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風柱の稽古二日目。
朝の空気は、
昨日よりも重かった。
訓練場へ向かう足取りが、
自然と遅くなる。
誰も口には出さない。
だが、
全員分かっていた。
今日は昨日より、
もっとキツい。
もっと速く。
もっと容赦がない。
「……帰りたい」
善逸が、
本音を隠す気もなく呟く。
「まだ始まってもないのにぃ……」
「うるせぇ」
伊之助が鼻を鳴らす。
「昨日よりいけるぞ」
その声には、
昨日までより確かな熱があった。
炭治郎も、
小さく息を吐く。
削る。
崩れない。
流す。
しなる。
押し通す。
ここまで積み上げてきたものが、
昨日ようやく一つに繋がり始めた。
なら今日は――
それを、
もっと“通る形”にしなければならない。
そう思っていた。
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「遅ぇなァ」
訓練場へ着いた瞬間、
不死川実弥の声が飛んだ。
それだけで、
空気が張る。
昨日と同じ場所。
同じ訓練場。
だが、
そこに立つ不死川の圧だけで
昨日より狭く感じる。
「昨日一日やった程度で
強くなった気になってんなら殺すぞォ」
隊士たちの顔が引きつる。
冗談に聞こえない。
というか、
たぶん半分くらい本気だ。
「今日で終わると思うな」
「通せるようになるまで終わらねぇ」
短い言葉だけが、
乱暴に落ちる。
だが、
言っていること自体は
驚くほど真っ当だった。
炭治郎は、
木刀を握る手に力を入れる。
終わらない。
通せるまで終わらない。
それはつまり――
この柱は、
本気で“通すところまで”見ているということだ。
「構えろォ」
全員が動く。
次の瞬間――
もう始まっていた。
不死川が踏み込む。
速い。
昨日と同じはずなのに、
今日の方がさらに速く感じる。
一人の隊士へ木刀が飛ぶ。
受ける。
崩れる。
その瞬間、
もう次へ行っている。
「止まるなァ!!」
「受けた後に死ぬな!!」
「次を出せ!!」
怒声が飛ぶ。
叩き込まれる。
崩される。
持ち直す。
また押される。
その全部が、
ほとんど休みなく続いていく。
一手で終わらない。
押して終わりじゃない。
押し切るまで、
終わらない。
炭治郎の番が来る。
構える。
呼吸を整える。
来る。
踏み込み。
速い。
だが――
昨日より見える。
最小でずらす。
前へ。
止まらない。
次を出す。
不死川の木刀がぶつかる。
重い。
腕が軋む。
だが、
昨日より崩れない。
「……っ!」
炭治郎が踏み止まる。
押される。
だが、
押し返す。
完全ではない。
まだ浅い。
それでも、
昨日より通る。
「遅ぇ!!」
怒声と同時に、
さらにもう一手。
炭治郎は反射的に避ける。
最小。
そのまま返す。
今度は――
少しだけ深く通った。
「……」
不死川は何も言わない。
だが、
止めもしない。
それが逆に、
“続けろ”に聞こえた。
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午前の稽古が進むにつれ、
隊士たちの動きは少しずつ変わっていった。
削るだけでは足りない。
避けるだけでも足りない。
最小で通して、
そこから押し切る。
それを、
何度も何度も身体に叩き込まれる。
善逸は、
相変わらず半泣きだった。
「無理ぃぃぃ!!」
「怖いぃぃぃ!!」
だが、
昨日より確実に足が止まらない。
避けた後に、
ちゃんと次が出る。
小さい。
だが、
確かに変わっている。
伊之助は、
相変わらず勢いが強い。
だが今日は、
昨日より少しだけ
無駄が減っていた。
突っ込むだけじゃない。
押し切るための形を、
少しずつ覚え始めている。
炭治郎もまた、
昨日より一歩深く踏める感覚があった。
まだ足りない。
だが、
通る感覚はある。
その時だった。
訓練場の端で、
人の気配が止まる。
