とこちらを見ていた。

 

何か言おうとしている。

 

だが、

言葉にならない。

 

目の前にいたのは間違いなく鬼だ。

 

牙もある。

赤い目もある。

 

それなのに。

自分を守った。

 

その理解が、

まだ追いついていないのだろう。

 

禰豆子は、

男を一度だけ見た。

 

それだけだった。

 

礼を求めるでもなく、

安心させるでもなく。

 

ただ、

“無事”を確かめるみたいに。

 

そしてすぐに、

顔を上げる。

 

まだ終わっていない。

 

風の向こうから、

同じ匂いがいくつも流れてくる。

 

里のあちこちで、

まだ壊れている。

 

まだ誰かが、

助けを必要としている。

 

その時――

 

ふと、

別の匂いが風に混じった。

 

「……」

 

お兄ちゃん。

 

遠い。

けれど、

確かに分かる。

 

離れていても、

置いていかれてはいない。

 

その匂いの向こうには、

もっと濃い鬼の気配もあった。

 

戦場の中心。

 

一番、

崩れやすい場所。

 

禰豆子の目が、

静かに細くなる。

 

すぐに向かうべきか。

 

まだここに残るべきか。

 

ほんの一瞬だけ、

その身体が止まる。

 

だが次の瞬間、

少し離れた場所から

また誰かの悲鳴が上がった。

 

「――ッ!」

 

禰豆子の足が動く。

 

兄の元へ行く前に、

まだ拾える命がある。

 

まだ繋げるものがある。

 

なら、

今はそちらが先だ。

 

きっと兄ならそうするだろう。

 

小さな火が、

また一つ揺れる。

 

誰にも見られなくても。

 

誰にも知られなくても。

 

それでも確かに、

壊れかけたものを支えるために。

 

禰豆子は、

再び走り出した。

 

土煙の中を。

 

悲鳴の向こうへ。

 

小さな火を、

まだ消さないために。

 

 

幕間 ― 小さな火 終

 

 

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