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数日間の甘露寺の稽古を終えた翌朝。
訓練場へ向かう道すがら、
炭治郎は何となく肩を竦めた。
朝の空気は変わらず冷たい。
空も、
風も、
景色も同じはずなのに――
なぜか、
妙に息苦しい。
「……なんか今日、
空気重くないか?」
炭治郎が小さく呟く。
善逸が、
即座に顔をしかめた。
「重いっていうか、
嫌な感じがするぅ……」
「なんかこう……
“見られてる感”がすごい……」
伊之助が鼻を鳴らす。
「知らねぇよ!
狭ぇんだよ!!」
「え?」
炭治郎が辺りを見る。
確かに、
訓練場そのものが狭くなったわけじゃない。
だが――
仕切りが増えていた。
木枠。
板。
張られた縄。
即席で組まれた細い通路。
開けていたはずの場所が、
不自然に区切られている。
視界が通らない。
見通しが悪い。
まっすぐ走れない。
それだけで、
空間が急に窮屈に感じられた。
「……なるほど」
炭治郎が小さく息を吐く。
「そういうことか……」
その時、
訓練場の奥から
静かな声が落ちた。
「戦場で、
いつも広く動けると思うな」
全員の背筋が、
一瞬で伸びる。
そこにいたのは、
蛇柱・伊黒小芭内だった。
白い蛇――鏑丸を肩に乗せ、
腕を組んだまま
こちらを見ている。
感情の温度が見えない。
怒鳴っているわけでもない。
だが、
それだけに空気が冷たい。
「今日の稽古は
“通す”ためのものじゃない」
伊黒が言う。
「“通る”ためのものだ」
その言葉が、
炭治郎の胸に引っかかった。
通す。
通る。
似ているようで、
違う。
「余計な動きを削れ」
「無駄に広く使うな」
「最短で動け」
伊黒の視線が、
隊士たちを一人ずつ舐めるように流れる。
その途中で、
ぴたりと止まった。
「……お前たちか」
炭治郎たち三人が、
わずかに身を固くする。
伊黒は、
あからさまに機嫌が悪そうだった。
「甘露寺からお前らの話は聞いている」
一拍。
「随分とまあ、
甘やかしてもらったようだな」
鏑丸が、
伊黒の肩の上で小さく舌を出す。
「俺は甘露寺のように甘くないからな」
「立っているだけで分かる」
善逸が、
ひくりと頬を引きつらせる。
炭治郎も、
思わず背筋を伸ばした。
「えっ、まだ何もしてないですけどぉ……」
伊黒が即座に切る。
伊黒の視線は、
もう次へ移っている。
「妙な癖をつけていなければいいがな」
その言葉が、
静かに落ちる。
理不尽だ。
だが、
反論しづらい。
そして何より――
本気で言っているのが分かるから、
余計にやりにくかった。
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伊黒の視線が、
再び炭治郎たちへ戻る。
「上弦とやり合ったそうだな」
空気が、
わずかに止まる。
炭治郎が一瞬だけ息を呑む。
伊黒は感情を乗せない。
ただ事実を確認するように続けた。
「それで」
一拍。
「その動きか」
善逸が固まる。
伊之助がわずかに眉をひそめる。
炭治郎は、
何も言えなかった。
「甘露寺がいなければ、
あの場で終わっていた」
淡々とした声だった。
だが、
その一言だけ妙に重い。
「お前たちが生きているのは、
運が良かったからだ」
「同じことをもう一度やれば、
次は死ぬ」
反論の余地がなかった。
責められているわけじゃない。
だが、
逃げ場もない。
伊黒は、
それ以上その話を続けない。
まるで、
興味がないかのように視線を切る。
「だから削れ」
「次は通らない」
その言葉だけが、
静かに残った。
最初に始まったのは、
狭い通路での足運びだった。
ただ歩く。
木刀を構えたまま、
肩をぶつけず、
足を乱さず、
視線を切らずに進む。
それだけ。
だが――
異様にやりにくい。
少しでも腕が外へ流れれば、
板に当たる。
足幅が広ければ、
次が詰まる。
視線を切れば、
曲がり角で反応が遅れる。
何もできないまま、
自分の粗だけが露わになる。
