鬼滅の刃 ― 礎 ―   作:【規制済み】

89 / 107
第七十五話 ― 流れ出すもの

 

 

 

水柱代行の稽古三日目。

 

朝の空気は、

少しだけ張っていた。

 

いつもと同じ訓練場。

 

同じ地面。

 

同じ木立。

 

同じように並ぶ隊士たち。

 

それなのに――

 

どこか、

空気の流れだけが違っていた。

 

炭治郎は、

列の中で静かに息を整える。

 

昨日の疲れは、

まだ身体の奥に残っている。

 

脚も重い。

 

肩も張っている。

 

それでも、

今日は不思議と足が止まらなかった。

 

胸のどこかで、

何かが動き始めている気がした。

 

その理由を、

炭治郎はまだ言葉にできない。

 

けれど――

 

きっと、

待っているからだと思った。

 

 

「始めます」

 

真壁の声が、

朝の空気へ落ちる。

 

静かで、

変わらない声だった。

 

隊士たちが動き出す。

 

歩く。

 

止まる。

 

位置を替える。

 

穴を埋める。

 

崩れない。

 

その形は、

初日よりずっと整っていた。

 

足運びが違う。

 

視線が違う。

 

無駄な力みが減っている。

 

ほんの少しの差だ。

 

だが、

その少しが

生き残る側へ寄せていく。

 

「今のままで」

 

真壁が言う。

 

「崩さないでください」

 

炭治郎が踏み込む。

 

善逸が下がる。

 

伊之助が横へ回る。

 

その流れは、

昨日までよりずっと自然だった。

 

無理に合わせているんじゃない。

 

それぞれの動きが、

少しずつ“役割”になってきている。

 

「そうです」

 

真壁の声が落ちる。

 

「そのまま通してください」

 

通す。

 

その言葉が、

炭治郎の中で

少しずつ形になっていく。

 

前へ出ること。

 

持たせること。

 

崩れないこと。

 

全部が別々じゃない。

 

一つの流れの中にある。

 

そんな感覚が、

ようやく身体の中へ落ち始めていた。

 

 

しばらくして――

 

訓練場の端で、

ふと人の気配が止まる。

 

一人。

 

二人。

 

視線が、

そちらへ流れた。

 

炭治郎も、

つられるように顔を上げる。

 

そして――

 

息が止まる。

 

そこに立っていたのは、

冨岡義勇だった。

 

静かに。

 

何も言わずに。

 

ただ、

そこに立っている。

 

それだけなのに、

空気が少しだけ変わる。

 

ざわめきは起きない。

 

けれど、

確かに場が引き締まる。

 

隊士たちの背筋が、

無意識に伸びた。

 

炭治郎の胸が、

どくんと鳴る。

 

「……義勇さん」

 

小さく漏れたその声は、

自分でも驚くほど熱を帯びていた。

 

義勇は、

炭治郎を見ない。

 

そのまま、

訓練場の中央へ歩いてくる。

 

真壁の前で、

足を止めた。

 

 

しばらく、

言葉はなかった。

 

ただ、

風だけが通る。

 

真壁が、

先に口を開く。

 

「おはようございます」

 

いつも通りの、

丁寧な声だった。

 

義勇は、

短く返す。

 

「……ああ」

 

それだけ。

 

だが、

その短さの中に

昨日までとは違うものがあった。

 

真壁は、

それ以上何も言わない。

 

義勇も、

余計な説明をしない。

 

その沈黙は、

気まずさではなかった。

 

返すべきものを、

返しに来た空気だった。

 

義勇が、

静かに言う。

 

「ここからは俺がやる」

 

短い。

 

けれど、

十分だった。

 

真壁は、

ほんの一拍だけ間を置いて――

 

「承知しました」

 

そう答えた。

 

それだけで、

終わった。

 

引き止めもしない。

 

譲ったことを強調もしない。

 

返したことを誇りもしない。

 

ただ、

本来あるべき場所へ

本来あるべきものが戻った。

 

それだけだった。

 

だが――

 

炭治郎には、

それが妙に胸へ残った。

 

 

義勇が、

隊士たちの方へ向き直る。

 

その視線は、

鋭いわけではない。

 

けれど、

静かに深い。

 

水面みたいな目だった。

 

「続ける」

 

それだけ言う。

 

善逸が、

小さく「短っ」と呟いたが、

誰も拾わなかった。

 

義勇は、

隊士たちの並びを一瞥する。

 

「前へ」

 

短い指示で、

全員が動き出す。

 

歩く。

 

止まる。

 

位置を替える。

 

やっていること自体は、

昨日までと大きく変わらない。

 

だが――

 

何かが違う。

 

炭治郎は、

すぐにそれを感じた。

 

静かだ。

 

真壁の稽古は、

崩れを防ぐための形だった。

 

穴を空けないための、

支える水だった。

 

それに対して義勇のそれは――

 

もっと、

流れている。

 

止まらない。

 

詰まらない。

 

動きが繋がっていく。

 

「止まるな」

 

義勇が言う。

 

「止まった場所から、

次を出せ」

 

その言葉に、

炭治郎の呼吸がわずかに変わる。

 

昨日までの

“崩れない”の上に――

 

今日は

“流れ続ける”が乗ってくる。

 

「足を残せ」

 

「視線を切るな」

 

「一手で終わるな」

 

短い言葉ばかりだ。

 

