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蝶屋敷を出る日の朝は、どこか落ち着かなかった。
空は高く、雲は薄い。
風も穏やかで、傷の痛みさえ少しだけ遠く感じるような日だった。
だが、炭治郎の胸の内だけは静かではない。
任務だ。
次の任務が来た。
しかも今回は、
短期間に四十人以上が行方不明になっているという、
明らかに異常な案件だった。
それが意味するものを、
炭治郎はもう分かっている。
ただの鬼ではない。
もっと強い何かがいる。
善逸は朝から騒がしく、
伊之助はやけに機嫌がいい。
禰豆子の入った箱を背負いながら、
炭治郎は蝶屋敷の門前で小さく息を吐いた。
その時だった。
「出立ですか」
聞き覚えのある、低く静かな声。
振り向くと、
門柱のそばに真壁堅が立っていた。
深紺の羽織が、
朝の光の中で落ち着いた色をしている。
炭治郎は少しだけ目を見開く。
「真壁さん」
真壁は短く頷く。
「聞いています。列車の任務だとか」
「はい」
「嫌な匂いがしますか」
その問いに、
炭治郎は少しだけ目を瞬かせる。
だが、すぐに頷いた。
「……します」
それは言葉にしづらい感覚だった。
まだ見てもいない。
まだ会ってもいない。
それでも、
嫌なものが待っている気配だけは分かる。
真壁はそれ以上深く聞かない。
ただ、静かに言った。
「なら、気をつけて」
その言い方が、妙に胸に残る。
ただの激励ではない。
かといって、引き止めるでもない。
自分で行くと決めた者に対して、
それでもちゃんと戻ってこいと伝えるような言葉だった。
炭治郎は小さく頷く。
「はい」
少し遅れて、
善逸と伊之助も門の方へやって来る。
善逸は真壁の姿を見るなり、
露骨に肩を跳ねさせた。
「うわっ、いた!」
「おはようございます」と真壁が言う。
「お、おはようございますぅ……」
「声が小さいですね」
「朝弱いんですぅ!!」
横で伊之助が鼻を鳴らす。
「何だお前、見送りか!」
真壁は少しだけそちらを見る。
「結果的にはそうですね」
「何だその言い方!」
「そのままの意味です」
炭治郎は思わず少しだけ笑ってしまう。
こうしていると、
真壁はいつも通りだった。
派手な言葉もない。
熱く鼓舞するわけでもない。
それでも、妙に落ち着く。
真壁がいると、
出発前の空気が少しだけ整う気がした。
真壁は炭治郎の足元へ視線を落とす。
「右足は」
炭治郎は反射的に背筋を伸ばす。
「だいぶ大丈夫です」
「かばっていませんか」
「今日は大丈夫です」
真壁は数秒だけ炭治郎を見る。
その視線はいつもの通り、
言葉より先に立ち方を見ていた。
やがて、短く言う。
「……そうですね」
それだけだった。
だが、炭治郎には分かる。
今のはたぶん、
真壁なりの“及第”だった。
少しだけ、嬉しい。
善逸が横からぼそっと言う。
「何その会話……兄弟子みたい……」
「違うよ!」
「違わねぇだろ!」と伊之助が言う。
真壁は特に否定せず、
わずかに視線を逸らした。
それが余計に否定しきれていない感じで、
炭治郎は少しだけ困る。
その時だった。
蝶屋敷の門前に、
ひときわ大きな声が響いた。
「うむ! 良い朝だ!」
空気が、一瞬で変わる。
炭治郎たちが一斉にそちらを見る。
そこに立っていたのは、
炎のような髪と眼差しを持つ男だった。
炎柱――
煉獄杏寿郎
その姿は、まるで朝そのものみたいだった。
立っているだけで明るい。
声だけで空気を押し広げるような熱がある。
炭治郎は思わず目を見開く。
「柱……!」
善逸は硬直し、
伊之助は「何だこいつ!」と目を輝かせる。
煉獄はそんな三人を見て、
朗らかに笑った。
「君たちが今回の任務に向かう隊士だな!」
「は、はい!」と炭治郎が慌てて返す。
「うむ! よろしい!」
その返答一つで、
なぜかこちらまで背筋が伸びるような感覚がある。
真壁は少し後ろに下がった位置で、
静かにその様子を見ていた。
煉獄の視線が、ふと真壁に向く。
「おや、君もいたのか!」
真壁は短く会釈する。
「お疲れさまです」
煉獄は快活に笑う。
「見送りか!」
「そのようなものです」
「そうか! 相変わらず堅実だな!」
