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風の匂いが、
変わった。
ついさっきまで
鼻の奥にまとわりついていた
壺のぬめりと腐臭が、
一段薄くなる。
その代わりに今、
里の奥から流れ込んでくるのは
もっと異様な気配だった。
喜。
怒。
哀。
楽。
混ざり合わず、
それぞれが勝手に膨らみ、
勝手に主張してくる。
まるで一つの鬼が、
四つの感情へ無理やり裂けたみたいな、
不自然な匂いだった。
「……近い」
炭治郎が低く呟く。
その足は止まらない。
瓦礫を飛び越え、
崩れた通路を抜け、
里の奥へと駆ける。
すぐ後ろには
善逸と伊之助。
そしてそのさらに横を、
禰豆子が音もなく走っていた。
さっきまでとは違う。
もう、
“足りないものを埋める”だけじゃない。
今の自分たちは、
次の戦場へ届くために
ちゃんと繋がっている。
その感覚が、
炭治郎の足を前へ運んでいた。
「うわぁぁぁなんかもう嫌な予感しかしないぃぃ!!」
善逸が涙声で叫ぶ。
「うるせぇ!!
臭ぇのはもう目の前だ!!」
伊之助が猪頭の奥で牙を剥くように笑う。
その瞬間――
ビリッ!!
空気が裂けた。
「っ!!」
炭治郎が反射で身を低くする。
次の瞬間、
頭上を何かが通り過ぎ、
背後の建物がまとめて裂け飛んだ。
ドガァン!!
木片と土煙が一気に吹き上がる。
「なっ……!?」
善逸が顔を引きつらせる。
炭治郎が顔を上げる。
そこにいた。
崩れた広場の中央。
瓦礫の上に、
異形が四つ。
一体じゃない。
四体だ。
それぞれが
人の形をしているのに、
どこか決定的に“人ではない”。
一体は、
背に翼を持ち、
杖のようなものを構えている。
一体は、
怒りを張りつかせた顔で
錫杖を握り締めていた。
一体は、
どこか力の抜けた笑みを浮かべ、
だらしなく立っている。
そしてもう一体は、
どこか哀しみを感じるような目で
こちらを見ていた。
だが、
どれも鬼だ。
しかも、
ただの鬼じゃない。
炭治郎の全身が、
嫌でも理解する。
「……こいつらだ」
空気の奥で、
感情がそれぞれ別の方向へ軋んでいる。
一つの上弦が、
そのまま四つの人格へ裂けたみたいな
不快さだった。
「増えてるぅぅぅ!!」
善逸が悲鳴を上げる。
「いや違う!!」
炭治郎が叫ぶ。
「最初から――」
その瞬間だった。
翼の鬼が、
にたりと笑う。
「おやおやァ」
軽い声だった。
だがその奥に、
人を人とも思わない薄さがある。
「また来たねぇ」
同時に、
怒りの鬼が
錫杖を地面へ叩きつけた。
「鬱陶しいんだよ」
ドン!!
衝撃が走る。
地面が割れ、
そこから雷みたいな閃光が
一直線に炭治郎たちへ走った。
「散れ!!」
炭治郎が叫ぶ。
四人が同時に飛ぶ。
次の瞬間、
雷撃が地面を裂き、
そこにあった瓦礫をまとめて吹き飛ばした。
「うわぁぁぁぁ死ぬぅぅぅ!!」
善逸が転がりながら叫ぶ。
「上等だァ!!」
伊之助は逆に笑っていた。
炭治郎は着地と同時に、
すぐ前を見た。
速い。
しかも、
それぞれが別の性質を持っている。
単純な連携じゃない。
もっと厄介だ。
“感情そのもの”が
攻撃手段になっているみたいな、
気味の悪い強さがある。
そして何より――
「本体の匂いが、薄い……!」
炭治郎の眉が寄る。
本体がいる。
そう思うのに、匂いが掴み切れない。
目の前の四体が濃すぎる。
わざと紛らわせているみたいに。
いや――
もっと別の、嫌な隠れ方をしているのか。
考えるより先に、
翼の鬼が笑った。
「遅いな」
バサッ!!
巨大な羽ばたきとともに、
目に見えない斬撃みたいな風圧が
広範囲へ叩きつけられる。
「っ!!」
炭治郎が刀を構える。
受ける。
重い。
風なのに、
まるで巨大な刃を押し付けられたみたいだった。
ギィン!!
