鬼滅の刃 ― 礎 ―   作:【規制済み】

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幕間 ― 日へ至る鬼

 

暗かった。

 

光の届かない、

底の見えない闇。

 

広いはずなのに、

どこまでも息が詰まるような空間だった。

 

障子。

 

柱。

 

畳。

 

古びた屋敷のようでいて、

どこか歪んでいる。

 

上下の感覚さえ曖昧な、

静かな悪夢の中。

 

その中心に、

鬼舞辻無惨はいた。

 

座しているだけで、

空気が張り詰める。

 

呼吸をすることすら

許されないような重圧が、

その場に満ちていた。

 

誰もいない。

 

何の物音もない。

 

それなのに――

 

「……」

 

無惨の目が、

ゆっくりと開く。

 

何かを見たわけではない。

 

だが、

確かに“触れた”。

 

消えゆく意識の断片。

 

潰れた肉の感覚。

 

朝の光。

 

そして――

 

その中に立つ、

一体の鬼。

 

「……そうか」

 

低い声だった。

 

それは独り言でありながら、

空間そのものを冷たく震わせた。

 

無惨の視界の奥に、

最後の景色がまだ残っている。

 

半天狗。

 

上弦の肆。

 

死に際に見た、

最期の光景。

 

朝日の中に、

確かに立っていた。

 

焼けない。

 

崩れない。

 

消えない。

 

鬼が。

 

 

 

沈黙が落ちる。

 

ほんの数秒。

 

だがその静寂は、

異様なほど長く感じられた。

 

そして――

 

無惨の口元が、

わずかに歪む。

 

笑みだった。

 

それは喜びの形をしているくせに、

ひどく冷たく、

見ているだけで

背筋が凍るような笑みだった。

 

「ついに……」

 

小さく、

無惨が呟く。

 

その声には、

何百年も届かなかったものへ

初めて手をかけた者の熱があった。

 

「辿り着いた」

 

青い彼岸花。

 

陽の光を克服する方法。

 

完全なる生。

 

ずっと求め続けていたもの。

 

それが今、

別の形で目の前へ現れた。

 

鬼が、

日を越えた。

 

それはもう、

仮説ではない。

 

願望でもない。

 

確かな事実だった。

 

 

「死に際にして、ようやく役に立った」

 

「半天狗よ――」

 

「よくやった」

 

 

空気が、

凍りついたようだった。

 

その一言がどれほど異様かを、

もしそこに誰かがいれば

骨の髄まで理解したはずだ。

 

無惨が、

部下を認める。

 

褒める。

 

それはあり得ないことだった。

 

だが今だけは違う。

 

半天狗は負けた。

 

斬られた。

 

消えた。

 

それでも――

 

死の間際に見たその景色だけは、

確かに価値があった。

 

他の何にも代えられないほどに。

 

 

 

無惨はゆっくりと立ち上がる。

 

 

だがその動きに合わせて、

空間の圧そのものが変わる。

 

「竈門禰豆子」

 

その名を、

初めて確かめるように口にする。

 

太陽を克服した鬼。

 

もはや、

青い彼岸花を

探し続ける必要はなくなった。

 

あの鬼を取り込みさえすればいい。

 

喰らい、

吸収し、

己のものにすればいい。

 

それだけで、

長く閉ざされていた扉が開く。

 

「ようやくだ……」

 

その声音には、

歓喜に近い熱があった。

 

だがその熱は、

人のものではない。

 

ただ飢えた獣が、

ようやく獲物の匂いを掴んだ時のような

生々しい執着だった。

 

「どれほど長かったか」

 

その呟きは、

怒りとも渇望ともつかない。

 

何百年もの執念が、

たった一つの存在へ

一気に収束していく。

 

 

 

だが――

 

その目が、

次の瞬間にはもう冷えていた。

 

歓喜だけで終わる男ではない。

 

見つけたなら、

次は奪うだけだ。

 

そのために必要なのは、

力ではなく、

網だった。

 

見つけ出すための網。

 

炙り出すための網。

 

逃げ場を失わせるための、

夜そのものの拡張。

 

「増やせ」

 

無惨が、

低く命じる。

 

誰に言ったわけでもない。

 

だがその声は、

闇の奥へ静かに沈み、

確実に広がっていく。

 

「探せ」

 

「人の群れの中を」

 

「山の陰を」

 

「谷の底を」

 

「村を」

 

「町を」

 

「夜の端まで」

 

声は大きくない。

 

だが、

その一言一言が

世界のどこかへ毒のように落ちていく。

 

「血を与えろ」

 

「選別しろ」

 

「死ぬなら死ね」

 

「残るものだけでいい」

 

その言葉に、

一切の情はない。

 

生き延びるか。

 

潰れるか。

 

それだけだ。

 

だがその選別の果てに、

鬼は増える。

 

数だけの鬼。

 

名もなき鬼。

 

血を濃くされただけの、

不完全な鬼。

 

夜ごとにばら撒かれるように現れる、

飢えた牙。

 

それらは柱が斬るには軽すぎて、

隊士が受けるには重すぎた。

 

だからこそ、

見えない場所から人が減る。

 

面で押せば、

綻びは生まれる。

 

一人を隠すために、

百を撒く。

 

一つを奪うために、

千を飢えさせる。

 

それが、

無惨のやり方だった。

 

 

「鬼狩り共も動く」

 

無惨が、

静かに言う。

 

「守ろうとする」

 

「囲おうとする」

 

「隠そうとする」

 

その言葉の後に、

わずかな笑みが混じる。

 

「ならば、

その全てごと喰えばいい」

 

竈門禰 豆子一人のために、

人間たちは必ず動く。

 

鬼殺隊も。

 

柱も。

 

産屋敷も。

 

ならば、

そこへ鬼を流し込めばいい。

 

夜を広げればいい。

 

守る場所を増やせば、

守る力は散る。

 

散れば、

穴ができる。

 

その穴に、

自分が手を差し込めばいい。

 

単純で、

残酷で、

そして最も効率がいい。

 

無惨の瞳には、

もう迷いがなかった。

 

 

 

「次は逃がさない」

 

その声は、

冷たかった。

 

けれどその奥には、

今までにない執着があった。

 

鬼殺隊そのものではない。

 

柱でもない。

 

竈門炭治郎でもない。

 

今この瞬間、

無惨の世界の中心にあるのは

ただ一つだった。

 

太陽を越えた鬼。

 

それだけだ。

 

「来い」

 

その言葉は、

呼びかけではない。

 

決定だった。

 

奪うと、

もう決めている者の声だった。

 

 

 

その日を境に、

夜は少しずつ濃くなっていく。

 

名もない鬼が増えた。

 

山道に。

 

街道に。

 

人気のない村に。

 

人の目の届かない路地裏に。

 

そして――

 

鬼殺隊が

本来向かうべき戦場の外側にも。

 

表に出ない場所で、

戦いは確実に増えていく。

 

誰かがそれを止めなければ、

前線へ届く前に

人が喰われる。

 

誰かがそれを捌かなければ、

本筋の戦いに辿り着く前に

綻びが広がる。

 

その静かな増殖こそが、

新しい夜の始まりだった。

 

 

無惨は再び座る。

 

静かに。

 

何事もなかったみたいに。

 

だがその瞳の奥だけは、

もう元には戻っていなかった。

 

長い夜の果てに、

ようやく見つけた光。

 

それは救いではない。

 

ただ、

次に喰らう場所を示す

目印だった。

 

 

幕間 ― 日へ至る鬼 終

 

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