鬼滅の刃 ― 礎 ―   作:【規制済み】

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第八十二話 ― 動かぬもの

 

 

霞柱の稽古を終えた翌朝。

 

訓練場へ向かう足取りは、

これまでと少し違っていた。

 

重いわけではない。

 

怖いわけでもない。

 

だが――

 

自然と、

背筋が伸びる。

 

誰も騒がない。

 

善逸も。

 

伊之助も。

 

炭治郎自身も、

妙に口数が少なかった。

 

「……なんか」

 

善逸が、

小さな声で呟く。

 

「嫌っていうより……

近づきにくい感じがする……」

 

伊之助も、

珍しく静かに鼻を鳴らした。

 

「……でけぇ山に向かうみてぇだな」

 

炭治郎は、

小さく息を吐く。

 

その感覚は、

少し分かる気がした。

 

圧倒されるとか。

 

威圧されるとか。

 

そういうものとは、

少し違う。

 

ただ――

 

そこにあるだけで、

自分の方が自然と正されるような

“動かない強さ”があった。

 

 

訓練場へ着いた時。

 

そこにはもう、

岩柱・悲鳴嶼行冥がいた。

 

「心頭滅却すれば、

火もまた涼し――」

 

低く深い声が、

朝の空気へ静かに落ちる。

 

大きい。

 

空気の密度が違う。

 

いや――

 

というか、

火で炙られていた。

 

炭治郎たちの足が、

揃って止まる。

 

悲鳴嶼は、

薪の熱を受けながら

微動だにしていない。

 

その巨体が、

朝靄の中にじっと立っている様は

もはや人というより

修験者か何かに見えた。

 

「…………」

 

善逸が、

何か言いかけてやめる。

 

伊之助ですら、

さすがに一瞬だけ黙った。

 

だが――

 

おかしいのは状況だけで、

そこに立つ悲鳴嶼自身は

少しもふざけていない。

 

むしろ、

近づくだけで

自分の呼吸が浅くなる気がした。

 

炭治郎は、

思わずその場で姿勢を正す。

 

悲鳴嶼は、

静かに数珠を擦っていた。

 

目を閉じたまま、

しばらく何も言わない。

 

その沈黙に、

隊士たちの緊張だけがじわじわ高まる。

 

やがて――

 

低く深い声が落ちた。

 

「ようこそ、

我が稽古場へ」

 

それだけだった。

 

だが、

その一言だけで

場が引き締まる。

 

「ここでは、

技の形より先に」

 

一拍。

 

「それを通し切る器を作る」

 

さらにもう一拍。

 

「何よりも強靭な土台こそ、

全てを支える器となる」

 

炭治郎の胸が、

わずかに強く鳴る。

 

器。

 

その言葉が、

妙に重く響いた。

 

今まで積み上げてきたものを

最後まで通すための器。

 

それはたぶん――

 

技術よりも、

もっと根の深いものだった。

 

 

悲鳴嶼が、

静かに言う。

 

「下から火で炙るのは危険なためなしとした」

 

善逸の膝が、

その場で崩れた。

 

「すみません!!善逸が気絶しました!!」

 

炭治郎が慌てて叫ぶ。

 

悲鳴嶼は、

一切動じない。

 

「…川に浸けなさい」

 

それだけだった。

 

 

岩柱の稽古場には、

いくつもの負荷が用意されていた。

 

滝の立ち位置も。

 

運ぶ丸太の太さも。

 

押す岩の大きさも、

隊士ごとに違う。

 

積み上げたものに応じて、

課される重さが変わるのだと

炭治郎はすぐに理解した。

 

 

 

「まずは、

己を整えよ」

 

悲鳴嶼が、

静かに言う。

 

「乱れたままでは、

何も支えられん」

 

その言葉と共に、

炭治郎たちは

訓練場のさらに奥へ通された。

 

そこにあったのは――

 

滝だった。

 

「…………」

 

善逸が、

完全に固まる。

 

高い。

 

白い。

 

そして、

近づくだけで分かる。

 

水量が、

おかしい。

 

岩肌を砕くような轟音を立てて、

大量の水が真っ直ぐに落ちている。

 

冷気が肌を刺す。

 

飛沫だけで、

服の表面がじっとり濡れる。

 

炭治郎は、

思わず滝を見上げた。

 

(これを……やるのか)

 

悲鳴嶼の声が、

背後から落ちる。

 

「滝に打たれ、

姿勢を崩すな」

 

短い。

 

だが、

それだけで難しさが分かる。

 

ただ立つだけではない。

 

この水圧の中で、

呼吸を切らず、

身体を保ち、

崩れずに立ち続ける。

 

それは、

今までのどの稽古とも違う意味で

誤魔化しが利かなかった。

 

