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壺の匂いは、
崩れた建物のさらに奥から
濃く流れてきていた。
湿った土。
腐った水。
ぬめる肉のような、
嫌な臭気。
それが風の奥で、
脈を打つみたいに
断続的に膨らんでいる。
「……近い」
炭治郎が低く言う。
その声に、
善逸と伊之助の気配が
すぐ後ろでわずかに締まった。
「ほんとにこんな奥にいんの……?」
善逸の声は震えている。
だが、
足は止まっていない。
「いる!!
くせぇのがずっと壁の向こうにいる!!」
伊之助は鼻息を荒くしながら、
半ば獣みたいな足取りで先を睨んでいた。
炭治郎は急拵えの刀を握り直す。
手に馴染まない重さ。
ほんの少しだけズレる感覚。
それでも今は、
この刃で通すしかない。
止まれば、
里が削られる。
迷えば、
誰かが死ぬ。
だから進む。
壺の匂いのする方へ。
“増える口”を潰すために。
⸻
次の瞬間だった。
ズル……ッ
崩れた塀の向こうから、
また一体、
壺鬼が這い出してきた。
さらにその奥。
屋根の影。
路地の隙間。
ぬるり、
ぬるりと、
同じ気配が次々に滲み出してくる。
「うわぁぁまた出た!!」
善逸が叫ぶ。
「キリがねぇぞこれ!!」
「だから口を塞ぐんだ!!」
炭治郎が叫び返す。
その瞬間、
壺鬼が一斉に跳ねた。
「来い!!」
炭治郎が前へ出る。
二体。
いや、
三体。
一体は善逸へ。
もう一体は伊之助へ。
残りが真正面から自分へ来る。
なら――
「水の呼吸、肆ノ型――」
足を踏み換える。
刀を返す。
「打ち潮!!」
連続の斬撃が、
真正面の二体をまとめて薙ぐ。
ぬめった肉が裂ける。
腕が飛ぶ。
脚が落ちる。
だが、
それでもまだ止まらない。
「っ、やっぱり浅い!!」
芯がない。
いや違う。
芯はある。
だが、
その“芯”へ届く前に
刃が滑る。
肉が流れる。
切断の手応えが、
いつもの鬼とまるで違う。
「炭治郎ぉ!!」
善逸が後ろで悲鳴を上げる。
振り向く。
壺鬼の一体が、
善逸の足元へぬめるように潜り込み、
足を取ろうとしていた。
「くそっ!!」
炭治郎が飛び込むより先に――
「うらァッ!!」
伊之助の二刀が、
その鬼の背から頭頂までを
強引に裂き上げた。
「どこ見てやがる!!
しっかりしろ!!」
「伊之助……!」
炭治郎の目が熱を帯びる。
伊之助はもう、
ただ突っ込んでいるだけじゃない。
見えている。
拾えている。
今、誰のどこが危ういかを。
その間にも、
壺鬼たちはまだ湧く。
壁の奥から。
床下から。
割れた木材の影から。
終わらない。
このままでは、
いくら斬っても追いつかない。
炭治郎の歯が鳴る。
(やっぱり、
先に口を潰さないと……!)
その時だった。
風の奥に、
ふっと別の匂いが混じる。
「……!」
炭治郎の鼻先が動く。
鬼。
だが違う。
嫌な匂いではない。
血の匂い。
熱の匂い。
そして――
懐かしい、
あの匂い。
「禰豆子……!」
次の瞬間、
壺鬼の一体が
善逸へ飛びかかった。
だがその横から、
小さな影が滑り込む。
バシィッ!!
重い蹴りが、
壺鬼の顔面を真横から叩き潰した。
頭部が不自然に捻じれ、
鬼の身体がそのまま壁へ叩きつけられる。
「えっ……」
善逸が目を見開く。
炭治郎の呼吸が止まる。
そこに立っていたのは――
禰豆子だった。
竹筒を咥えたまま。
赤みを帯びた瞳で、
まっすぐ鬼を見据えている。
腕には、
薄く新しい爪痕があった。
完全に無傷じゃない。
それでも、
その立ち姿は
少しも揺れていなかった。
「禰豆子!!」
炭治郎の声が、
思わず熱を帯びる。
禰豆子は振り向かない。
ただ、
ほんの一瞬だけ
耳がこちらを向いた。
それだけで、
炭治郎には十分だった。
来てくれた。
戦っていた。
守っていた。
自分と同じように。
「うわぁぁぁなんで普通に合流してんの!?
しかも強い!!」
善逸が叫ぶ。
「いいぞ妹ぉ!!
俺の分残しとけよ!!」
伊之助はなぜか嬉しそうだった。
だが、
再会に浸る時間はない。
壺鬼がまた湧く。
しかも今度は、
奥の方から
一際濃い匂いが流れてきた。
「っ……!」
炭治郎の目が細くなる。
いた。
供給源。
この異形たちを
吐き出している“口”が、
もうすぐそこにある。
「禰豆子!!
行くぞ!!」
禰豆子が低く唸る。
返事の代わりだった。
炭治郎はすぐに指示を飛ばす。
「善逸!!
叫ぶ首と後ろの処理!!」
「また俺ぇ!?」
「伊之助は左の壁沿い!!
