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水柱の稽古を終えた翌日。
朝から、
空気が妙に柔らかかった。
宇髄の時みたいな
張り詰めた圧はない。
真壁の時みたいな
静かな緊張もない。
義勇の時のような
澄んだ冷たさもない。
なのに――
なぜか、
一番落ち着かない。
「……なんでだろう」
炭治郎が、
小さく呟く。
善逸が即答した。
「絶対怖いやつだよぉ……」
「優しい人の稽古って、
だいたい逃げ道ないんだよぉ……」
「知らねぇけど!」
伊之助が鼻を鳴らす。
「今日の柱は
あの変な髪のやつだろ!!」
「変な髪じゃないわよぉ!!」
その声が、
後ろから弾けるように飛んだ。
振り向いた瞬間、
甘露寺蜜璃がいた。
にこにこしている。
笑顔だ。
だが、
立っているだけで分かる。
強い。
やわらかい雰囲気の奥に、
はっきりと柱の圧がある。
炭治郎は、
思わず背筋を伸ばした。
里で見た。
あの人は、
あの上弦の鬼を
たった一人で止めていた。
あの時の姿が、
一瞬だけ脳裏をよぎる。
やわらかいのに、
決して折れなかった背中。
「今日はねぇ、
身体を“やわらかく強く”使う稽古をするよぉ!」
甘露寺が、
両手を合わせて言う。
隊士たちの顔に、
一斉に「嫌な予感」が浮かんだ。
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最初に始まったのは――
柔軟だった。
「えっ」
善逸が、
情けない声を出す。
「……柔軟?」
「そうっ!」
甘露寺が、
満面の笑みで頷く。
「まずはちゃんと、
動ける身体にしないとね!」
その言葉自体は、
何も間違っていない。
だが――
次の瞬間。
甘露寺が、
何でもない顔で
開脚したまま上体を前へ倒す。
ぺたりと、
胸が地面についた。
「…………」
隊士たちが凍る。
伊之助だけが、
意味もなく燃えた。
「できるかァ!!」
「やってみようかぁ!」
「うおおおお!!」
「いだだだだぁぁぁ!!」
訓練場のあちこちで、
悲鳴と叫びが入り乱れる。
炭治郎も、
なんとか脚を開きながら
歯を食いしばる。
固い。
思った以上に、
身体が固い。
宇髄の稽古で
土台を叩かれた。
真壁と義勇の稽古で
形と流れを入れた。
だが――
今ここで、
はっきり分かる。
自分の身体はまだ、
“しなる身体”じゃない。
踏むことはできる。
崩れにくくもなった。
でも、
固い。
どこかでまだ、
力を抱えたまま動いている。
「炭治郎くん、
肩が上がってるよ」
甘露寺の声が落ちる。
「もっと抜いて、
ふわってしてみて!」
「は、はい!」
返事はしたものの、
炭治郎の頭には
一瞬「?」が浮かぶ。
ふわって……?
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柔軟の次は、
さらに地獄だった。
反復横跳び。
低姿勢移動。
不安定な足場での切り返し。
片足着地からの
即座の踏み直し。
そして――
極めつけは、
全身のバネを使った
連続移動だった。
「止まらないでぇ!」
甘露寺の声が飛ぶ。
「固めない!」
「沈みすぎない!」
「でも浮かない!」
「ふわっと入って、
シュッて抜けて!」
「分かんないですぅ!!」
善逸が本気で叫ぶ。
「説明が擬音しかないですぅ!!」
甘露寺が、
目を丸くした。
「えぇっ!?
