鬼滅の刃 ― 礎 ―   作:【規制済み】

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幕間 ― 霞の奥(後編)

 

壺が、

いくつも並んでいた。

 

崩れた鍛冶場の床を押し割るように、

ぬるりとせり上がってくる。

 

その口から這い出すのは、

魚とも獣ともつかない

歪な異形だった。

 

鱗。

 

牙。

 

ぬめる肉。

 

刀鍛冶の里には

あまりにも似つかわしくない、

醜悪なものばかり。

 

「美しいだろう」

 

玉壺の声が、

どこからともなく響く。

 

「美の理解できぬ者は、

実に不幸だ」

 

時透無一郎は答えない。

 

ただ、

刀を構える。

 

霞のように薄い呼吸が、

静かに通る。

 

次の瞬間――

 

魚鬼たちが一斉に跳ねた。

 

「霞の呼吸、弐ノ型――」

 

無一郎の姿が、

ふっと薄れる。

 

「八重霞」

 

ヒュン――

 

ヒュヒュン――

 

斬線が重なる。

 

一体。

 

二体。

 

三体。

 

魚鬼たちの身体が、

何が起きたのか理解するより先に

ばらばらに崩れ落ちた。

 

ぬめった肉が地面へ散る。

 

壺が割れる。

 

無一郎は止まらない。

 

一歩。

 

また一歩。

 

最短で、

次を斬る。

 

次を潰す。

 

そこに迷いはない。

 

ただ処理している。

 

淡々と。

 

必要だから斬っているだけみたいに。

 

だが――

 

「つまらないなァ」

 

玉壺が嗤う。

 

「やはり君は空っぽだ」

 

「恐怖も、

怒りも、

嫌悪も、

まるで色が乗らない」

 

「そんなものでは、

芸術の前に立つ資格すらない」

 

無一郎は一体の首を落としながら、

小さく息を吐いた。

 

「……うるさい」

 

それだけだった。

 

怒鳴るわけでもない。

 

苛立ちを露わにするでもない。

 

ただ、

邪魔だと言うみたいに

静かに返しただけ。

 

だがその声に、

玉壺の気配が

わずかに揺れた。

 

「ほう?」

 

「今、

ほんの少しだけ

“感情”らしいものが混じったぞ」

 

その言葉に、

無一郎の眉がわずかに寄る。

 

感情。

 

そんなものが

自分にどれだけ残っているのか、

正直よく分からない。

 

昔はもっと何かを

強く思えていた気がする。

 

けれど今は、

何かを考えようとすると

霧の向こうへ手を伸ばすみたいに

輪郭がぼやける。

 

何を大事にしていたのか。

 

何に怒っていたのか。

 

何を守りたかったのか。

 

それが、

うまく掴めない。

 

その時だった。

 

「……っ」

 

少し離れた瓦礫の陰から、

小さな息を呑む音がした。

 

無一郎の目が、

そちらへ動く。

 

さっき助けた少年――

小鉄だった。

 

煤に汚れた顔で、

壊れた壁の陰に身を潜めている。

 

煤に汚れた顔で、

壊れた壁の陰に身を潜めている。

 

逃げろと言ったはずなのに、

まだこの場にいる。

 

「……何してるの」

 

無一郎が言う。

 

「危ないから下がってて」

 

小鉄は一瞬だけ肩を震わせた。

 

だが、

逃げなかった。

 

その視線は、

玉壺の背後――

崩れた鍛冶場の奥へ向いている。

 

「……あれ」

 

かすれた声だった。

 

無一郎がその先を見る。

 

火床の近く。

 

打ちかけの刀身が、

ぐにゃりと捻じ曲がっていた。

 

砥石も、

金槌も、

鋏も、

本来あるべき形のままではない。

 

鉄を打つための場所そのものが、

気味の悪い“別の何か”へ

歪められている。

 

そこにあったはずの手仕事が、

努力が、

積み重ねが、

まとめて踏みにじられていた。

 

玉壺が笑う。

 

「素材を活かすとは、

こういうことなのだよ」

 

「完成されぬものに価値はない」

 

「歪め、

飾り、

意味を与えてやる」

 

その瞬間――

 

「ふざけるな!!」

 

小鉄が叫んだ。

 

声が裏返っていた。

 

怖いのが分かる。

 

今にも泣きそうなのも分かる。

 

それでも、

叫んだ。

 

「何が価値だ!!」

 

「何が美しいだ!!」

 

「そんなの……そんなの……!!」

 

息が詰まる。

 

言葉がうまく続かない。

 

けれど、

それでも絞り出すように叫ぶ。

 

「勝手に壊して、

勝手に歪めて……!!」

 