炭治郎が、
つられるように顔を上げる。
そこにいたのは――
不死川玄弥だった。
玄弥は、
少しだけ息を切らしていた。
急いで来たのが分かる。
訓練場の端に立ったまま、
まっすぐ実弥を見る。
その視線に気づいて、
不死川の空気が一瞬で変わった。
ぴたりと、
何かが止まる。
さっきまでの怒声とは違う。
もっと冷たい、
刃みたいな沈黙だった。
「……何しに来たァ」
実弥の声が落ちる。
低い。
ざらついている。
玄弥は、
一瞬だけ拳を握った。
だが、
逸らさない。
「話がある」
その言葉に、
周囲の空気がさらに張る。
炭治郎は思わず息を呑んだ。
ここで来るのか。
今、
ここで。
「帰れ」
実弥が即答する。
「今は稽古中だァ」
「少しでいい」
玄弥は引かない。
「聞いてくれ」
「聞くことはねぇ」
切り捨てるような声だった。
それでも玄弥は、
そこから動かなかった。
「俺は――」
言いかけた瞬間。
実弥が、
一歩で間合いを詰めた。
「帰れっつってんだろォ!!」
怒声。
空気が裂ける。
玄弥の胸ぐらが、
乱暴に掴まれる。
周囲の隊士たちが凍る。
炭治郎の足が、
反射的に前へ出かける。
だが、
その一歩を
真壁が静かに横から制した。
真壁の目は、
兄弟二人から逸れていない。
その視線の重さに、
炭治郎も息を飲み込む。
今はまだ、
入るタイミングじゃない。
そういう目だった。
「何度言わせんだァ」
実弥の声は、
怒鳴っているのに
どこか冷え切っていた。
「お前は鬼殺隊に向いてねぇ」
「さっさと辞めろ」
玄弥の肩が、
わずかに揺れる。
だが、
目だけは逸らさない。
「嫌だ」
短い返答だった。
その一言に、
実弥の眉がぴくりと動く。
「……あァ?」
「嫌だ」
玄弥が、
もう一度言う。
「俺は辞めねぇ」
「兄貴が何言っても、
もう辞めねぇ」
その声は、
震えていた。
だが、
折れてはいなかった。
「俺は兄貴みたいにはなれねぇ」
「呼吸も使えねぇ」
「不器用だし、
強くもねぇ」
「でも――」
拳が、
ぎりっと握られる。
「それでも俺は、
鬼を殺せるようにはなった!」
「兄貴の背中を追いたい」
その言葉に、
空気が止まる。
炭治郎の胸が、
強く鳴る。
真っ直ぐすぎる。
不器用で、
みっともなくて、
それでも嘘のない言葉だった。
だが――
それが一番、
実弥を逆撫でした。
「ざけんなァ!!」
胸ぐらを掴む手に、
力が入る。
「追うなっつってんだよ!!」
「来んな!!」
「俺の背中見てんじゃねぇ!!」
その怒声は、
ただの拒絶じゃなかった。
あまりにも必死だった。
必死すぎて、
逆に痛いくらいだった。
玄弥の目が揺れる。
だが、
それでも離れない。
「何でだよ……!」
ようやく、
声が少しだけ割れる。
「何でそこまで
俺を突き放すんだよ……!」
「俺はただ――」
「うるせぇ!!」
実弥の怒声が、
全部を叩き切る。
「お前はこっち来んなァ!!」
その一言だけが、
妙に重く残った。
炭治郎の呼吸が止まる。
“こっち”。
その言葉の意味を、
頭より先に胸が理解した。
こっちへ来るな。
こっちで死ぬな。
こっち側に立つな。
それを、
この人は言っている。
言い方は最悪だ。
だが、
そうとしか聞こえなかった。
玄弥の顔が、
ぐしゃりと歪む。
怒りなのか。
悔しさなのか。
悲しさなのか。
たぶん、
全部だった。
「……ふざけんなよ」
低く、
押し殺した声が落ちる。
「兄貴だけで決めんなよ……!」
「俺がどうするかは、
俺が決める!!」
玄弥の肩が、
強く揺れた。
実弥の腕が動く。
空気が、
一瞬で張り詰める。
炭治郎が反射的に前へ出ようとした――
その前に。
一歩だけ。
真壁が、
静かに間へ入った。
それは、
大きな動きじゃなかった。
けれど――
炭治郎は、
その瞬間だけ妙な既視感を覚えた。
“ああいう入り方”をする時の真壁は、
最初から止める場所を決めている。
ただ前へ出るんじゃない。
抜かせないために、