その言葉に、
炭治郎は思わず真壁の方を見る。
“堅実”。
それは妙にしっくりくる言葉だった。
煉獄はさらに言う。
「君のような者が後ろにいると、
皆が安心する!」
真壁は少しだけ目を伏せる。
「ありがたいお言葉です」
短いやり取りだった。
だが、それだけで十分だった。
炭治郎には分かる。
この二人は、同じ強い側にいる。
だが、その立ち方はまるで違う。
煉獄は前を照らす炎だ。
真壁は、崩れない土台だ。
どちらも必要で、
どちらも本物なのだと思った。
煉獄は炭治郎たちの方へ向き直る。
「では、向かおう!」
その一言に、
空気が一気に動き出す。
だがその直前、
炭治郎は真壁の方を見た。
「真壁さんは……来ないんですか?」
ほんの少しだけ、
期待していたのかもしれない。
真壁がいれば、
少し安心できると思ってしまったのかもしれない。
だが真壁は、静かに首を横に振る。
「今回は別任務です」
その返答は短く、揺るがない。
炭治郎は一瞬だけ寂しさに似たものを感じたが、
すぐに頷いた。
そうだ。
鬼殺隊はいつも、同じ場所に集まれるわけじゃない。
それぞれが別の場所で、
別の鬼と戦っている。
真壁は炭治郎を見る。
「竈門君」
「はい」
「焦らないことです」
その一言に、
炭治郎は少しだけ目を見開く。
真壁は続ける。
「危ういと思う時ほど、
早く片をつけようとしないでください」
炭治郎は黙って聞く。
「立て直してからでいい」
それは稽古の続きのようでいて、
もっと深い言葉だった。
炭治郎は静かに頷く。
「……はい」
「戻ってきたら、また見ます」
その言葉に、
炭治郎の胸の中で何かが少しだけ温かくなる。
戻ってくる前提で言ってくれる人がいる。
それだけで、
不思議と足元が少しだけしっかりとした気がした。
煉獄が大きな声で言う。
「では、行くぞ!!」
煉獄が先に歩き出す。
善逸が慌ててついていき、
伊之助は「列車だァ!!」と騒ぎながら走っていく。
炭治郎も一歩踏み出しかけて、
もう一度だけ振り返った。
真壁は門のそばに立ったまま、
こちらを見ていた。
派手な見送りではない。
大きく手を振るわけでもない。
ただ、静かに立っているだけだ。
それでも炭治郎には、
その姿が妙に印象に残った。
あの人はきっと、
いつもこうして誰かを送り出してきたのだろう。
前に出る者を、
止めることなく、
でも崩れないように見送る。
そういう役目を、
何度も担ってきたのかもしれない。
炭治郎は小さく頭を下げた。
真壁も、ほんの少しだけ頷いた。
それだけで十分だった。
列車の見える場所まで来た時、
炭治郎はさっきの二人の姿を思い出す。
煉獄杏寿郎。
真壁堅。
どちらも強い。
だが、強さの形が違う。
一人は燃えるように前へ進む人。
一人は崩れないように後ろを支える人。
そのどちらも、
鬼殺隊には必要なのだと思った。
そして炭治郎は、
自分が今からその“前に出る人”の背中を追うのだと知る。
列車が白い蒸気を吐く。
鉄の匂い。
油の匂い。
人の匂い。
その奥に混じる、
嫌な気配。
炭治郎は目を細める。
任務が始まる。
この先に何が待っているのか、
まだ知らない。
だが出発の直前、
確かに胸の中に残ったものがあった。
それは熱ではなく、
静かな言葉だった。
焦らないこと。
危ういと思う時ほど、
立て直してからでいい。
その言葉が、
これから先の夜に、
どれほど支えになるのかを
この時の炭治郎はまだ知らない。
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第六話 終
更新頻度について
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今のままでいい
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早い、毎日更新で良い
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隔日くらいでいい
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更新頻度の権を他人に握らせるな!