「肩が死んでいる」
伊黒の声が飛ぶ。
一人の隊士が、
びくりと固まる。
「そんな位置で構えるな」
「抜けない」
次の隊士。
「足音がうるさい」
「鬼に“ここです”と教えてどうする」
また別の隊士。
「腰が逃げている」
「狭い場所で逃げるな」
声は大きくない。
だが、
一つ一つが鋭い。
まるで、
動きの粗をそのまま
刃で削られているみたいだった。
炭治郎も、
通路へ入る。
一歩。
二歩。
三歩。
気をつけているつもりでも、
すぐに分かる。
動きが大きい。
腕が流れる。
肩が開く。
視線も少し散る。
「竈門」
伊黒の声が落ちる。
「はい!」
反射的に返す。
「見えている場所は悪くない」
一拍。
「だが、
通り方が雑だ」
炭治郎の呼吸が、
わずかに止まる。
図星だった。
何をすべきかは分かる。
どこを見るべきかも、
今までの稽古で少しずつ掴めてきた。
でも――
そこへ行くまでの動きが、
まだ粗い。
大きい。
余分が多い。
「……はい」
炭治郎は、
短く返した。
悔しさはある。
だが、
否定できなかった。
善逸は、
意外にも最初の足運びを
そこまで崩していなかった。
動きが大きくない。
余計な力みも少ない。
だが――
「我妻」
「ひぇっ!?」
「悪くない」
善逸の目が丸くなる。
「……えっ」
「だが、
止まると脆い」
一瞬で顔が曇る。
「そこぉ!?」
「そこだ」
伊黒は即答だった。
「動きは小さい」
「だが、
小さいだけで終わっている」
「次がない」
善逸が、
ぐうの音も出ない顔をする。
伊之助は、
当然のように最悪だった。
「嘴平」
「おう!!」
「無駄が多い」
「なんだと!!」
「全部だ」
「ざけんな!!」
「狭い場所で
その動きは死ぬ」
伊之助が、
ぎりっと歯を噛む。
だが、
反論できない。
動きが大きい。
勢いが強い。
それ自体は武器だ。
だが、
こういう狭い場所では
一歩間違えれば自分で詰まる。
炭治郎は、
二人のやり取りを見ながら
小さく息を吐く。
誰も彼も、
ちゃんと見抜かれている。
それが、
この稽古の息苦しさの正体だった。
次の稽古は、
さらに厳しかった。
木刀での打ち込みに対する、
最小回避。
避ける。
ただし――
大きく避けてはいけない。
一歩で逃げるな。
身体を流しすぎるな。
紙一重でずらし、
そのまま次の一手へ繋げる。
それだけだ。
だが、
それが一番難しい。
隊士が打ち込む。
受け手が、
反射的に大きく下がる。
「遅い」
伊黒が切る。
「その時点で
次が死んでいる」
また別の隊士。
今度は横へ大きく流れる。
「逃げすぎだ」
「その分、
戻りが遅れる」
一つ一つの動きに対して、
全部“余分”を指摘される。
炭治郎の番が来る。
構える。
相手の肩が動く。
打ち込み。
炭治郎は、
身体を捻って避ける。
だが――
「大きい」
伊黒の声が落ちた。
「……っ」
分かっていた。
今のも、
避けること自体はできていた。
でも、
避けた先で止まっている。
次へ行けない。
「避けることが目的になるな」
伊黒の目が、
真っ直ぐ炭治郎を射抜く。
「通すために避けろ」
その言葉が、
強く残る。
通すために避ける。
守るためじゃない。
逃げるためじゃない。
次へ行くために、
最小でずらす。
それは今までの稽古で
積み上げてきたものの、
さらに先だった。
何度も繰り返す。
打ち込み。
回避。
返し。
だが、
炭治郎の動きは
どうしても少し大きい。
分かっているのに、
削り切れない。
踏み込みを小さくすれば、
今度は弱くなる気がする。
避け幅を減らせば、
当たる気がする。
その“気がする”が、
動きを大きくする。
「……っ」
息が上がる。
汗が落ちる。
また打ち込まれる。
また避ける。
また少し大きい。
その時、
鏑丸が伊黒の肩で
小さく動いた。
伊黒が、
炭治郎を見たまま言う。
「怖いか」
唐突だった。
炭治郎が、
わずかに目を見開く。
「え……」
「削るのが」
その言葉に、
炭治郎は息を呑む。
見抜かれた。
まさにそれだった。
動きを小さくするのが怖い。
