⸻
壺の気配が、
一つ潰えた。
崩れた鍛冶小屋の奥で、
真っ二つに割れた壺の残骸から
ぬめった臭気が薄れていく。
脈打っていた嫌な気配も、
もうない。
それでも――
「……まだいる」
炭治郎が、
荒く息を吐きながら言った。
その鼻先は、
もう次の戦場を探している。
壺鬼たちの動きは鈍った。
だが、
止まってはいない。
里のあちこちからはまだ、
悲鳴と衝撃音が断続的に響いていた。
遠くでは、
空気そのものを裂くような斬撃音が走る。
甘露寺さんだ。
別方向では、
音もなく何かが断たれていく気配がある。
時透くん。
柱たちは今も、
それぞれの戦場で火を消している。
だが――
それでも、
まだ里全体は燃えたままだった。
「はぁっ……はぁっ……もう無理だってぇ……」
善逸が膝に手をつきながら、
半泣きで息を整えている。
「無理じゃねぇ!!
まだ臭ぇのが残ってる!!」
伊之助は逆に、
神経を尖らせたまま周囲を睨んでいた。
禰豆子は炭治郎の隣で、
肩を上下させながらも
静かに前を見ている。
誰も無傷ではない。
だが、
まだ立てる。
炭治郎は息を吸った。
風の向こう。
そこに、
まだ濃い鬼の気配がある。
喜。
怒。
哀。
楽。
混ざらないまま、
勝手に膨らんでいる異常な匂い。
それは、
壺鬼のそれとは明らかに違っていた。
もっと中心。
もっと本体に近い。
「……こっちじゃない」
炭治郎が呟く。
「えっ?」
善逸が顔を上げる。
炭治郎は眉を寄せたまま、
遠くを見る。
「壺の鬼の気配は、
まだあると思う」
「でも、
今俺たちが行くべきなのはそこじゃない」
その言葉に、
善逸も伊之助も
一瞬だけ言葉を失った。
炭治郎の中で、
もう盤面は見え始めていた。
壺を媒介にしている鬼は、
柱が抑えるべき敵だ。
今の自分たちが
あちらへ寄れば、
戦場を増やすだけになる。
だがもう一つの戦場は違う。
あの匂いは、
里全体へ被害を広げる側だ。
放置すれば、
守るべきものが一気に削られる。
だから――
「もう一つの方だ」
炭治郎が低く言った。
「感情がバラけてるみたいな、
あの鬼の方へ行く」
その瞬間だった。
ザッ――
瓦礫の向こうへ、
一つの影が静かに降り立つ。
炭治郎たちの身体が、
反射で強張った。
だが次の瞬間、
炭治郎の目が見開かれる。
「真壁さん……!」
そこに立っていたのは、
真壁だった。
隊服の袖が浅く裂けている。
肩口にも、
新しい土汚れがついていた。
足元には、
ついさっきまで動いていたらしい
壺鬼の残骸が二体、
転がっている。
派手な血はない。
大きな傷もない。
それでも一目で分かった。
この人もまた、
別の場所を支えながらここまで来たのだと。
真壁は、
壊れた壺の残骸と
炭治郎たちの息遣いを一瞥する。
その視線は短い。
だが、
見るべきものを全部見ていた。
「……一本潰したか」
低い声だった。
褒めるでもなく、
驚くでもない。
ただ事実を置くみたいな声。
それが逆に、
炭治郎の胸へまっすぐ入った。
「はい」
炭治郎が頷く。
「禰豆子の爆血がなかったら、
壊し切れませんでした」
真壁の視線が、
一度だけ禰豆子へ向く。
禰豆子は静かに立ったまま、
その視線を受け止めていた。
真壁は何も言わない。
ただ、
ほんのわずかに目を細める。
それだけで十分だった。
「里の西側は、
まだ壺鬼が散っている」
真壁が言う。
「だがさっきより流れは弱い」
「供給を断った分、
ここの崩れは一段落ちる」
炭治郎は息を呑む。
やはりそうだ。
今の一手は、
無駄ではなかった。
戦場の一角を、
確かに狭められた。
だが――
「でも、
まだ奥に濃い気配があります」
炭治郎がすぐに続ける。
「壺の鬼とは別です」
「喜怒哀楽みたいに、
感情がバラけた匂いで……」
「たぶん、
そっちの方が里全体に被害を広げてる」
言いながら、
炭治郎の呼吸が少しだけ荒くなる。
急がなければならない。
だが、
焦れば崩れる。
そのせめぎ合いが、
胸の内で強く鳴っていた。
真壁はそんな炭治郎を見て、
数秒だけ黙る。
その沈黙は、
迷いではなかった。
測っているのだ。
この場の戦力を。
今動かすべき人間を。
ここに残すべき重さを。
そして――
誰に“先”を預けるべきかを。
やがて真壁は、
