⸻
それは、
まだ真壁が
今ほど隊の中で名を知られていなかった頃の話だった。
鬼殺隊に入って、
しばらく経った頃。
昇格も遅かった。
派手な戦果もない。
目立つ功績もない。
ただ、
死ななかった。
それだけだった。
いや――
それが一番難しいことだと、
真壁自身が理解するより先に、
見ている者は気づいていた。
⸻
山の朝は早い。
冷たい空気の中、
真壁は木刀を握っていた。
打ち込む。
止める。
戻す。
また打ち込む。
ただそれだけを、
何度も繰り返す。
速くはない。
鋭さも、
飛び抜けてはいない。
けれど、
崩れない。
一つ一つの動きに
無駄がない。
乱れない。
その様子を、
少し離れた縁側から
鱗滝左近次が見ていた。
隣には、
今よりも少し若い冨岡義勇がいる。
義勇は腕を組んだまま、
無言で前を見ていた。
「……速くはないな」
ぽつりと、
義勇が言う。
鱗滝は、
小さく鼻を鳴らす。
「そうだな」
否定しない。
「だが、
あれでいい」
義勇がわずかに目を向ける。
鱗滝は、
真壁の動きを見たまま言った。
「前へ出る者ばかりが、
隊を支えるわけではない」
朝の風が、
木々を揺らす。
「崩れぬ者が一人いるだけで、
死なずに済む者が増える」
その言葉は、
静かだった。
だが、
重かった。
義勇は何も返さない。
ただ、
真壁の動きを見ている。
木刀を振るう。
止める。
戻す。
それだけを、
延々と。
地味だ。
見栄えもしない。
けれど、
途中で崩れない。
集中も。
姿勢も。
呼吸も。
ずっと、
同じだ。
「……変わっている」
義勇が、
小さく言う。
鱗滝は、
少しだけ笑った。
「そうかもしれん」
「だが、
変わっている者ほど
残ることもある」
その言葉を、
義勇は何も言わずに聞いていた。
真壁が
鱗滝のもとへ通っていたのは、
ほんの短い間だった。
正式な継子というほどでもない。
ずっと育てられたわけでもない。
ただ、
数度だけ。
隊へ入ってから、
任務の合間に。
水の呼吸の基礎を、
整え直すために。
「お前は、
斬るより先に
立っていられる男になれ」
ある日、
鱗滝はそう言った。
真壁は、
意味が分からずに顔を上げた。
鱗滝は、
その視線をまっすぐ受け止める。
「速さで勝とうとするな」
「強さで押そうとするな」
「お前がやるべきことは、
最後まで崩れぬことだ」
その言葉は、
当時の真壁には
少しだけ遠かった。
だが――
何度も生き残るうちに、
少しずつ意味が分かっていった。
勝てるかどうかより先に、
崩れないかどうか。
前へ出るかどうかより先に、
持たせられるかどうか。
その差が、
戦場では命になる。
⸻
義勇と真壁が
初めてまともに組んだ任務は、
山中での鬼の掃討だった。
大きな鬼ではなかった。
だが、
数が多かった。
一体を斬る間に、
横から別の一体が入る。
隊士が一人、
足を取られる。
その瞬間――
真壁が、
半歩だけ位置を変えた。
ほんの半歩。
それだけで、
後ろへ回り込もうとしていた鬼の爪が
空を切る。
義勇がその隙に首を落とす。
次の鬼が来る。
真壁が受ける。
義勇が斬る。
また次が来る。
また受ける。
また斬る。
終わってみれば、
二人とも深手はなかった。
義勇は、
血を払った後に
短く言った。
「……抜かれなかったな」
真壁は少しだけ視線を向ける。
「はい」
それだけだった。
義勇も、
それ以上は言わなかった。
だがその日から、
任務の組み合わせで
同じ場所に置かれることが少し増えた。
理由を、
誰かが説明したことはない。
ただ――
崩れない者の隣では、
前へ出る者が通りやすかった。
それだけのことだった。
⸻
そして今。
柱稽古が始まり、
水柱・冨岡義勇は
屋敷へ籠もっている。
本来なら、
そこへ立つべきは義勇だった。
だが、
今は違う。
その代わりに、
真壁が立っている。
頼まれたから。
命じられたから。
もちろんそれもある。
だがそれだけではない。
あの場に立てるのは、
ただ水の呼吸を使えるからじゃない。
崩れないことを、
ずっと積み上げてきたからだ。
隊士たちの前で、
一歩を教える。
視線を教える。
役割を教える。
穴を埋める形を教える。
それは全部、
誰かの前へ出る一歩を
通すためのものだった。
その日の夕方。
稽古場の端で、
真壁は静かに木刀を拭いていた。
そこへ、
足音が一つ近づく。
振り向くと、
義勇がいた。
相変わらず、
表情は読みにくい。
しばらく沈黙が落ちる。
それから、
義勇が言った。
「……聞いた」
真壁は、
木刀を拭く手を止めない。
「富岡様」
「お前の稽古だ」
短い。
それだけだった。
真壁は、
少しだけ手を止める。
「そうですか」
義勇は、
しばらく黙ったまま
訓練場の土を見る。
そこには、
今日一日でついた
無数の足跡が残っていた。
崩れた跡。
踏み直した跡。
持ち直した跡。
その全部が、
まだ消えていない。
義勇が、
静かに言う。
「……お前の方が向いている」
真壁の手が、
わずかに止まる。
それは褒め言葉として言われたのではない。
事実として、
置かれた言葉だった。
だからこそ、
重い。
真壁は少しだけ視線を落とす。
それから、
静かに返した。
「今だけです」
義勇は何も言わない。
真壁も、
それ以上は続けない。
しばらくして、
義勇は踵を返す。
その背中へ、
真壁が小さく言った。
「義勇さん」
義勇が足を止める。
「戻ってきてください」
夕方の風が、
二人の間を通る。
「ここは、
あなたの場所です」
沈黙。
長くはなかった。
だが、
短くもなかった。
義勇は振り返らない。
ただ、
ほんのわずかにだけ
足を止め――
何も言わずに、
去っていった。
⸻
流れは、
止まらない。
止まったように見えても、
どこかで必ず続いている。
今はただ、
少し淀んでいるだけだ。
なら――
通せばいい。
崩れない形で。
次へ届く形で。
⸻
幕間 ― 流れの先 終