急拵えの刀が軋む。
腕が痺れる。
だが、
足は崩れない。
「水の呼吸、参ノ型――」
息を通す。
腰を落とす。
「流流舞い!!」
受けながら流す。
斬るためじゃない。
通させないために。
風圧をいなし、
横へ逃がし、
そのまま半歩だけ踏み込む。
その動きに、
禰豆子が即座に噛んだ。
横から飛び込み、
炭治郎の死角へ回ろうとした
哀の鬼の腕を蹴り払う。
バシィッ!!
骨の軋む音。
鬼の身体が横へ流れる。
「禰豆子!!」
炭治郎の声に、
禰豆子は振り返らない。
ただ、
すでに次を見ていた。
その瞬間、
楽の鬼が
地を滑るように善逸へ詰める。
「えっ、速――」
「善逸!!」
だが、
叫ぶより先に
善逸の身体が沈んだ。
「雷の呼吸、壱ノ型――」
一閃。
「霹靂一閃!!」
雷みたいな踏み込みが、
楽の鬼の脇を掠める。
完全には入っていない。
だが、
狙いはそこじゃなかった。
善逸の一撃は、
鬼そのものではなく
その背後の崩れた柱木を斬っていた。
ドサッ!!
柱木が倒れ、
その陰にいた刀鍛冶たちの前へ
即席の遮蔽物ができる。
「えっ……」
善逸自身が
一瞬だけ驚いた顔をする。
炭治郎の目が開く。
(守った……!)
本人も無意識だったのかもしれない。
だが今の一閃は、
ちゃんと“守るため”に使われていた。
その直後、
伊之助が笑いながら飛び込む。
「遅ぇんだよ!!」
獣の呼吸、
乱雑でいて鋭い二連撃が
怒の鬼へ叩き込まれる。
ギギィン!!
だが、
錫杖がそれを受け止めた。
火花が散る。
伊之助の目が細くなる。
「こいつ、
怒ってるくせに冷てぇぞ!!」
その一言で、
炭治郎の頭が回る。
違う。
ただ感情的に暴れているわけじゃない。
それぞれの感情が、
それぞれの理屈で
ちゃんと戦っている。
つまり――
「雑に潰してもダメだ……!」
炭治郎が息を呑む。
四体。
それぞれ別の役割。
それぞれ別の攻め方。
そして、
まだ見えていない本体。
これはもう、
単純な力比べじゃない。
“崩れたら終わる戦場”だ。
その時だった。
ふいに、
哀しい顔をした鬼が
後ろへ下がる。
「うっ……ううっ……」
震えている。
「人の子とはあまりにも弱すぎる、悲しいかな…」
だが――
炭治郎の鼻が、
その瞬間だけ鋭く反応した。
「っ……!」
違う。
あれじゃない。
でも――
近い。
あいつの動きの奥に、
一瞬だけ
もっと“薄い匂い”が混じった。
本体だ。
どこかにいる。
まだこの場にいる。
「炭治郎!!」
善逸の叫びに、
炭治郎は我に返る。
翼の鬼が、
再び空へ浮かび上がっていた。
怒の鬼は、
錫杖へ雷を集めている。
哀の鬼は、
禰豆子の方へ視線を向ける。
楽の鬼は、
善逸の間合いを測っていた。
一瞬で分かる。
次が来る。
しかも今度は、
もっと噛み合った形で来る。
炭治郎は息を吸った。
全部を見るな。
全部を抱えるな。
崩れるな。
胸の奥で、
これまで積み上げた声が
次々に蘇る。
焦るな。
崩すな。
先に守るものを見失うな。
そして――
全部を抱えようとするな。
炭治郎の視界が、
一気に絞られる。
「善逸!!」
「な、何ぃ!?」
「空のやつを見ててくれ!!
音で来る!!」
「う、うん!!」
「伊之助!!
怒ってるやつを抑えて!!」
「任せろォ!!」
「禰豆子は俺と本体探す!!」
禰豆子が低く唸る。
その返事と同時に、
鬼たちが一斉に動いた。
風が裂ける。
雷が走る。
瓦礫が跳ぶ。
悲鳴が上がる。
感情が四つに裂けた戦場が、
炭治郎たちへ牙を剥く。
その中心で、
炭治郎は足を置いた。
まだ見えていない“芯”を掴むために。
斬るためじゃない。
通すために。
この戦場を、
崩さないために。
四つに裂けた感情の奥で、
まだ見えていない“芯”だけが、
確かにこの戦場を動かしている。
なら――
斬るべきものは、まだここにいる。
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第五十九話 終