そこへ立っている。
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夜の山中。
鬼の気配が、
いくつも重なっていた。
前では、
実弥が斬っている。
速い。
荒い。
容赦がない。
踏み込んだ先から、
次の鬼が崩れていく。
だが――
その背後へ、
もう一体が回った。
その瞬間。
真壁が、
半歩だけ位置を変える。
鬼の爪が、
空を切った。
実弥は振り返らない。
振り返らないまま、
ただ一言だけ落とす。
「……抜かせんなよ」
真壁は、
短く答えた。
「はい」
それだけだった。
けれど、
その一言で十分だった。
前へ出る者と、
その背を抜かせない者。
二人の形は、
その頃にはもう
出来上がっていた。
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だからこそ。
今、
真壁がそこへ立った瞬間――
実弥の空気が、
ほんのわずかにだけ止まった。
怒気は消えていない。
鋭さもそのままだ。
だが、
完全には振り抜かなかった。
真壁が、
静かに言う。
「やめてください」
実弥の目が、
わずかに細くなる。
「……引っ込んでろ」
荒い声だった。
けれど、
その腕はもう
玄弥へ向いていなかった。
真壁が、
一歩だけ割って入った。
乾いた音。
拳は、
真壁の木刀で逸らされていた。
一瞬。
空気が凍る。
実弥の目が、
ゆっくりと真壁へ向く。
「……真壁ェ」
声が低い。
危ない。
炭治郎の背中に、
冷たい汗が走る。
だが、
真壁は引かなかった。
静かに、
まっすぐ実弥を見る。
「それ以上は、
本当に戻れなくなります」
声は大きくない。
けれど、
誤魔化しがなかった。
実弥の眉が、
ぴくりと動く。
「口出すなァ」
「承知しています」
真壁は即座に返す。
一拍。
それから、
ほんの少しだけ言葉を足した。
「それはもう、
突き放すでは済みません」
その言葉が、
静かに落ちる。
重かった。
実弥の目が、
わずかに揺れる。
ほんの一瞬だけ。
だが、
確かに揺れた。
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その隙に、
炭治郎が前へ出る。
「不死川さん!!」
思わず、
声が出ていた。
実弥が、
苛立ちを隠さず睨みつける。
「てめぇは黙ってろォ」
「黙れません!!」
炭治郎も引かなかった。
胸が熱い。
頭より先に、
言葉が出る。
「玄弥は、
来たじゃないですか!!」
「怒鳴られても、
追い返されても、
それでも来たじゃないですか!!」
「そんなの、
簡単に切れるわけないです!!」
「兄弟なんだから!!」
その言葉に、
実弥の目が
ほんのわずかに揺れた。
怒りだけじゃない。
もっと深い、
何かが滲む。
だが、
次の瞬間には
全部押し込められる。
「……うるせぇ」
低い声だった。
「てめぇに
何が分かる」
炭治郎は、
一瞬だけ言葉に詰まる。
分かるとは言えない。
同じじゃない。
同じ痛みじゃない。
けれど――
それでも。
「全部は分かりません」
炭治郎は、
まっすぐ言った。
「でも」
息を吸う。
「切りたいわけじゃないのは、
分かります」
沈黙。
風が吹く。
訓練場の端で、
誰も動けないまま立ち尽くしている。
玄弥の目が、
わずかに見開く。
実弥は、
何も言わない。
何も言えないみたいに、
ただ睨んでいる。
長い沈黙のあと――
実弥が、
乱暴に玄弥の胸ぐらから手を離した。
玄弥の身体が、
わずかによろける。
実弥は、
それを見ない。
「……失せろ」
低く、
吐き捨てるように言う。
「次勝手に来たら、
今度こそ半殺しにする」
言葉は、
相変わらず最悪だった。
だが――
さっきまでと、
少しだけ違った。
玄弥も、
それを感じたのかもしれない。
すぐには返さない。
ただ、
ぎりっと奥歯を噛んで、
それから小さく言った。
「……また来る」
実弥の眉が寄る。
だが、