だが、

全部が鋭く芯を突く。

 

 

 

炭治郎が踏み込む。

 

止まる。

 

そこから、

もう一歩。

 

昨日より少しだけ、

自然に出る。

 

「……っ」

 

身体の中で、

何かが繋がる。

 

止まらない。

 

切れない。

 

無理に速くするんじゃない。

 

流れを切らない。

 

その感覚が、

ほんの少しだけ分かった気がした。

 

義勇の声が落ちる。

 

「今のだ」

 

炭治郎の目が、

わずかに見開く。

 

たったそれだけの言葉なのに、

妙に手応えがあった。

 

義勇は、

もう次の隊士を見ている。

 

「村田」

 

「はい!」

 

「左が遅い」

 

「……はい!」

 

「我妻」

 

「ひぇっ!?」

 

「止まる前に顔が死んでる」

 

「そこ見てるんですかぁ!?」

 

「見てる」

 

「やだぁ……」

 

伊之助には、

少しだけ長く言った。

 

「前へ出るなとは言わない」

 

「だが、

出たら戻れる形で出ろ」

 

伊之助が、

少しだけ目を細める。

 

それはたぶん、

伊之助なりに

ちゃんと刺さっていた。

 

 

 

少し離れた場所で、

真壁は静かにその様子を見ていた。

 

何も言わない。

 

口も挟まない。

 

ただ、

見ている。

 

その横顔は、

いつも通り静かだった。

 

だが――

 

少しだけ、

肩の力が抜けて見えた。

 

きっと――

 

安心しているんだと思った。

 

ここが戻ったことを。

 

流れが、

また繋がったことを。

 

 

昼前。

 

一度休憩が入る。

 

隊士たちが、

それぞれ地面へ座り込む。

 

善逸は

「やっぱり静かな人の方が怖いぃ……」と

本気で震えていた。

 

伊之助は

「でもちょっと分かってきたぞ!!」と

嬉しそうだ。

 

炭治郎は、

息を整えながら

少し離れた場所を見る。

 

義勇と真壁が、

並んで立っていた。

 

会話はない。

 

だが、

空気は悪くない。

 

風が、

二人の羽織を少しだけ揺らす。

 

それだけの光景なのに、

妙に目に残った。

 

しばらくして、

義勇が小さく言う。

 

「……助かった」

 

炭治郎の耳には、

ぎりぎり届くくらいの声だった。

 

真壁が、

わずかに目を向ける。

 

「はい」

 

短く返す。

 

義勇は、

それ以上続けない。

 

真壁も、

掘らない。

 

その短いやり取りだけで、

十分だった。

 

炭治郎は、

胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じる。

 

全部を言葉にしなくても、

伝わるものがある。

 

たぶん今のは、

そういうものだった。

 

 

午後の稽古が終わる頃には、

隊士たちの動きが

また少しだけ変わっていた。

 

宇髄で、

身体を叩かれた。

 

真壁で、

崩れない形を入れられた。

 

そして義勇で、

その形を止めずに流すことを教わった。

 

全部が、

一本の線になり始めている。

 

炭治郎は、

息を切らしながらも

はっきりそう感じていた。

 

「……なるほど」

 

小さく呟く。

 

「水って、

こうやって繋がるんだ……」

 

その言葉は、

誰に聞かせるでもなかった。

 

けれど、

義勇の耳には届いたらしい。

 

一瞬だけ、

その視線が炭治郎へ向く。

 

何も言わない。

 

だが、

否定もしなかった。

 

それだけで、

十分だった。

 

 

稽古の終わり際。

 

義勇が、

静かに全員を見回す。

 

「今日はここまでだ」

 

いつも通り、

短い。

 

だが、

その短さが

もうどこか遠く感じなかった。

 

隊士たちが、

疲れ切った身体を引きずりながら

散っていく。

 

義勇の視線が、

炭治郎たち三人へ向く。

 

ほんの一瞬だけ、

その動きを見たあと――

 

短く言った。

 

「……お前達は、もう次へ行け」

 

炭治郎が、

わずかに目を見開く。

 

「明日からは来なくていい」

 

 

炭治郎は、

立ち止まり一礼する。

 

「義勇さん、ありがとうございました!」

 

 

 

その先で、

真壁が踵を返そうとしている。

 

「真壁さん」

 

呼ぶと、

真壁が振り向く。

 

「はい」

 

炭治郎は、

少しだけ笑った。

 

「ありがとうございました」

 

真壁は一瞬だけ、

わずかに目を細める。

 

それから、

いつもの調子で答えた。

 

「まだ稽古は続きます」

 

炭治郎が、

少しだけ目を丸くする。

 

真壁は、

静かな声で続けた。

 

「次もあります」

 

「崩れず、

通してください」

 

その言葉に、

炭治郎の胸が

小さく熱を持つ。

 

けれど、

そこにはちゃんと

次へ繋ぐ熱があった。

 

炭治郎は、

力強く頷く。

 

「はい!」

 

その返事を聞いて、

真壁はほんの少しだけ

口元を緩めたように見えた。

 

たぶん、

気のせいじゃなかった。

 

 

流れは、

一度止まってもいい。

 

濁ってもいい。

 

揺らいでもいい。

 

だが――

 

それでもまた、

前へ流れ出すことができる。

 

そのことを、

炭治郎は今日

確かに見た気がした。

 

 

第七十五話 終

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。