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水柱代行の稽古2日目
宇髄の稽古を越え、
真壁の稽古も少しずつ形になり始めていた。
最初は噛み合わなかった隊士たちも、
ようやく“崩れない”という意味を
身体で理解し始めている。
炭治郎たちも同じだった。
踏み込み。
視線。
位置。
役割。
ただ前へ出るだけじゃない。
どう通すか。
どう持たせるか。
それが少しずつ、
身体の中で一本に繋がり始めていた。
だが――
そこまで来てなお、
まだ進まない場所が一つだけあった。
水柱の稽古。
本来なら、
真壁の代行で終わる場所ではない。
それを、
炭治郎はずっと引っかけていた。
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その日も、
真壁は静かに隊士たちの動きを見ていた。
三人一組。
位置替え。
前衛が崩れた瞬間に、
後ろがどう埋めるか。
何度も繰り返した形だ。
炭治郎たちも、
初日よりはずっと噛み合っている。
「今のは良いです」
真壁が言う。
「そのまま続けてください」
炭治郎は息を整えながら、
一度だけ視線を上げた。
真壁は、
いつも通りそこにいる。
崩れない。
乱れない。
必要な場所にだけ、
必要な言葉を落とす。
だが――
やはり違う。
ここは、
本来この人の場所じゃない。
その感覚が、
どうしても消えなかった。
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稽古が一段落した頃。
炭治郎は、
真壁のところへ向かった。
「真壁さん」
呼びかけると、
真壁が振り向く。
「はい」
「義勇さんは……
まだ戻らないんですか」
その言葉に、
真壁は少しだけ黙る。
いつものように、
すぐ答えなかった。
「……戻れないわけではないと思います」
静かな声だった。
「ただ、
戻る理由を
ご本人の中で見失っているのかもしれません」
炭治郎は、
小さく眉を寄せる。
「理由……」
真壁は、
視線を少しだけ落とした。
「私が言うことではありません」
一拍。
それから、
ほんの少しだけ言葉を足す。
「でも」
炭治郎が顔を上げる。
「竈門くんなら、
届くかもしれませんね」
その言葉は、
背中を押すというより――
静かに、
道を開けるような響きだった。
炭治郎の胸の奥で、
何かが定まる。
「……はい」
短く、
炭治郎は頷いた。
真壁はそれ以上何も言わない。
ただ、
止めなかった。
それだけで十分だった。
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冨岡義勇の屋敷は、
静かだった。
風の音だけがする。
人の気配はあるのに、
妙に薄い。
まるで、
そこだけ時間が止まっているみたいだった。
炭治郎は門の前に立つ。
一度、
息を吸う。
そして――
「富岡さーーん!!」
声を張る。
返事はない。
「義勇さん!!
俺です!!」
静かだ。
だが、
炭治郎は引かなかった。
「稽古、
まだ終わってませんよ!!」
しばらくして、
ようやく障子の向こうから声がした。
「……帰れ」
低い。
感情があるようで、
ない声だった。
炭治郎は眉を寄せる。
「帰りません」
即答だった。
「帰れ」
「帰りません!!」
「帰れ」
「帰りません!!」
やり取りが、
妙に意地の張り合いみたいになる。
だが、
炭治郎は本気だった。
ここで引いたら、
この人はずっとこのままだ。
そんな気がした。
「義勇さん、
何で出てきてくれないんですか!!」
障子の向こうが、
少しだけ静かになる。
それから、
ようやく戸が開いた。
義勇が立っていた。
相変わらず、
表情は読みにくい。
けれど、
その目の奥には
ずっと澱んだものが沈んでいる。
炭治郎は、
その顔を見て思う。
やっぱりこの人は、
止まっているんだと。
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「何の用だ」
義勇が言う。
炭治郎は、
一歩だけ前へ出る。
「義勇さんの稽古が、
まだ終わってないからです」
義勇の眉が、
わずかに動く。
「終わっている」
「終わってません」
「堅がいる」
「それじゃ駄目です」
言い切った。
義勇の空気が、
少しだけ冷える。
だが、
炭治郎は退かなかった。
「真壁さんは、
義勇さんの代わりをしてるだけです」
「義勇さんの場所を
奪ってるわけじゃない」
沈黙。
その言葉が、
静かに落ちる。
義勇の目が、
わずかに細くなる。
「……俺に、
あの場所へ立つ資格はない」
その声は、
静かだった。
だが――
そこには、
ずっと抱え続けてきたものの重さがあった。
炭治郎は、
息を呑む。
来た。
この人が止まっている理由の、
一番深いところへ。
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「俺は、
水柱じゃない」
義勇が言う。
視線は、
炭治郎へ向いていない。
もっと遠くを見ている。
「水柱だったのは、
俺じゃない」
「生き残るべきだったのは、
俺じゃなかった」
その言葉が、
静かに落ちる。
炭治郎の胸が、
ぎゅっと縮む。
義勇は、
感情を荒げない。
だがその分、
その言葉はひどく重かった。
「最終選別で、
ほとんどの者が死んだ」
「俺も死ぬはずだった」
「だが――」