削るほど、
足りなくなる気がする。
届かなくなる気がする。
守れなくなる気がする。
伊黒は、
それ以上何も言わない。
ただ一言だけ、
静かに落とした。
「余分は、
お前を守らない」
その言葉が、
炭治郎の胸に深く刺さる。
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午後。
最後の稽古は、
狭い通路を抜けながらの
連続対応だった。
曲がり角。
障害物。
狭い間合い。
正面だけじゃない。
横からも来る。
視界が切れる。
止まれば詰まる。
大きく動けば、
次が遅れる。
まるで、
小さな戦場そのものだった。
炭治郎は、
深く息を吸う。
そして動く。
一歩。
曲がる。
打ち込み。
避ける。
返す。
狭い。
近い。
息が詰まりそうになる。
それでも――
今までとは違った。
動きを削る。
腕を広げない。
肩を逃がしすぎない。
避ける幅を減らす。
必要な分だけ動く。
一つ一つを、
削る。
通す。
その感覚を、
何とか身体に落とし込もうとする。
打ち込みが来る。
炭治郎は、
ほんのわずかに身体をずらす。
そして――
そのまま、
次の一歩が出た。
止まらない。
切れない。
返しまで通る。
「……っ!」
炭治郎の目が、
わずかに見開く。
今のは違った。
前より小さい。
前より静かだ。
なのに――
前より通る。
その瞬間、
伊黒の声が落ちた。
「……今のだ」
短い。
だが、
それだけで十分だった。
炭治郎の胸が、
静かに熱を持つ。
掴みきれてはいない。
まだ粗い。
まだ甘い。
けれど――
入口には、
確かに触れた。
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稽古が終わる頃には、
隊士たちは
いつもと違う疲労でへたり込んでいた。
身体そのものというより、
神経が削られるような疲れだった。
善逸が、
地面に倒れたまま呻く。
「怖いよぉ……
全部見られてる感じがするよぉ……」
伊之助は、
悔しそうに地面を叩く。
「狭ぇのムカつく!!」
「でもちょっとだけ……
分かりそうでムカつく!!」
炭治郎は、
息を整えながら
小さく空を見上げる。
大きく動けば、
届くわけじゃない。
むしろ、
削った先にしか
通らない一手がある。
そんな感覚が、
少しだけ見えた気がした。
その時だった。
訓練場のさらに奥――
別の場所から、
怒声が響いた。
「遅ぇんだよォ!!」
空気が、
一瞬で張る。
炭治郎たちが、
思わずそちらを見る。
木々の隙間の向こう。
別の訓練場。
そこでは、
不死川実弥の稽古が始まっていた。
隊士が一人、
地面へ転がる。
別の一人が、
息を切らしながら立ち上がる。
不死川の立つ場所だけ、
空気の密度が違う。
荒い。
速い。
鋭い。
押し切る圧がある。
さっきまでの
伊黒の稽古とは、
まるで真逆に見えた。
けれど――
炭治郎は、
その光景から目を離せなかった。
削るだけじゃ足りない。
削った一手を、
押し通す力がいる。
そんな感覚が、
胸の奥に残る。
不死川の怒声が、
もう一度飛ぶ。
「殺す気で来い!!」
善逸が、
青ざめた顔で呟く。
「……次、
あれ?」
誰も答えなかった。
答えなくても、
分かっていたからだ。
伊黒は、
その視線の流れに気づいていたはずなのに
何も言わなかった。
ただ、
最後に一言だけ落とす。
「今日の形を、
次で崩すな」
その言葉は、
短い。
だが、
妙に重かった。
炭治郎は、
静かに頷く。
「……はい」
次は、
もっと荒い。
もっと速い。
もっと容赦がない。
だが――
だからこそ、
今日削ったものが
きっと必要になる。
炭治郎は、
そう直感していた。
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第七十七話 終
この後幕間30分後に投稿します。
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