鬼滅の刃 ― 礎 ―   作:【規制済み】

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第七話 ― 届かなかった場所

 

夜明けは、いつもより静かだった。

 

風は弱く、空は淡い。

だがその朝は、

妙に音が少なかった。

 

蝶屋敷の庭も、

廊下も、

人の気配があるのに、

どこか沈んでいる。

 

理由は、分かっている。

 

任務の結果が、

戻ってきたからだ。

 

 

 

炭治郎は、

縁側に座ったまま動かなかった。

 

包帯はまだ残っている。

傷も、完全には癒えていない。

 

だが問題はそこではない。

 

視線は前にあるのに、

何も見ていないようだった。

 

箱は、隣にある。

 

禰豆子は静かに眠っている。

 

それだけが、

今の炭治郎をここに繋いでいた。

 

 

 

列車の任務。

 

多くの人を救った。

 

だが――

 

救えなかったものがある。

 

炎柱・煉獄杏寿郎。

 

その名を、

まだ炭治郎はうまく口にできなかった。

 

最後の言葉。

最後の姿。

あの場の空気。

 

思い出そうとすると、

胸の奥がうまく呼吸できなくなる。

 

だから、

何も考えないようにしていた。

 

ただ座っている。

 

ただ、動かない。

 

それだけで、

精一杯だった。

 

 

 

足音が近づく。

 

軽くもなく、

重くもない。

 

地面を確かに踏む音。

 

炭治郎は顔を上げない。

 

だが、その気配は分かる。

 

「……おかえりなさい」

 

低く、静かな声。

 

炭治郎は、少しだけ顔を上げる。

 

そこに立っていたのは、

深紺の羽織の男。

 

真壁堅だった。

 

 

 

真壁は、すぐには近づかない。

 

縁側から少し離れた位置で止まる。

 

炭治郎を見る。

 

その視線は、

あの時と同じだった。

 

言葉ではなく、

立ち方を見る目。

 

いや――

 

今は、“座り方”だろう。

 

炭治郎の肩は落ちている。

呼吸は浅い。

重心がどこにも乗っていない。

 

崩れている。

 

だがそれは、

身体の問題ではなかった。

 

真壁はそれを理解する。

 

数秒、沈黙。

 

やがて、短く言う。

 

「……そうですか」

 

それだけだった。

 

何も聞かない。

何も決めつけない。

 

ただ、

“見た結果”だけを置く。

 

炭治郎は、その一言にだけ反応した。

 

少しだけ唇が動く。

 

だが、声にはならない。

 

 

 

真壁はゆっくりと歩いて、

炭治郎の隣ではなく、

少しだけ離れた場所に腰を下ろす。

 

近すぎない距離。

 

干渉しない距離。

 

だが、

“そこにいる”距離。

 

炭治郎は何も言わない。

 

真壁も何も言わない。

 

風が吹く。

 

庭の葉が揺れる音だけが、

小さく響く。

 

しばらくして、

 

炭治郎の手が、少しだけ震えた。

 

それは大きな動きではない。

 

だが、

抑えきれなかったものだった。

 

「……何もできませんでした」

 

かすれた声。

 

絞り出すような言葉。

 

真壁は、視線を動かさない。

 

炭治郎は続ける。

 

「助けられた人も、たくさんいたのに」

 

「でも……」

 

そこで言葉が止まる。

 

呼吸が乱れる。

 

言葉にしようとすると、

何かが崩れそうになる。

 

「……あの人は」

 

その先が出ない。

 

炭治郎は、

拳を握る。

 

だが、力が入らない。

 

 

 

真壁は、

その言葉を最後まで待たない。

 

遮るわけでもない。

 

ただ、短く言う。

 

「ええ」

 

それだけだった。

 

慰めない。

否定しない。

意味を与えない。

 

ただ、

“受け取った”という事実だけを返す。

 

炭治郎は、その一言に少しだけ反応する。

 

自分の言葉が、

途中でも届いたと分かる。

 

それだけで、

ほんのわずかに呼吸が戻る。

 

 

 

少しの沈黙のあと、

 

真壁が言う。

 

「私も、別の任務でした」

 

炭治郎は顔を上げる。

 

真壁は前を見たまま続ける。

 

「終わってから報告を受けました」

 

それは事実だった。

 

無限列車の任務。

 

炎柱が同行。

 

そして――

 

戦死。

 

その一報は、

簡潔だった。

 

だが、その重さは簡潔ではなかった。

 

真壁は言う。

 

「間に合わなかった」

 

その言葉は、静かだった。

 

感情を乗せていないようで、

確かに何かがあった。

 

炭治郎は、

初めて真壁の方をちゃんと見る。

 

この人も、

その場にはいなかった。

 

だからこそ分かる。

 

“何もできなかった側”の重さ。

 

 

 

真壁は、そこでようやく炭治郎の方を見る。

 

「竈門君」

 

「……はい」

 

「今は、無理に立て直さなくていいです」

 

炭治郎は少しだけ目を見開く。

 

予想していた言葉ではなかった。

 

真壁は続ける。

 

「崩れたまま、無理に形を整えると」

 

 

 

「後で大きく崩れます」

 

 

 

炭治郎は黙る。

 

その言葉は、

厳しくもあり、優しくもあった。

 

「なので今は」

 

真壁は少しだけ視線を外す。

 

「そのままでいい」

 

それは、

許しではない。

 

放置でもない。

 

ただの“判断”だった。

 

炭治郎は、しばらく動かない。

 

だがやがて、

ほんの少しだけ肩の力が抜けた。

 

 

 

時間が過ぎる。

 

何も変わらないようでいて、

少しだけ何かが戻る。

 

炭治郎は、

小さく息を吐いた。

 

「……真壁さん」

 

「はい」

 

「俺、あの時……」

 

言いかけて、止まる。

 

何を言えばいいのか分からない。

 

悔しさか。

後悔か。

感謝か。

 

どれも違う気がした。

 

そのまま、言葉を探す。

 

真壁は急かさない。

 

やがて炭治郎は、

小さく言った。

 

「ちゃんと……立てるようになります」

 

それは誓いだった。

 

だが、叫ぶようなものではない。

 

静かな決意だった。

 

真壁は、それを聞いて、

短く答える。

 

「はい」

 

それだけだった。

 

だがその一言は、

しっかりと受け止められていた。

 

 

 

風が吹く。

 

朝の空気はまだ冷たい。

 

だが、

完全に止まっていたわけではない。

 

炭治郎は、

ゆっくりと前を見る。

 

まだ重い。

まだ苦しい。

 

それでも、

 

完全には崩れていない。

 

隣ではなく、

少し離れた場所にいる男。

 

何も背負ってはくれない。

 

何も代わりに戦ってはくれない。

 

だが、

 

“崩れきらない位置”に、

静かに居てくれる。

 

それだけで、

 

人はもう一度立てる。

 

炭治郎はまだ知らない。

 

この先、何度も崩れることになる。

 

そのたびに、

何かを失うこともある。

 

それでも、

 

そのたびに戻る場所があるなら。

 

それはきっと、

折れずに進むための支えになる。

 

それが何かを、

炭治郎はまだ言葉にできない。

 

だが確かに感じていた。

 

真壁堅という人が、

自分にとって“大切なものを失わないための在り方”になり始めていることを。

 

 

第七話 終

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