今のすごく分かりやすくなかった!?」
「どこがですかぁ!!」
伊之助は腕を組む。
「……つえぇのは分かるけどよ」
「どう強ぇのか、
分かりにくいやつだな」
炭治郎も、
息を切らしながら思う。
確かにそうだ。
強いのは分かる。
里で見たから、
それは疑いようがない。
でも、
その強さが
どこから来ているのかが
まだ掴みきれない。
その時だった。
少し離れた場所から、
乾いた声が飛ぶ。
「要するにだ」
宇髄だった。
腕を組んだまま、
訓練場の端からこちらを見ている。
今日はもう
自分の稽古担当ではない。
だが、
様子を見に来ていたらしい。
「派手に全部に力入れんなって話だ」
一拍。
「踏む時だけ使え」
「それ以外は抜け」
「ずっと力入れてたら、
派手な次が出ねぇ」
空気が、
少しだけ変わる。
炭治郎の呼吸が、
わずかに止まる。
――踏む時だけ。
――抜く時は抜く。
――切らずに、繋ぐ。
その感覚が、
今までよりずっと
はっきりした形で胸へ落ちてきた。
甘露寺が、
ぱっと宇髄を見る。
「そうそれぇ!!」
「私それ言いたかったのぉ!!」
「だったら最初からそう言え」
宇髄が呆れたように言う。
そのやり取りに、
少しだけ場の空気が緩んだ。
けれど――
炭治郎の中では、
今の言葉が強く残っていた。
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午後。
稽古はさらに
実戦寄りになっていった。
今度は木刀を持っての
打ち込みと回避。
ただし、
ただ斬るだけじゃない。
踏み込む。
受ける。
流す。
返す。
そこまでを
一つの流れでやらされる。
「一回で終わらないでぇ!」
甘露寺が言う。
「当てた後、
次にいける形でいて!」
炭治郎が踏み込む。
打つ。
止まる。
その瞬間、
次が遅れる。
「今の!」
甘露寺の声が飛ぶ。
「最後で固まっちゃった!」
「……っ!」
炭治郎は、
思わず歯を食いしばる。
図星だった。
今までの自分は、
一つ一つを強く出そうとしすぎていたのかもしれない。
斬るたびに。
踏むたびに。
力を、
そこで“切って”いた。
繋げるんじゃなく、
毎回出し切っていた。
だから、
ヒノカミ神楽も
どこかで息が切れる。
だから、
長く通せない。
その感覚が、
今ようやく
一本の線になり始めていた。
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「もう一回!」
甘露寺が手を叩く。
炭治郎は、
深く息を吸う。
その時、
雪の中で父が舞っていた背中が
ふと浮かんだ。
踏む。
だが、
今度は最初から
全部に力を入れない。
入れるのは、
必要な瞬間だけ。
足裏が沈む。
腰が入る。
肩の力は抜く。
腕だけで振らない。
身体の流れを切らない。
打つ。
そして――
止まらない。
次の一歩が、
前より少しだけ自然に出た。
「……っ!」
炭治郎の目が、
わずかに見開く。
違う。
今のは違った。
甘露寺の目が、
ぱっと明るくなる。
「そうっ!」
「今のいいよぉ!!」
その声に、
炭治郎の胸が熱くなる。
まだ完璧じゃない。
まだ全然足りない。
でも、
確かに今、
掴みかけた。
“切れない動き”の入口を。
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善逸は、
横で半泣きだった。
「もう脚が
自分のものじゃないよぉ……」
伊之助は、
汗だくのまま笑っている。
「なんか分かってきたぞ!!」
「要は
ぐにゃってしながら
突っ込めばいいんだろ!!」
「違うわよぉ!!」
甘露寺が即座に否定する。
「ぐにゃってしたら
ただ崩れてるだけだからぁ!」
「難しすぎるだろ!!」
「だから稽古するの!」
そのやり取りに、
炭治郎の口元が
少しだけ緩んだ。
厳しい。
かなり厳しい。
でも、
ただ苦しいだけじゃない。
身体の奥で、
新しい感覚が少しずつ繋がっていくのが分かる。
稽古の終わり際。
最後に課されたのは、
連続の型だった。
踏み込みからの打ち込み。
受け。
返し。
回避。
そこからもう一度、
前へ。
一つで終わらない。
切らない。
止めない。
繋げる。
炭治郎は、
息を整える。
そして動いた。
一つ目。
二つ目。
三つ目。
まだ荒い。
まだ甘い。
それでも――
前より、
ずっと繋がっている。
前より、
ずっと切れない。
最後の踏み込みまで
身体が潰れなかった。
終えた瞬間、
炭治郎は大きく息を吐く。
肺が熱い。
脚が重い。
それでも、
確かな手応えだけが残っていた。
「……なるほど」
小さく、
炭治郎が呟く。
「こうやって、
繋ぐのか……」
その言葉に、
甘露寺がやわらかく笑う。
「わかったみたいだね!」
甘露寺が、
やわらかく笑う。
「それなら、
ちゃんと身体に入るまで繰り返そうね」
「強くなるって、
力を増やすだけじゃないの」
一拍。
「抜けるようになるのも、
すごく大事なんだよ」
その言葉が、
炭治郎の胸へ静かに落ちる。
抜く。
逃がす。
切らない。
それはたぶん――
ヒノカミ神楽を
最後まで通すために
必要なことだった。
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夕方。
隊士たちが
疲れ切ってへたり込む中で、
炭治郎は
一人静かに空を見上げていた。
宇髄の稽古で、
土台を叩かれた。
真壁と義勇の稽古で、
崩れない形と流れを知った。
そして今日――
甘露寺の稽古で、
“しなる強さ”を教わった。
全部が、
少しずつ繋がっていく。
まだ足りない。
まだ届かない。
それでも――
確かに、
前へ進んでいる。
その実感だけが、
今は何よりも大きかった。
少し離れた場所で、
甘露寺が手を振る。
「明日も頑張ろうねぇ!」
その笑顔に、
炭治郎も自然と頷いた。
「はい!」
その返事には、
昨日までより少しだけ
確かな力があった。
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第七十六話 終