「心を乱すな」

 

悲鳴嶼が言う。

 

「呼吸を乱すな」

 

「痛みも、

重さも、

冷たさも」

 

数珠の音が、

静かに鳴る。

 

「受け止めた上で、

立て」

 

その言葉が、

炭治郎の胸へ深く落ちる。

 

受け止めた上で、

立つ。

 

逃げるのではなく。

 

耐えるのでもなく。

 

崩れずに、

そこに在る。

 

それはまさに、

この柱そのものみたいだった。

 

 

最初に滝へ入った隊士が、

一歩目でよろけた。

 

二歩目で足を取られ、

三歩目でほとんど流される。

 

「うわっ……!」

 

水が肩へ落ちた瞬間、

身体が一気に沈む。

 

重い。

 

いや、

重いなんてものじゃない。

 

叩きつけられている。

 

悲鳴嶼は、

その様子をただ静かに見ている。

 

怒鳴らない。

 

急かさない。

 

だが――

 

その沈黙の方が、

よほど逃げ場がなかった。

 

炭治郎の番が来る。

 

息を吸う。

 

足を踏み出す。

 

冷たい。

 

骨の芯まで刺すような冷たさが、

一瞬で脚を攫っていく。

 

さらに一歩。

 

そして――

 

滝の真下へ入った瞬間。

 

「……っ!!」

 

衝撃だった。

 

頭から肩、

肩から腰、

腰から脚へと、

圧倒的な水圧が一気に叩き落ちる。

 

重い。

 

立っているだけで、

全身が潰れそうになる。

 

膝が笑う。

 

呼吸が乱れる。

 

視界が揺れる。

 

(ぐ……っ!!)

 

足を開く。

 

腰を落とす。

 

踏む。

 

だが、

それだけでは足りない。

 

少しでも支えが甘ければ、

一瞬で持っていかれる。

 

「呼吸を切るな」

 

悲鳴嶼の声が、

滝音の向こうから落ちる。

 

「苦しい時ほど、

整えよ」

 

炭治郎は、

歯を食いしばる。

 

整える。

 

こんな中で。

 

この圧の中で。

 

この冷たさの中で。

 

それでも――

 

やるしかない。

 

吸う。

 

吐く。

 

乱れた呼吸を、

無理やり一本へ通す。

 

肩の力を抜く。

 

首を固めすぎない。

 

足だけで支えない。

 

全身で受ける。

 

崩れるな。

 

止まるな。

 

流されるな。

 

「……っ」

 

それでも、

わずかに身体が揺れる。

 

重い。

 

苦しい。

 

冷たい。

 

だが――

 

炭治郎は、

その中で思った。

 

(これは……)

 

ただの根性比べじゃない。

 

姿勢。

 

呼吸。

 

支え。

 

集中。

 

全部が揃っていなければ、

ここには立てない。

 

今まで積み上げてきたものが、

そのまま試されている。

 

そして同時に――

 

まだ足りない部分も、

容赦なく炙り出される。

 

炭治郎の膝が、

わずかに沈む。

 

呼吸が乱れる。

 

その瞬間、

滝の圧がさらに重く感じられた。

 

(まだだ……!)

 

歯を食いしばり、

炭治郎はもう一度踏み直した。

 

 

 

次の稽古は、

丸太運びだった。

 

太い。

 

重い。

 

持ち上げた瞬間、

隊士たちの顔色が変わる。

 

「っ……!」

 

炭治郎も、

歯を食いしばる。

 

重い。

 

ただ重いだけじゃない。

 

持った瞬間から、

全身の支え方が問われる。

 

腕だけじゃ無理だ。

 

脚だけでも無理だ。

 

腰。

 

背中。

 

呼吸。

 

全部が噛み合っていないと、

すぐに潰れる。

 

「運べ」

 

悲鳴嶼が言う。

 

「最後まで、

姿勢を崩すな」

 

短い。

 

だが、

それが一番難しい。

 

歩くたびに、

身体が軋む。

 

足が沈む。

 

肩が悲鳴を上げる。

 

炭治郎は、

なんとか踏み出す。

 

一歩。

 

二歩。

 

三歩。

 

だが――

 

すぐに分かる。

 

持たない。

 

動けることと、

支え続けられることは違う。

 

今までの稽古で

積み上げてきたものがあっても、

その全部を最後まで通し切るには

まだ身体が足りていない。

 

「……っ」

 

炭治郎の呼吸が乱れる。

 

その瞬間、

丸太がわずかにぶれる。

 

「呼吸を切るな」

 

悲鳴嶼の声が落ちる。

 

「苦しい時ほど、

整えろ」

 

その言葉が、

炭治郎の胸へ刺さる。

 

苦しい時ほど整える。

 

