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静かだった。
刀鍛冶の里が
あちこちで崩れているというのに、
この一角だけは妙に音が薄い。
いや、
正しくは違う。
音がないわけじゃない。
木の軋む音。
壺が転がる音。
鉄の匂い。
血の匂い。
どれも確かにある。
ただそれら全部が、
まるで一枚薄い霞の向こう側で
起きているみたいだった。
その中を、
時透無一郎は歩いていた。
足音は軽い。
気配も薄い。
そこにいるのに、
ひどく掴みにくい。
だがその目だけは、
静かに前を見ていた。
「……また」
ぽつりと、
無一郎が呟く。
壺。
崩れた建物の影。
割れた床下。
里のあちこちに、
異様な気配が残っている。
壺から生まれた鬼。
本体ではない。
だが、
壊すには十分な厄介さを持った、
粘つくような嫌な鬼たち。
「手間だな」
感情のない声だった。
だがその直後、
割れた井戸の陰から
ぬるりと異形が這い出してくる。
腕が長い。
首が折れている。
壺の中の泥みたいな肉が、
全身にまとわりついていた。
鬼が跳ねる。
無一郎は動かない。
ただ、
半歩だけ足をずらす。
次の瞬間にはもう、
刀が抜かれていた。
ヒュン――
薄い斬線。
それだけだった。
鬼の腕が落ちる。
遅れて、
首が滑る。
ぬめる肉が崩れ、
地面へ落ちた。
無一郎は振り返らない。
止まらない。
ただ次の場所へ歩いていく。
その背中には、
何の高揚もない。
勝ったとか、
守ったとか、
そういう感触が
ほとんど残っていないように見えた。
それでも、
その歩みは迷わなかった。
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少し進んだ先で、
崩れた小屋の下から
かすかな音がした。
「……」
無一郎の足が止まる。
木材の隙間。
暗がりの奥。
そこに、
小さな手が見えた。
刀鍛冶の子どもだった。
顔の半分を煤で汚し、
息を殺すように震えている。
そのすぐ近くには、
また別の壺鬼がいた。
まだ気づいていない。
だが、
あと数秒もすれば見つかる。
無一郎は何も言わず、
その間へ入る。
鬼が振り向く。
口が裂ける。
跳ねる。
だが、
その前にもう斬っていた。
ヒュッ――
薄い。
短い。
それだけで十分だった。
鬼の身体が、
途中で何をされたのか分からないまま
崩れ落ちる。
子どもが息を呑む。
「だ、大丈夫……?」
声は小さい。
震えている。
無一郎は少しだけその方を見る。
「うん」
短かった。
それだけだった。
安心させるでもなく、
励ますでもなく、
ただ“事実”だけを置くみたいな声。
「ここから動かないで」
「他の人が来るまで、
壊れた壁の内側にいた方がいい」
子どもは何度も頷く。
無一郎はそれ以上何も言わず、
すぐに視線を外した。
次がある。
まだ、
終わっていない。
その時、
背後から小さな声が飛んだ。
「ありがとう……!」
無一郎の足が、
ほんの一瞬だけ止まる。
だが、
振り返らない。
そのまま歩き出す。
ありがとう。
その言葉が、
妙に耳の奥へ残った。
どうしてだろう、と
少しだけ思う。
でも、
すぐにその思考は霧の中へ消えていった。
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里の奥へ進むほど、
空気が変わっていく。
壺の匂いが濃い。
鉄の匂いが濃い。
そして何より、
嫌な“執着”の匂いがある。
玉壺。
姿はまだ見えない。
だが、
この気配は間違いなく本体に近い。
無一郎の目が細くなる。
その時だった。
ぬるり、と
横の壁が膨らんだ。
「……!」
壺。
壁の中から、
突然それが突き出してくる。
次の瞬間、
壺の口から
異形の魚鬼が飛び出した。
牙。
鱗。
ぬめった肉。
刀鍛冶の里そのものを
侮辱するみたいな
歪んだ造形だった。
魚鬼が跳ぶ。
無一郎は迎えない。
前へ出る。
最短。
「霞の呼吸、壱ノ型――」
呼吸が薄く通る。
「垂天遠霞」
斬線が一つ。
魚鬼の胴が、
何の抵抗もなく分かれる。
そのまま無一郎は、
壺へも刃を流した。
ギィン!!
壺が裂ける。
だが――
「……」
空だった。
本体はいない。
壺だけを置いて、
位置をずらしている。
無一郎の眉が、
わずかに寄る。
面倒だ。
逃げているのか。
それとも、
遊んでいるのか。
どちらにせよ、
気に入らなかった。
その瞬間、
別方向から
嫌な笑い声が聞こえた。
「くくく……」
遠い。
だが、
はっきりと届く。
「美しくないなァ……」
玉壺の声だった。
どこからともなく響く。
壁の中。
床下。
壺の奥。
位置が定まらない。
「君みたいな無機質な子どもは、
…実に味気ない」
「感動も、
驚きも、
美も理解しない顔をしている」
無一郎は答えない。
ただ、
視線だけを巡らせる。
どこから来る。
どこへ出る。
どう斬る。
それだけを考えている。
玉壺が笑う。
「その目だ」
「空っぽで、
何も映っていないみたいなその目」
「壊したくなる」
その言葉にも、
無一郎の表情は変わらなかった。
けれど――
「……別に」
小さく、
無一郎が呟く。
「映ってないわけじゃない」
玉壺の笑いが、
一瞬だけ止まる。
無一郎自身も、
少しだけ不思議そうだった。
今の言葉は、
考えて出したものじゃない。
ただ、
自然に口から落ちた。
映っていないわけじゃない。
それは本当だった。
さっき助けた子ども。
崩れた里。
逃げ遅れた刀鍛冶たち。
全部ちゃんと、
目には入っている。
ただ――
それがどうして
気になるのかだけが、
まだよく分からなかった。
玉壺の気配が、
わずかに歪む。
不快そうだった。
「なら見せてやろうか」
「君の目に、
本当に映るべきものを」
その奥――
崩れた鍛冶場の火床には、
打ちかけだった刀身が
ぐにゃりと不自然な角度に捻じ曲がり、
砥石や金槌までもが
泥のような肉へ半ば埋め込まれていた。
まるで、
人の手で鍛えられるはずだったものを
別の形へ歪めて飾り立てたみたいに。
玉壺が笑う。
「手を加えすぎてはいけない」
「素材の声を聞き、
最も美しい形へ導いてやるのだよ」
そして――
ズルリ、と
地面からいくつもの壺がせり上がる。
多い。
囲まれる。
その全部から、
ぬめった魚鬼たちが這い出してきた。
「どうだい」
「美しいだろう」
「っ……」
無一郎が刀を構える。
数で押す気か。
くだらない。
だが、
放っておけば
里の被害が増える。
なら斬るだけだ。
一歩、踏み出す。
その足は軽い。
薄い。
霞のように。
けれどその奥には、
まだ形にならない何かが
確かに残っていた。
消えていない。
まだ、
無くなっていない。
そのことだけが、
どこか引っかかっていた。
「――来い」
無一郎の声は、
やはり静かだった。
その静けさは、
さっきまでと何も変わらないはずなのに――
胸の奥に、
まだ名前のつかない何かだけが
ほんのわずかに残っていた。
それが何なのか、
無一郎にはまだ分からなかった。
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幕間 ― 霞の奥(前編) 終