⸻
朝の空気は、少しだけやわらかくなっていた。
蝶屋敷の庭に差し込む光も、
数日前より穏やかに見える。
だがそれは、
何かが解決したからではない。
ただ、
時間だけが静かに進んでいる。
それだけのことだった。
炭治郎は縁側に立ち、
静かに息を吐く。
胸の奥に残る重さは、
まだ消えていない。
煉獄杏寿郎の言葉も、
姿も、
最後の表情も、
少し気を抜けばすぐに浮かんでくる。
それでも――
ずっと立ち止まっているわけにはいかなかった。
鬼は待たない。
人を、守らなければならない。
その事実だけが、
今の炭治郎を少しずつ前へ押していた。
蝶屋敷の朝は、
相変わらず騒がしかった。
廊下の向こうから、
善逸の情けない悲鳴が響いてくる。
「嫌だぁぁぁ!! 何で朝から機能回復訓練なんだよぉぉ!!」
その声に重なるように、
伊之助の怒鳴り声も聞こえた。
「おい待てコラ! 勝負から逃げんな!!」
「逃げてない! 命を守ってるの!!」
炭治郎は思わず、
ほんの少しだけ口元を緩めた。
賑やかだ。
うるさいくらいに。
でも、
その騒がしさに少しだけ救われてもいた。
何もかもが止まったままではない。
ちゃんと、
日常の空気は戻ってきている。
そのことが、
今はありがたかった。
縁側から庭へ降りると、
足元に少しだけ違和感がある。
傷は癒えつつある。
だが完全ではない。
身体よりも、
たぶん中身の方がまだ重い。
ふと、
あの日の朝のことを思い出す。
あの時、
真壁は「そのままでいい」と言った。
あれは甘やかしではなかった。
無理に立ち直ったふりをしなくていいという、ひとつの判断だった。
炭治郎はその意味を、
今になって少しずつ理解し始めていた。
立ち直るというのは、
悲しみを消すことではない。
痛みを抱えたままでも、
前を向ける場所を探していくことなのかもしれない。
その時だった。
庭の奥から、
覚えのある足音が近づいてくる。
地面をしっかり踏む、
静かな歩き方。
炭治郎は顔を上げる。
「真壁さん」
真壁は、相変わらず深紺の羽織を纏い、
庭の端からこちらへ歩いてきていた。
「おはようございます」
「おはようございます」
炭治郎は小さく頭を下げる。
真壁は炭治郎の顔を見て、
ほんのわずかに目を細めた。
「顔色が戻りましたね」
その一言に、
炭治郎は少しだけ驚く。
自分ではまだ、
全然戻れていないと思っていたからだ。
「……そうでしょうか」
「はい」
真壁はそれ以上飾らず、
事実としてそう言った。
炭治郎は少しだけ、
その言葉を胸の中で反芻する。
顔色が戻った。
たしかに、
あの日の朝よりは
少しだけ呼吸がしやすい気がする。
それだけでも、
前に進んでいるのかもしれない。
真壁は庭の中央あたりへ視線を向けてから言った。
「少し動けるなら、
軽く身体を起こしますか」
炭治郎はすぐに頷いた。
「はい」
返事は自然に出た。
前の自分なら、
もっと勢いよく答えていたかもしれない。
だが今は違う。
無理に元気を作ることもなく、
ただ静かに「やります」と言えた。
真壁はそれを見て、
短く頷く。
「では、無理をしない範囲で」
「はい」
二人は庭の少し開けた場所へ移動する。
木漏れ日が土の上に落ちていた。
真壁は炭治郎に刀を抜かせることはせず、
まず立つ位置を見た。
「肩が少し上がっています」
炭治郎は反射的に肩の力を抜く。
「呼吸が浅いです」
「……はい」
「足元は良いですね」
その言葉に、
炭治郎は少しだけ目を見開く。
真壁は続ける。
「前より、地面を踏めています」
炭治郎は黙ったまま、