人の気配がまだ二つある!!」
「応!!」
「禰豆子は俺と前!!」
言い切った瞬間、
頭の中の盤面が
一気に揃う。
足りない場所が、
埋まった感覚があった。
炭治郎は前へ出る。
禰豆子も同時に走る。
兄が斬り、
妹が支える。
妹が止め、
兄が通す。
その呼吸が、
言葉にしなくても
不思議なほど噛み合っていた。
供給源は、
崩れた鍛冶小屋の奥にあった。
半ば潰れた床板の下。
そこに、
大きな壺が
斜めに埋まるように口を開いていた。
異様だった。
表面はぬめり、
歪み、
肉みたいに脈打っている。
そしてその壺の口から、
また新たな鬼の腕が
ぬるりと這い出してくる。
「これだ……!」
炭治郎が息を呑む。
間違いない。
こいつが、
この辺り一帯へ鬼を吐き出していた。
「壊す!!」
踏み込む。
刀を振り上げる。
「水の呼吸、壱ノ型――」
斬る。
壺の縁へ、
全力の一閃が叩き込まれる。
「水面斬り!!」
ガギィン!!
鈍い音が響いた。
壺の口元が裂ける。
だが――
「硬い……!!」
斬れていない。
いや、
斬っている。
だが、
“壊し切れてない”。
ぬめった肉みたいな表面が
刃を受け流し、
壺の核へ届く前に止めてしまう。
次の瞬間、
壺の奥から
新しい鬼の腕が
炭治郎の顔を掴もうと飛び出した。
「っ!!」
避ける。
だが、
半歩遅い。
その時――
禰豆子が横から飛び込んだ。
ドゴッ!!
蹴りが、
飛び出した腕ごと
壺の口を横殴りに叩く。
壺がぐらりと揺れる。
その隙に、
炭治郎は後ろへ跳んだ。
「ありがとう……!」
だが、
まだ足りない。
斬れない。
壊し切れない。
今の自分の刃では、
この“ぬめり”の奥まで届かない。
その時、
禰豆子が
壺の口元を見ながら
低く唸った。
「……?」
炭治郎が目を向ける。
禰豆子の目が、
壺のぬめりを見て細くなる。
その爪先から滲んだ血が、
狙うように壺の口元へ落ちた。
そして――
ボッ
小さな赤い火が灯った。
「……!」
炭治郎の目が開く。
爆血。
赤い炎が、
壺のぬめった表面を這う。
木材は燃えない。
周囲も焼かない。
鬼の肉だけを、
正確に焼いていく。
ぬめりが縮む。
表面がひび割れる。
脈打っていた肉の流れが、
そこで初めて乱れた。
「いける……!」
炭治郎の呼吸が変わる。
今ならいける。
今なら、
届く。
「禰豆子!!」
禰豆子が
壺へもう一度踏み込む。
拳が入る。
蹴りが叩き込まれる。
そのたびに、
赤い火がぬめりへ走る。
再生が鈍る。
肉が崩れる。
壺の口が、
明らかに弱っていく。
そしてその瞬間、
炭治郎は足を置いた。
受ける。
沈む。
戻す。
置く。
鍛錬で積み上げたものが、
全部そこへ繋がる。
今の自分一人では
通し切れない。
だが――
一人ではない。
「水の呼吸、捌ノ型――」
刃を上段へ。
呼吸を通す。
「滝壺!!」
振り下ろす。
今度は違う。
爆血で焼かれ、
ぬめりを失った壺の“芯”へ、
刃がまっすぐ食い込む。
ギィン――ッ!!
嫌な軋みが響く。
刀が悲鳴を上げる。
それでも、
止まらない。
禰豆子の火が、
そこへさらに絡みつく。
「――ッ!!」
炭治郎が歯を食いしばる。
斬れ。
通れ。
今だけでいい。
この一瞬だけ、
届いてくれ――!!
次の瞬間――
バキン!!
壺の中心が、
真っ二つに割れた。
ぬめった肉が弾け飛ぶ。
中から溢れかけていた鬼の腕が、
途中で崩れ落ちる。
脈打っていた気配が、
一気にしぼむ。
「……やった……!」
炭治郎が荒く息を吐く。
その瞬間、
周囲にいた壺鬼たちの動きが
目に見えて鈍った。
止まったわけではない。
だが、
明らかに勢いが落ちている。
「供給が止まった……!」
炭治郎が呟く。
禰豆子が、
その隣で静かに肩を上下させていた。
炭治郎は思わず、
その横顔を見る。
自分一人では、
通らなかった。
今の自分の刃だけでは、
届かなかった。
でも――
禰豆子の火があったから、
通せた。
足りないままでも。
未完成のままでも。
それでも、
繋げば届く。
そのことが、
胸の奥へ静かに落ちる。
「ありがとう、禰豆子」
小さく言う。
禰豆子が微笑む。
ほんの少しだけ
肩の力を抜いた。
その時だった。
遠くの空気が、
ふいに軋む。
「……!」
炭治郎の鼻先が動く。
今までとは違う。
もっと濃い。
もっと異質な鬼の匂い。
それが、
風の向こうから
一気にこちらへ流れ込んできた。
ぬめりではない。
喜。
怒。
哀。
楽。
混ざり合わず、
それぞれが勝手に膨らむ、
異常な感情の匂い。
「っ……これは……」
炭治郎の目が細くなる。
供給源は潰した。
だが、
本当の中心はまだ別にある。
もっと濃い戦場が、
この里のどこかで
確かに脈打っていた。
炭治郎は前を見る。
壊されるだけで終わらせないために。
ここから先へ、
繋げるために。
その隣には、
もう禰豆子がいた。
足りないままでもいい。
今の自分一人では、
まだ届かない。
けれど――
繋いだ火は、
確かにその先へ届いていた。
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第五十七話 終