「人が作ったものを、

人が大事にしてるものを……!!」

 

「そんなふうにするな!!」

 

その声が、

鍛冶場の空気を震わせた。

 

無一郎は、

小鉄を見ていた。

 

泣きそうだ。

 

足も震えている。

 

刀も持っていない。

 

強くもない。

 

戦えもしない。

 

それなのに――

 

怒っている。

 

ちゃんと、

怒っている。

 

どうしてそこまで

真っ直ぐ怒れるんだろうと、

無一郎は一瞬だけ思った。

 

ほんの少し前の自分なら、

分からなかったかもしれない。

 

でも今は――

 

「……そうか」

 

小さく、

無一郎が呟く。

 

玉壺が笑みを深める。

 

「やっと分かったかね?」

 

「違う」

 

無一郎の目が、

ゆっくりと玉壺へ向く。

 

その瞳は相変わらず静かだった。

 

だが、

さっきまでとは少しだけ違う。

 

薄い霞の奥に、

確かに芯が通り始めていた。

 

「気持ち悪いんだ」

 

静かな声だった。

 

大きくはない。

 

けれど、

その場の空気を切り替えるには十分だった。

 

玉壺の笑みが止まる。

 

無一郎は、

崩れた鍛冶場を見る。

 

歪められた刀身。

 

汚された火床。

 

そして、

その前で怒っている小鉄。

 

「別に、

何も映ってなかったわけじゃない」

 

「ただ、

ちゃんと掴めてなかっただけだ」

 

その言葉は、

玉壺に向けたものでもあり、

自分自身へ落とすものでもあった。

 

何も残っていないと思っていた。

 

空っぽになって、

もう何も引っかからないのだと

どこかで思っていた。

 

でも違った。

 

残っていた。

 

ちゃんと。

 

嫌なものを嫌だと思う感覚も。

 

守られるべきものを

守るべきだと思う感覚も。

 

まだ、

消えていなかった。

 

その瞬間だった。

 

頭の奥で、

何かがふっと引っかかる。

 

白い息。

 

冷たい風。

 

誰かの声。

 

「無一郎の“無”は、

無限の“無”だ」

 

輪郭は曖昧だった。

 

顔も、

場所も、

まだはっきりとはしない。

 

けれどその言葉だけが、

胸の奥へまっすぐ落ちてくる。

 

無限。

 

失ったわけじゃない。

 

終わったわけじゃない。

 

まだ、

ここから繋がるものがある。

 

その感覚が、

無一郎の呼吸を変えた。

 

「……小鉄」

 

無一郎が呼ぶ。

 

小鉄がはっと顔を上げる。

 

「下がってて」

 

「次は、

少し荒くなるから」

 

その言い方は相変わらず淡々としていた。

 

だが、

さっきまでとは違う。

 

そこにはちゃんと、

“守るために言っている”温度があった。

 

小鉄の目が、

わずかに見開かれる。

 

「……うん!!」

 

短く頷く。

 

その返事が、

妙にまっすぐ耳へ入った。

 

玉壺の気配が、

明確に歪む。

 

不快。

 

苛立ち。

 

さっきまでの愉悦が、

少しずつ剥がれていく。

 

「下らぬ」

 

「実に下らぬ」

 

「感情などという不純物を混ぜたところで、

美が損なわれるだけだ」

 

「君はやはり、

理解が浅い」

 

無一郎は刀を構える。

 

霞が、

静かに濃くなる。

 

「理解したくもないよ」

 

その声は、

やはり静かだった。

 

だが今はもう、

ただ薄いだけの静けさじゃない。

 

通るための静けさだった。

 

「霞の呼吸――」

 

足が出る。

 

軽い。

 

薄い。

 

それなのに、

芯だけはぶれない。

 

「肆ノ型」

 

一歩で距離が消える。

 

玉壺の目が見開く。

 

「移流斬り」

 

ヒュン――ッ!!

 

斬線が、

今までよりも深く、

鋭く走った。

 

壺が裂ける。

 

魚鬼が弾ける。

 

その奥へ、

さらに踏み込む。

 

玉壺の気配が、

初めて明確に揺らいだ。

 

無一郎の目は、

もう霧の向こうを見ていない。

 

今いる場所を、

今守るべきものを、

ちゃんと見ていた。

 

何も残っていなかったわけじゃない。

 

失くしていたわけでもない。

 

ただ、

まだ届いていなかっただけだ。

 

なら――

 

ここから、

通せばいい。

 

霞の奥に残っていたものが、

ようやく一本の刃になり始める。

 

その先で、

玉壺の笑みが

明確に崩れた。

 

 

幕間 ― 霞の奥(後編) 終

 

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