鬼滅の刃 ― 礎 ―   作:【規制済み】

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第六十三話 ― 憎珀天

 

地面を這うように、

小さな影が逃げていく。

 

みすぼらしい背中。

 

縮こまった肩。

 

今にも泣き崩れそうなほど

情けないその背が、

それでも確かに

この戦場の“核”だった。

 

「逃げるな!!」

 

炭治郎が瓦礫を蹴る。

 

禰 豆子がその横を走る。

 

少し遅れて、

善逸と伊之助も続く。

 

背後では今も、

重い衝撃音が断続的に響いていた。

 

ドガァン!!

ビュオオオッ!!

 

木が裂ける音。

 

地面が抉れる音。

 

しなる刃が空気を断つ音。

 

甘露寺蜜璃と、

憎珀天。

 

その戦いが、

今この場の“壁”になっていた。

 

「っ……!」

 

炭治郎は振り返らない。

 

振り返れば、

足が止まる。

 

今はもう、

見るべきものが決まっている。

 

止める人がいるなら、

自分たちは通すしかない。

 

そのために、

前だけを見る。

 

「まだ逃げるのかよぉぉ!!

どんだけ小せぇんだよあいつ!!」

 

善逸が涙声で叫ぶ。

 

「小せぇくせに臭ぇんだよ!!」

 

伊之助が吠える。

 

その言葉通りだった。

 

半天狗。

 

その名を口にするだけで

胸の奥に嫌なものが沈む。

 

小さい。

 

弱そうだ。

 

今にも折れそうなほど

情けない。

 

なのに、

匂いだけは間違いなく上弦だった。

 

「気を抜くな!!」

 

炭治郎が叫ぶ。

 

「本体だけ追うな!!

まだ後ろから来る!!」

 

その瞬間だった。

 

ズドォッ!!

 

地面が爆ぜる。

 

「っ!!」

 

四人が反射で飛ぶ。

 

次の瞬間、

さっきまで走っていた地面を

巨大な木の龍が突き破っていた。

 

「うわぁぁぁまだ来るのぉぉぉ!?」

 

善逸の悲鳴が響く。

 

炭治郎が舌打ちする。

 

憎珀天。

 

あの鬼は、

甘露寺が抑えている。

 

だが、

完全に切り離せているわけじゃない。

 

本体を追えば、

木龍がその進路を塞ぎに来る。

 

つまり――

 

「ただ走るだけじゃ追いつけない……!」

 

炭治郎の目が細くなる。

 

守られている。

 

今もなお、

本体は“壁の内側”にいる。

 

その時だった。

 

「炭治郎くん!!」

 

遠くから、

甘露寺の声が飛んだ。

 

振り向かなくても分かる。

 

その声の奥には、

今もなお何本もの木龍を

一人で受けている重さがあった。

 

「本体をお願い!!

こっちは私が絶対止めるから!!」

 

その一言が、

炭治郎の背中を押した。

 

「はい!!」

 

短く返す。

 

それだけでよかった。

 

今はもう、

言葉を重ねる時間すら惜しい。

 

 

 

半天狗は、

崩れた通路の隙間へ

這い込むように逃げていく。

 

「ひぃっ……ひぃぃっ……!」

 

泣き声みたいな呼吸。

 

見苦しいほどの怯え。

 

だが、

その足取りは異様に速い。

 

瓦礫の隙間。

 

崩れた梁の下。

 

人が躊躇うような狭い場所ばかりを、

あの小さな身体は迷いなく抜けていく。

 

「ちっ、すばしっこい!!」

 

炭治郎が歯を食いしばる。

 

正面から追うだけでは

距離が縮まらない。

 

しかも――

 

「また来るぞ!!」

 

伊之助の声。

 

直後、

横の建物を突き破って

木龍が頭を突っ込んできた。

 

バキバキバキッ!!

 

柱が砕け、

壁が吹き飛ぶ。

 

炭治郎は禰 豆子の肩を掴み、

強引に横へ飛んだ。

 

「っ!!」

 

その頭上を、

木龍の顎が噛み砕くように通り過ぎる。

 

速い。

 

しかも一本じゃない。

 

憎珀天の攻撃は、

今や本体を守るための“檻”みたいに

この一帯を覆い始めていた。

 

「このままじゃ追えねぇぞ!!」

 

伊之助が吠える。

 

その通りだった。

 

炭治郎は走りながら、

必死に鼻を利かせる。

 

半天狗の匂い。

 

土の湿り。

 

木龍の通る道。

 

崩れかけた建物の軋み。

 

全部が入り混じる中で、

“抜けられる道”を探す。

 

その時――

 

ふっと、

また匂いが動いた。

 

「……!」

 

炭治郎の鼻先が震える。

 

半天狗そのものじゃない。

 

もっと前。

 

“逃げる前”の匂いだ。

 

あの鬼が次に潜り込む場所。

 

その空気の流れが、

一瞬だけ先に変わった。

 

(右……!)

 

炭治郎の足が、

考えるより先に右へ切れる。

 

「こっちだ!!」

 

「えぇっ!?」

 

善逸が半泣きで続く。

 

次の瞬間、

さっきまで半天狗が向かっていた瓦礫の陰を

木龍が真上から叩き潰した。

 

ドゴォッ!!

 

土煙が吹き上がる。

 

「うわっぶなぁぁぁ!!」

 

善逸が顔を青くする。

 

炭治郎の呼吸が変わる。

 

やはりだ。

 

読める。

 

まだ完全じゃない。

 

だが、

“来る前”が少しずつ見え始めている。

 

「伊之助!!