簡単なようで、

一番難しい。

 

 

次は、

巨大な岩を押す稽古だった。

 

隊士たちが、

思わず絶句する。

 

「……え?」

 

善逸が、

引きつった声を漏らす。

 

「いや無理でしょ……」

 

伊之助ですら、

一瞬だけ黙った。

 

炭治郎も、

思わずその岩を見上げる。

 

大きい。

 

どう見ても、

簡単に動くようには見えない。

 

悲鳴嶼は、

ただ静かに言った。

 

「押せ」

 

それだけだった。

 

無茶だ。

 

だが、

誰も笑えない。

 

この人が言うと、

冗談に聞こえないからだ。

 

炭治郎は、

岩へ手を当てる。

 

踏む。

 

腰を落とす。

 

押す。

 

動かない。

 

全身へ、

嫌な重みが返ってくる。

 

それでも押す。

 

押して、

押して、

押し続ける。

 

「……っ!!」

 

腕が震える。

 

脚が軋む。

 

呼吸が崩れかける。

 

その時、

炭治郎ははっきりと思った。

 

(今までの全部があっても、

まだ足りない)

 

削ることも。

 

崩れないことも。

 

流すことも。

 

しなることも。

 

押し通すことも。

 

読ませないことも。

 

その全部が、

ここでは“前提”でしかない。

 

最後に必要なのは――

 

それを最後まで持たせる、

身体そのものだ。

 

 

昼を過ぎる頃には、

隊士たちはほとんど喋れなくなっていた。

 

善逸は、

地面へ突っ伏したまま

かすれた声を漏らす。

 

「……もう無理ぃ……」

 

伊之助ですら、

肩で荒く息をしている。

 

炭治郎もまた、

膝へ手をつきながら

呼吸を整えていた。

 

その時だった。

 

ふと、

悲鳴嶼の方を見る。

 

呼吸が違う。

 

汗はかいている。

 

だが、

乱れていない。

 

立ち方も。

 

重心も。

 

熱も。

 

全部が、

妙に“整いすぎている”。

 

炭治郎の鼻が、

わずかに動く。

 

熱い。

 

だが、

荒れていない。

 

心臓の打ち方も、

どこか異様に研ぎ澄まされている気がした。

 

(……なんだ)

 

普通じゃない。

 

強いとか、

そういう話じゃない。

 

もっと深いところで、

身体の在り方そのものが違う。

 

炭治郎の胸の奥で、

何かが小さく引っかかった。

 

 

午後の稽古も、

容赦はなかった。

 

持つ。

 

支える。

 

崩さない。

 

整える。

 

ただそれだけを、

極限までやらされる。

 

技の派手さはない。

 

だが、

一番誤魔化しが利かない。

 

炭治郎は、

歯を食いしばりながら思う。

 

(この人は、

ずっとこれを持っているのか)

 

この身体を。

 

この支えを。

 

この呼吸を。

 

この“揺るがなさ”を。

 

それは、

才能だけでは届かない場所に思えた。

 

積み上げたものを、

全部支え切る器。

 

その異常さを、

炭治郎は今日初めて

はっきりと感じていた。

 

 

日が傾く頃。

 

炭治郎は、

ほとんど全身が重かった。

 

脚も。

 

肩も。

 

肺も。

 

全部が熱を持っている。

 

だが――

 

それ以上に残ったのは、

痛感だった。

 

足りない。

 

まだ、

足りない。

 

ここまで来てもなお、

その事実だけがはっきりしていた。

 

悲鳴嶼が、

静かに言う。

 

「今日はここまでだ」

 

短い。

 

だが、

炭治郎たちはすぐには動けない。

 

そんな隊士たちを見て、

悲鳴嶼は一拍だけ黙った。

 

それから、

低く深い声で言う。

 

「お前たちは、

確かに積み上げてきた」

 

炭治郎が、

顔を上げる。

 

「だが――」

 

数珠の音が、

静かに鳴る。

 

「極限では、

積み上げたものを支え切る器が要る」

 

その言葉が、

重く落ちる。

 

「技だけでは届かない」

 

「最後は、

身体と心と呼吸が

一つにならねばならん」

 

炭治郎の胸が、

強く鳴った。

 

その言葉は、

まるで今の自分へ

真っ直ぐ落とされたみたいだった。

 

悲鳴嶼は、

それ以上何も言わない。

 

だが、

その沈黙の方が

ずっと深く残る。

 

炭治郎は、

ゆっくりと拳を握った。

 

ここが最後だ。

 

ここを越えなければ、

先へは行けない。

 

そして――

 

この先にはきっと、

まだ自分の知らない

“強さの領域”がある。

 

炭治郎は、

静かに前を向いた。

 

 

第八十二話 終

 

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