一拍。
義勇の指先が、
わずかに強張る。
「錆兎が全部斬った」
風が、
庭木を揺らす。
その音だけが、
やけに遠く聞こえた。
「鬼をほとんど全部、
あいつ一人で斬った」
「俺は、
何もしていない」
「助けられただけだ」
その声は、
どこまでも平坦だった。
だが、
平坦であることが逆に痛かった。
何度も何度も、
その記憶だけを
擦り続けてきた人間の声だった。
「生き残ったのが
俺だっただけだ」
「だから俺には、
水柱を名乗る資格がない」
その言葉の中にあるのは、
謙遜じゃない。
自罰だった。
ずっと抜けない、
深い棘みたいなものだ。
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炭治郎は、
しばらく何も言えなかった。
軽く返していい話じゃない。
そんなことは分かっている。
錆兎。
その名前は、
炭治郎にとっても
決して軽くない。
自分も知っている。
鱗滝さんのもとで、
確かに感じたものがある。
強くて。
真っ直ぐで。
人を守るために前へ出る人だった。
そんな人が死んで、
義勇さんが生き残った。
その重さは、
簡単に「気にするな」と言えるものじゃない。
けれど――
だからこそ。
炭治郎は、
その場で立ったまま
しっかり息を吸った。
「……違います」
義勇の目が、
ゆっくりと向く。
炭治郎は、
真っ直ぐにその目を見る。
「義勇さんが
そう思ってること自体は、
俺には否定できません」
「錆兎のことを
忘れろなんて言えない」
「そんなこと、
絶対言えません」
義勇は黙っている。
炭治郎は続ける。
「でも――」
その声が、
少しだけ強くなる。
「だから止まっていい理由には
ならないと思います」
空気が、
ぴたりと張る。
「錆兎は、
義勇さんに止まってほしくて
助けたんじゃない」
「生きてほしかったから、
助けたんだと思います」
「その先を、
ちゃんと歩いてほしかったから」
義勇の表情は変わらない。
だが、
その目の奥だけが
わずかに揺れた。
炭治郎は、
さらに一歩踏み込む。
「それを、
義勇さんがずっと
“自分には資格がない”で止めてたら」
「錆兎が命を懸けた意味まで、
そこで止まっちゃうじゃないですか」
その言葉は、
鋭かった。
だが、
責めるためじゃない。
止まっていたものを、
もう一度動かすための言葉だった。
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義勇は何も言わない。
沈黙が落ちる。
長い。
けれど、
逃げる沈黙じゃなかった。
義勇の中で、
何かが揺れている。
炭治郎にはそれが分かった。
だからこそ、
炭治郎は最後にもう一つだけ言おうとして
ふと、
義勇の顔を見た。
張りつめたまま、
ずっと止まっている顔だった。
「義勇さん」
炭治郎が、
少しだけ声の力を抜く。
「腹、減ってませんか?」
義勇が、
わずかに眉を動かす。
「……は?」
「蕎麦、食べに行きましょう」
あまりにも脈絡のない言葉だった。
義勇は、
しばらく無言のまま炭治郎を見る。
その沈黙が、
さっきまでとは少しだけ違っていた。
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しばらくして、
二人は並んで蕎麦を啜っていた。
湯気が立つ。
炭治郎は一口すすって、
ようやく少しだけ息を吐いた。
義勇は何も言わない。
だが、
帰らなかった。
「義勇さんが
錆兎の代わりになれないのは、
当たり前です」
「誰だって、
誰かの代わりにはなれない」
「でも――」
炭治郎の拳が、
小さく握られる。
「生き残った人にしか
繋げられないものがあると思います」
その言葉が、
静かに落ちる。
義勇の目が、
ほんのわずかに伏せられる。
「今、
止まってる場合じゃないです」
炭治郎の声は、
もうぶれていなかった。
「鬼は増えてる」
「みんな戦ってる」
「義勇さんの場所を、
今は真壁さんが持たせてくれてる」
「でも――」
炭治郎の目が、
真っ直ぐ義勇を捉える。
「そこはやっぱり、
義勇さんの場所です」
風が吹く。
葉が揺れる。
どこかで、
水の落ちる音がした気がした。
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長い沈黙のあと。
義勇が、
ほんのわずかに目を閉じる。
それだけだった。
何かを言ったわけでもない。
何かが急に変わったわけでもない。
けれど――
止まっていた水が、
ほんの少しだけ動いた。
そんな気がした。
炭治郎は、
それ以上何も言わなかった。
ここから先は、
この人が自分で立つしかない。
それを、
炭治郎も分かっていた。
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屋敷を出た後。
夕方の空気が、
少しだけ冷たかった。
炭治郎は、
長く息を吐く。
上手く届いたかは、
まだ分からない。
でも、
何も届いていない感じはしなかった。
その時、
ふと真壁の言葉を思い出す。
――竈門くんなら、
届くかもしれません。
炭治郎は、
小さく拳を握る。
届いていてほしいと思った。
そして、
次に会う時は――
あの人がちゃんと、
前へ立っていてほしいと願った。
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第七十四話 終