静かに口を開いた。
「竈門くん」
「はい」
「君の判断で合っている」
短い一言だった。
だが、
それだけで
炭治郎の中の迷いが一つ消えた。
「壺を媒介にしている方は、
時透様が抑えている」
「里の北側には甘露寺様もいる」
「だが――」
真壁の視線が、
里の奥へ向く。
その目は、
もう次の崩れ方まで見ている目だった。
「もう一方は散る」
「感情ごとに裂けたような気配だ」
「放っておくと、
里そのものを削る」
その一言で、
空気が変わる。
善逸が目を見開く。
伊之助が牙を剥くように笑う。
炭治郎の背筋が、
すっと伸びる。
だが同時に、
胸の奥で別の感情も湧いた。
「でも、
こっちは……」
言いかけたところで、
真壁が炭治郎を見る。
その目は静かだった。
強いとか、
怖いとか、
そういうものではない。
ただ、
揺れていなかった。
「こっちは持たせる」
それだけだった。
派手な言葉じゃない。
“任せろ”でもない。
“俺が何とかする”でもない。
ただ、
持たせる。
崩さない。
その言い方が、
この人らしいと思った。
炭治郎は一瞬だけ、
言葉を失う。
真壁の隊服の裾には、
乾ききっていない鬼の汚れがついていた。
呼吸も、
まったく乱れていないわけではない。
きっと楽ではない。
余裕があるわけでもない。
それでもこの人は、
自分が重い方へ立つことを
当然みたいに選んでいる。
その背中が、
妙に胸へ残った。
「……お願いします」
炭治郎が、
深く頭を下げる。
真壁はそれに答えない。
ただ、
短く言った。
「成長したな」
炭治郎の目がわずかに開く。
「全部を抱えようとするな」
「繋げるべきものを選べ」
その言葉は、
説教でも励ましでもなかった。
ただ、
今の炭治郎に必要な地面だった。
「はい」
今度の返事は、
さっきよりもずっと深く通った。
真壁はそれ以上言わず、
今度は善逸と伊之助へ目を向ける。
「我妻くん」
「ひぇっ、はいぃ!!」
「耳は利くな」
「えっ」
「竈門くんの鼻だけじゃ拾い切れない音を拾え」
善逸が一瞬だけ呆ける。
だが次の瞬間、
その顔に少しだけ違う色が差した。
怖がっているだけじゃない顔。
役割を渡された顔だった。
「嘴平くん」
「なんだ壁ぇ!!」
「隠れた気配と、
逃げ遅れを頼む」
「戦場を狭めるには、
それが早い」
伊之助の目が、
ぎらりと光る。
「応、任せろ!!」
短いやり取りだった。
だが、
それだけで三人の輪郭が
少しだけはっきりした。
誰が何をするのか。
どこで噛むのか。
その形が、
戦場の中で定まった。
最後に、
真壁の視線が禰豆子へ向く。
禰豆子は静かに見返す。
真壁は一拍だけ置いて、
短く言った。
「お兄さんを、
最後まで通してやってくれ」
禰豆子の瞳が、
わずかに揺れた。
そして小さく、
喉の奥で鳴いた。
それは返事のようにも、
誓いのようにも聞こえた。
その瞬間――
遠くで、
空気が裂けた。
ビリ、と
耳の奥へ刺さるような
高い振動。
次いで、
里の奥から
何か巨大なものが
吠えるような音が響く。
「っ……!」
炭治郎の鼻が反応する。
濃い。
さっきよりもさらに濃く、
喜怒哀楽の匂いが膨れ上がっていた。
もう時間がない。
真壁が一歩だけ、
横へ退く。
道を空けるように。
それだけの動作だった。
だがその一歩が、
まるで戦場そのものに
道を作ったみたいに見えた。
「なら、行ってこい」
短い。
それだけだった。
炭治郎が頷く。
「行こう!!」
善逸が息を呑みながらも続く。
伊之助が先頭へ飛び出す。
禰豆子がその隣を走る。
四つの影が、
次の戦場へ向かって駆け出していく。
その背を、
真壁は黙って見送った。
派手な背中ではない。
英雄の背中でもない。
ああいう背中があるから
前へ行けるのだと、
炭治郎は走りながら思った。
全部を斬れる人間じゃなくてもいい。
全部を背負い切れる人間じゃなくてもいい。
それでも、
崩れない場所に立てるなら。
誰かを前へ通せるなら。
それはきっと、
戦場で折れない強さなのだ。
炭治郎は前を見る。
その先で、
もっと濃い鬼の気配が
待っている。
なら、
次に踏み込むべき場所は決まっていた。
壊させないために。
繋ぐために。
今度は、
もっと深い戦場へ――
⸻
第五十八話 終