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風が変わった。
夜の冷たさの奥に、
ほんのわずかに別の匂いが混じる。
薄い。
だが確かにある。
「……近い」
炭治郎が呟く。
朝だ。
まだ遠い。
だが、
確実にこちらへ来ている。
その事実が、
胸の奥をわずかにざわつかせた。
(時間がない)
だが足は止めない。
むしろ、
一歩が深くなる。
「いた!!」
伊之助の声が前方から飛ぶ。
瓦礫の奥。
崩れた壁の隙間。
そこを、
小さな影が這うように逃げていた。
「ひぃっ……ひぃぃっ……!!」
半天狗。
その背は、
まだ逃げている。
まだ諦めていない。
「今度こそ――」
炭治郎の呼吸が整う。
焦るな。
崩すな。
通す。
足を置く。
沈む。
戻す。
置く。
鍛錬の積み重ねが、
そのまま一歩になる。
距離が縮まる。
確実に。
だが――
ズドォッ!!
地面が裂ける。
「っ!!」
木龍。
四本。
同時。
「来るぞぉぉぉ!!」
善逸が叫ぶ。
炭治郎は止まらない。
見る。
読む。
その“前”を。
匂いが動く。
土が擦れる。
空気が歪む。
(左――)
踏み替える。
半歩。
沈む。
その直後、
木龍が通り過ぎる。
ギリギリ。
だが足は止まらない。
「伊之助!!」
「任せろォ!!」
伊之助が飛び込む。
二刀が、
木龍の顎へ叩き込まれる。
止めない。
殺さない。
“ずらす”
ギィン!!
軌道が逸れる。
「今だ!!」
炭治郎が踏み込む。
その横を、
禰 豆子が並ぶ。
呼吸が合う。
言葉はいらない。
通すための動きだけが、
自然と重なる。
半天狗との距離が、
さらに縮まる。
「来るなぁぁぁ!!」
泣き声。
情けない声。
だが、
その足は止まらない。
(逃げる……まだ……!)
炭治郎の目が細くなる。
その瞬間――
ふっと、
また匂いが動いた。
「……!」
次の動き。
次に潜る場所。
分かる。
(そこだ!!)
炭治郎が踏み込む。
先回り。
間に合う。
今度は――
逃がさない。
「――ッ!!」
刃が振り下ろされる。
一直線。
迷いはない。
ギィン!!
当たる。
深い。
確実に通っている。
だが――
「っ……まだ……!」
首を断ち切るには、
ほんのわずかに足りない。
半天狗が転がる。
まだ逃げる。
まだ。
「くそっ……!」
その時だった。
ボッ
赤い火が灯る。
「……!」
禰 豆子。
血が飛ぶ。
爆血。
炎が、
半天狗の傷口を焼く。
再生が止まる。
肉が閉じない。
「今なら……!」
炭治郎の呼吸が変わる。
通る。
今なら通る。
「禰 豆子!!」
禰 豆子が踏み込む。
蹴り。
打撃。
その一瞬だけ、
半天狗の身体が完全に止まる。
(今だ――)
足を置く。
沈む。
戻す。
置く。
その動きの中に、
あの感覚が混じる。
水の流れ。
だがそれだけじゃない。
ほんのわずかに、
熱を帯びた軌道。
(通せ……!!)
刃が落ちる。
一直線に。
首へ。
その瞬間――
ズガァァァン!!
「ぐっ!!」
横から、
木龍が叩き込まれる。
炭治郎の身体が弾かれる。
地面を転がる。
刃が逸れる。
「くそっ……!!」
歯を食いしばる。
あと一瞬だった。
本当に、
あと一歩だった。
だが――
止められた。
完全に。
炭治郎が顔を上げる。
遠く。
憎珀天の気配が、
さらに膨れ上がっていた。
重い。
濁った怒りが、
空気ごと押し潰してくる。
「っ……!」
善逸が震える。
「無理だろあれぇぇ……!」
「うるせぇ!!」
伊之助が吠える。
だが、
その声にもわずかな緊張が混じる。
分かっている。
あれが、
本気で来たら終わる。
だが――
ドガァン!!
遠くで、
しなる斬撃が弾けた。
空気が裂ける。
木龍が、
まとめて弾かれる。
「――まだだよ!!」
甘露寺蜜璃の声。
その一撃で、
ほんの一瞬だけ圧が緩む。
「炭治郎くん!!」
「行って!!」
その声は、
迷いがなかった。
炭治郎の胸が強く鳴る。
(……持たせてくれてる)
あの人が、
この戦場を支えている。
だから――
自分は前へ出られる。
「行くぞ!!」
炭治郎が立つ。
善逸が続く。
伊之助が走る。
禰 豆子が並ぶ。
四人の足が、
再び揃う。
その先には、
まだ逃げる背。
そして――
確実に近づいてくる、
夜明け。
(次で終わらせる)
炭治郎の目が細くなる。
もう迷いはない。
もう見えている。
あと一歩。
あと一閃。
それだけだ。
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第六十五話 終