自分の足元を見た。
土を踏んでいる。
それは当たり前のことのはずなのに、
今は妙に実感があった。
真壁はそんな炭治郎を見て、
短く言う。
「傷があっても、
立てないわけではありません」
その一言が、
静かに胸へ入ってくる。
炭治郎は小さく息を吸った。
それは、
今の自分に必要な言葉だった。
その後もしばらく、
真壁は炭治郎に
歩かせ、止まらせ、向きを変えさせた。
地味な確認ばかりだった。
だが、
今の炭治郎にはそれがちょうどよかった。
大きなことはできない。
強くなった実感もない。
それでも、
一つずつ整えていけば
まだ前に進める。
そう思えた。
しばらくして、
炭治郎はふと口を開く。
「……真壁さん」
「はい」
「俺、前は……」
言葉を探しながら続ける。
「何かあると、
すぐに“追いつかなきゃ”って思ってた気がします」
真壁は黙って聞いている。
炭治郎は視線を前に置いたまま続ける。
「でも今は、
ちゃんと立てないまま前に出ても
駄目なんだって、少し分かる気がして」
真壁は少しだけ目を細めた。
「ええ」
その返事は短かったが、
否定も飾りもなかった。
「急ぐことと、
焦ることは違います」
炭治郎は顔を上げる。
真壁は静かに続けた。
「進むために急ぐのは必要な時もあります」
「ですが、焦って崩れると
結局は遠回りになります」
炭治郎はその言葉を、
静かに受け止める。
たぶんこれは、
戦いの話だけではない。
今の自分のことでもあるのだと思った。
その時、背後から
慌ただしい足音が近づいてきた。
「炭治郎ぉぉぉ!!」
善逸だった。
その後ろから伊之助も走ってくる。
「おい何してやがる!」
「うるさいぞお前ら!」
炭治郎が振り返る。
善逸は炭治郎と真壁を見比べて、
露骨に顔をしかめた。
「またやってる……何で俺が泣きながら訓練してる時に、
炭治郎だけ真面目な特別メニューみたいなのやってんの……」
「特別っていうか……確認だけだよ」
「その確認が怖いんだってぇ!!」
伊之助は鼻を鳴らす。
「そんなもんより俺と勝負しろ!」
「いや今は違うだろ!」
騒がしい。
でも、その騒がしさが
今は少しだけ心地よかった。
真壁はそんな二人を見て、
ほんの少しだけ目を細める。
「お二人とも元気ですね」
「元気じゃないよ!!」と善逸が叫び、
「元気だ!!」と伊之助が被せる。
炭治郎は思わず吹き出した。
ほんの少しだけ、
本当に少しだけだったが、
自然に笑えた。
そのことに自分で驚く。
真壁はそれを見て、
何も言わなかった。
ただ、
わずかに口元が緩んだように見えた。
空を見上げると、
雲がゆっくり流れていた。
何かが元通りになったわけではない。
煉獄杏寿郎は戻らない。
あの日の喪失が消えることもない。
でも、
だからといって
立ち止まり続けるわけにもいかない。
痛みがあるままでも、
傷を抱えたままでも、
進まなければならない時がある。
炭治郎はそれを、
少しずつ身体で覚え始めていた。
完全に立ち直る日なんて、
もしかしたら来ないのかもしれない。
それでも、
前を向いて歩ける瞬間があるなら。
それを繋いでいくしかない。
真壁堅という人は、
きっとそういうことを
言葉よりも先に、立ち方で教えてくれる人なのだろう。
炭治郎は静かに息を吸う。
まだ痛い。
まだ苦しい。
だが、
前よりほんの少しだけ、
足元はしっかりしていた。
それだけで、今は十分だった。
⸻
第八話 終
更新頻度について
-
今のままでいい
-
早い、毎日更新で良い
-
隔日くらいでいい
-
更新頻度の権を他人に握らせるな!