前塞げるか!?」

 

「応ォ!!」

 

伊之助が一気に加速する。

 

獣みたいな低い姿勢のまま、

瓦礫の山を跳び越え、

半天狗の進路のさらに前へ回り込んだ。

 

「逃がすかァ!!」

 

二刀が振り下ろされる。

 

ギィン!!

 

だが、

半天狗はその直前で

身体を妙な角度に捻り、

瓦礫の隙間へぬるりと潜った。

 

「なっ!?」

 

伊之助が目を剥く。

 

「こいつ、骨ねぇのかよ!!」

 

「骨はあるよぉぉ!!

あるけど気持ち悪いだけだよぉぉ!!」

 

善逸が叫ぶ。

 

その間にも、

半天狗はなおも逃げる。

 

情けない顔をしながら。

 

命乞いみたいな声を上げながら。

 

だがその実、

里を壊し、

人を殺し、

ここまで戦場を広げてきた元凶だ。

 

炭治郎の胸の奥で、

怒りが静かに燃える。

 

(絶対に逃がさない――)

 

 

その時だった。

 

背後から、

今までで一番重い衝撃音が響いた。

 

ズガァァン!!

 

地面が揺れる。

 

空気が震える。

 

甘露寺と憎珀天の戦いが、

さらに激しさを増している。

 

その振動に、

炭治郎の足が一瞬だけ止まりかける。

 

だが、

すぐに禰 豆子がその横を抜けた。

 

「……!」

 

禰 豆子は振り向かない。

 

ただ、

前だけを見ている。

 

その背中が言っていた。

 

今は、こっち

 

炭治郎の目が細くなる。

 

そうだ。

 

見えている背は、

もう一つある。

 

さっき見失いかけた、

逃げる本体の背だ。

 

なら、

追うべきはそっちだ。

 

「禰 豆子!!」

 

炭治郎が呼ぶ。

 

禰 豆子が半歩だけ前へ出る。

 

次の瞬間、

木龍がまた地面を割って飛び出した。

 

だが今度は――

 

ドゴッ!!

 

禰 豆子の蹴りが、

その鼻先を真横から叩いた。

 

巨体がぐらりと揺れる。

 

完全には止まらない。

 

だが、

一瞬だけ“間”が生まれる。

 

「今だ!!」

 

炭治郎が踏み込む。

 

その足が、

さらに深く入る。

 

受ける。

 

沈む。

 

戻す。

 

置く。

 

からくり人形との鍛錬で、

身体へ刻み込んだもの。

 

それが今、

“追うための足”になっていた。

 

半天狗との距離が、

ようやく少しだけ縮まる。

 

「追いつく!!」

 

炭治郎が歯を食いしばる。

 

その瞬間、

また身体の奥で

あの感覚が微かに揺れた。

 

水じゃない。

 

もっと細い。

 

もっと鋭く、

熱を孕んだような軌道。

 

まだ掴み切れていない、

あの一閃の感覚。

 

(もう一度……!)

 

今なら。

 

この距離なら。

 

だが――

 

「炭治郎!!上!!」

 

善逸の叫び。

 

反射で顔を上げる。

 

木龍が三本、

頭上から一気に落ちてきていた。

 

「っ!!」

 

避けるしかない。

 

炭治郎は舌打ちしながら横へ飛ぶ。

 

直後、

三本の木龍が地面へ突き刺さり、

通路そのものを塞いだ。

 

ドゴォン!!

 

土煙が舞う。

 

半天狗の匂いが、

その向こうへ遠ざかる。

 

「くそっ……!!」

 

炭治郎の拳に力が入る。

 

あと少しだった。

 

今、

確かに届きかけていた。

 

なのに、

また止められた。

 

その時――

 

「……違う」

 

炭治郎が低く呟く。

 

善逸と伊之助が、

同時に顔を向ける。

 

「正面から追うんじゃない」

 

「えっ?」

 

炭治郎の目が、

木龍に塞がれた通路の横を睨む。

 

半天狗は、

逃げる時だけ

“人が通れない場所”を選ぶ。

 

なら逆に、

その癖を利用すればいい。

 

「伊之助!!

あいつが通れそうな狭い隙間を探してくれ!!」

 

「応!!」

 

「善逸!!

音で木龍の来る方向を先に拾って!!」

 

「いや無理でしょそれぇ!!」

 

「禰 豆子は俺と前!!」

 

禰 豆子が低く唸る。

 

返事はそれで十分だった。

 

炭治郎は息を吸う。

 

盤面が、

少しずつ見えてきている。

 

まだ届かない。

 

まだ足りない。

 

だが――

 

崩れてはいない。

 

止める人がいて。

 

支える人がいて。

 

自分たちは、

まだ前へ出られる。

 

その時、

風の匂いがわずかに変わった。

 

夜の冷たさの奥に、

ほんの少しだけ

別の気配が混じる。

 

朝の匂い。

 

まだ遠い。

 

だが、

確かにそこにあった。

 

炭治郎の胸が、

わずかにざわつく。

 

(……もうそんな時間なのか)

 

戦いはまだ終わっていない。

 

むしろ、

ここからが本番なのに。

 

その不穏を振り払うように、

炭治郎は前を見る。

 

逃げる背は、

まだ遠い。

 

だがもう、

見失ってはいない。

 

そしてその先にあるものも、

少しずつ見え始めていた。

 

押し潰すものがあるなら。

 

それでも、

通すしかない。

 

炭治郎は刀を握り直す。

 

急拵えの刀が、

手の中でわずかに軋んだ。

 

それでも、

今はこの刃で行くしかない。

 

その先へ届くまで。

 

 

第六十三話 終

 

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