玄弥は今度こそ視線を逸らさなかった。
「何回でも来る」
「兄貴が嫌がっても、
俺は勝手に追う」
その言葉に、
実弥は舌打ちした。
「……チッ」
それ以上は、
何も言わなかった。
玄弥が踵を返す。
去っていく背中は、
まだ痛々しい。
けれど、
完全に折れた背中ではなかった。
炭治郎は、
その背中を見送りながら
小さく息を吐く。
何かが解決したわけじゃない。
全然足りない。
まだ遠い。
でも――
完全には切れなかった。
それだけは、
確かだった。
⸻
しばらくして。
実弥が、
苛立ちを隠しもしないまま
隊士たちへ向き直る。
「何見てやがる!!」
怒声が飛ぶ。
全員の背筋が跳ねる。
「稽古の途中だァ!!」
「ぼさっとしてっと
まとめて潰すぞ!!」
空気が、
一気に現実へ引き戻される。
善逸が、
小さく震えた。
「切り替え早すぎるよぉ……」
伊之助は、
妙に真顔だった。
「……兄ちゃんって
面倒くせぇな」
炭治郎は、
何も言わなかった。
ただ、
木刀を握り直す。
今見たものが、
胸の奥に残っている。
切りたいわけじゃない。
それでも、
切るみたいにしか
遠ざけられないものがある。
それはきっと、
強さとは別の痛みだった。
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午後の稽古は、
午前よりさらに荒かった。
いや――
不死川自身が、
少しだけ荒れていたのかもしれない。
一手が鋭い。
踏み込みが深い。
押し込みが重い。
だが、
炭治郎はもう
その圧から目を逸らさなかった。
怖い。
痛い。
苦しい。
それでも――
押し通す。
それが、
この柱の強さだ。
そしてたぶん、
この人はその強さでしか
守れないものがある。
そう思った。
炭治郎が踏み込む。
最小で避ける。
流す。
止まらない。
押し返す。
まだ浅い。
だが、
午前よりは通る。
「……」
不死川は何も言わない。
だが、
最後まで止めなかった。
その沈黙が、
この人なりの評価なのだと
今は少しだけ分かる気がした。
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日が傾く頃。
不死川が、
最後に一言だけ落とす。
「……明日からは来なくていい」
短い。
乱暴な言い方だった。
だが、
意味は分かる。
善逸が、
一瞬だけ目を見開く。
「えっ……」
伊之助が、
にやりと笑う。
「おお!!」
炭治郎は、
少しだけ息を呑んでから
深く一礼した。
「ありがとうございました!」
不死川は、
それに返さない。
ただ、
鬱陶しそうに視線を逸らすだけだった。
だが――
追い返しはしなかった。
それで十分だった。
訓練場を離れながら、
炭治郎は小さく空を見上げる。
削る。
崩れない。
流す。
しなる。
押し通す。
そして今日――
痛みを抱えたままでも、
前へ進む強さがあることを見た。
強いから、
綺麗に進めるわけじゃない。
強いからこそ、
不器用にしか守れないこともある。
そのことが、
胸の奥に静かに残っていた。
その時、
少し離れた場所で
真壁が足を止める。
「……真壁さん?」
炭治郎が振り向く。
真壁は、
少しだけ木立の奥を見ていた。
その視線の先には、
もう誰もいない。
けれど、
その横顔はどこか静かに硬かった。
まるで、
言葉より先に切ってしまうしかないものを
見ていたみたいに。
「どうかしたんですか?」
炭治郎の問いに、
真壁は一拍だけ黙る。
それから、
いつものように静かに答えた。
「……いえ」
短い返答。
だが、
その声は少しだけ深かった。
「次へ行きましょう」
炭治郎は、
その横顔を一瞬だけ見つめてから
小さく頷く。
「……はい」
次は、
霞柱の稽古だ。
もっと速く。
もっと静かで。
もっと掴みにくい場所へ行く。
それでも――
ここまで積み上げたものは、
きっと無駄じゃない。
炭治郎は、
そう信じて前を向いた。
⸻
第七十九話 終