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風柱の稽古を終えた翌朝。
訓練場へ向かう足取りは、
これまでと少し違っていた。
重いわけじゃない。
怖いわけでもない。
だが――
掴めない。
「……なんだろう」
炭治郎が小さく呟く。
善逸が、
不安そうに周囲を見回した。
「静かすぎない……?」
伊之助も、
珍しく辺りを見ている。
「……音がねぇな」
風は吹いている。
木も揺れている。
なのに――
何かが足りない。
そんな違和感があった。
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訓練場へ着いた時。
そこにはもう、
人がいた。
いつ来たのか分からない。
最初からそこにいたみたいに、
自然に立っていた。
霞柱・時透無一郎。
ぼんやりと、
空を見ている。
こちらには気づいているはずなのに、
視線が合わない。
「……あ」
無一郎が、
ようやく口を開く。
「来たんだ」
それだけだった。
歓迎でも、
指示でもない。
ただ、
事実を確認しただけの声。
炭治郎たちは、
思わず顔を見合わせる。
「えっと……」
善逸が困る。
「始めないの……?」
無一郎は、
少しだけ考えるように間を置いた。
それから――
「始めるけど」
軽い。
あまりにも軽かった。
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「構えて」
短い一言。
全員が、
反射的に動く。
木刀を構える。
呼吸を整える。
次の瞬間――
一人の隊士が、
弾かれた。
「え?」
誰も、
動きを見ていない。
気づいた時には、
もう終わっていた。
「遅いよ」
無一郎が言う。
位置が違った。
さっきまで立っていた場所じゃない。
「……は?」
善逸が固まる。
「今……どこから来たの?」
返事はない。
次の瞬間、
別の隊士の背後にいる。
「そこ」
軽く触れるだけ。
だが、
完全に“取られている”。
炭治郎の背筋に、
冷たいものが走る。
(速い……?)
違う。
速いだけじゃない。
(見えてない……)
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炭治郎の番が来る。
構える。
集中する。
来る。
――来ない。
「……?」
一瞬、
空白が生まれる。
その次の瞬間。
背後。
「遅い」
炭治郎の身体が、
弾かれる。
「……っ!」
振り向く。
もういない。
横。
「そこも遅い」
また弾かれる。
(何だ……!?)
見えているはずなのに、
追えない。
位置が分かるのに、
間に合わない。
いや――
(違う)
分かっているつもりで、
分かっていない。
もう一度。
構える。
今度は、
削る。
最小で動く。
余分を消す。
来た。
ほんのわずかに、
気配を捉える。
避ける。
最小。
そのまま前へ――
いない。
「違うよ」
声だけが、
後ろから落ちる。
次の瞬間、
また弾かれる。
「……っ!」
炭治郎の呼吸が乱れる。
削っている。
崩れていない。
流れもある。
それでも――
届かない。
「遅いんじゃないよ」
無一郎が言う。
静かな声だった。
「見えてないだけ」
炭治郎が、
息を呑む。
「動きは悪くない」
一拍。
「でも全部、分かる」
その言葉が、
静かに刺さる。
否定じゃない。
だが――
届いていない事実だけが、
はっきり残る。
周囲でも、
同じことが起きていた。
善逸が、
半泣きで叫ぶ。
「無理無理無理!!
見えないって!!」
伊之助が、
苛立ちを隠さない。
「どこにいんだァ!!」
だが、
誰一人として
まともに触れられていない。
炭治郎は、
歯を食いしばる。
(追うな)
ふと、
思考が止まる。
今までの稽古で、
ずっとやってきたこと。
見る。
捉える。
合わせる。
だが――
(それじゃ、間に合わない)
炭治郎は、
目を閉じた。
一瞬だけ。
呼吸を整える。
感じる。
風。
地面。
気配。
そして――
匂い。
もう一度。
構える。
今度は、
“追わない”。
来る。
気配が揺れる。
見ない。
感じる。
身体が、
ほんのわずかに動く。
最小。
そして――
触れた。
「……あ」
本当に、
かすっただけ。
だが、
初めて届いた。
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無一郎が、
ほんの少しだけ止まる。
それから――
「……今の」
小さく呟く。
視線が、
初めて炭治郎へ向いた。
「さっきよりいいよ」
それだけだった。
すぐに、
興味が切れたみたいに
視線を外す。
「でもまだ見える」
次の瞬間、
もう動いている。
炭治郎は、
その場で息を吐いた。
届いたわけじゃない。
通じたわけでもない。
それでも――
(入口には、触れた)
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夕方。
稽古が終わる頃には、
全員が静かに疲れていた。
騒ぐ余裕もない。
ただ、
分からないものを叩きつけられた疲労。
善逸が、
小さく呟く。
「……何あれ」
伊之助も、
珍しく静かだった。
「見えてんのに
当たんねぇ……」
炭治郎は、
空を見上げる。
削る。
崩れない。
流す。
しなる。
押し通す。
そこまで来た。
だが――
その先に、
“見せない強さ”がある。
捉えさせない。
読ませない。
感じさせない。
それでも――
一瞬だけ、
触れた。
その感覚だけが、
静かに残っていた。
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無一郎が、
帰り際にぽつりと言う。
「明日もやるから」
振り向かない。
それだけ言って、
もうどこかへ行ってしまった。
軽い。
本当に軽い。
だが――
炭治郎は、
小さく拳を握る。
「……はい」
次は、
もっと見えなくなる。
もっと届かなくなる。
それでも――
ここで止まるわけにはいかない。
炭治郎は、
静かに前を向いた。
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第八十話 終