ダサくて、弱くて、仲間に助けられながら紡ぐ英雄譚   作:すうがくだんご

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昔からある街

 

 パンの匂いが食堂に漂っていた。

 

 朝の光が窓から差し込み、テーブルの上を四角く照らしている。四人が同じテーブルに座っていた。アスとアテネが向かい合い、ミルとロイドがそれぞれの端に。いつの間にか定位置ができていた。

 

 アスがパンをちぎって口に入れた。焼きたてで、外が硬く中が柔らかい。宿の女将が毎朝焼く素朴なパン。何度も食べたはずなのに、今日は味がわかった。

 

「スープ、おかわりいりますか」

 

 アテネが聞いた。

 

「……いい、ありがとう」

 

「ロイドさんは」

 

 ロイドが茶碗を少しだけ前に出した。無言の肯定。アテネが微笑んで鍋に向かった。左わき腹の傷はもう痛まないらしい。動きが自然だった。

 

 ミルがメモ帳を開いていた。朝食の席で記録を取るのはいつものことだが、今日はペンが止まっている。パンをかじりながら、窓の外をぼんやり見ている。珍しい光景だった。

 

「今日、訓練は」

 

 アスが聞くと、ミルが視線を戻した。

 

「なし。アリアドネさんが来る予定もない。休みでいいと思う」

 

「休み」

 

 その言葉が新鮮だった。ここしばらく、休みという概念が生活から消えていた。魔界に行くか、訓練するか、情報を集めるか。それ以外の時間が存在しなかった。

 

 アテネがスープを持って戻ってきた。ロイドの前に置く。ロイドが小さく顎を引いた。アテネが頷き返した。それだけのやり取りだったが、数週間前にはなかった滑らかさがあった。

 

 四人で朝食を食べた。会話は多くなかった。けれど以前の沈黙とは質が違う。最初のころは言葉が見つからなくて黙っていた。今は、黙っていても問題ないから黙っている。

 

 食べ終わるころ、アテネが左わき腹をさすった。無意識の動作だった。

 

「痛むのか」

 

 ロイドが聞いた。珍しかった。ロイドから体調を気遣う言葉が出るのは。

 

「いいえ。もう全然。癖で触ってしまうだけです」

 

 アテネが笑った。四人の目が一瞬集まって、散った。傷は癒えた。完全に。それを全員が確認して、小さな安堵が食堂の空気に溶けた。

 

        *

 

 訓練のない一日は、妙に長かった。

 

 宿を出て、アスは街を歩いた。剣は腰にある。もう置いてはいない。けれど今日は振るう予定がない。手ぶらではないが、用事がない。

 

 市場を抜けた。再起の日に見た景色がそこにあった。子供が走り、老人が話し、パン屋に行列ができている。あの日と同じだ。同じだということが、嬉しかった。壊れていない。まだここにある。

 

 大通りを歩いていると、ミルが道の向こう側にいるのが見えた。一人ではなかった。クロがいた。

 

 二人は書店の前に立っていた。店先に並んだ古書を、並んで眺めている。クロが何かを指差し、ミルが首を振る。クロが別のを指差し、ミルがまた首を振る。三冊目でミルが手に取った。クロが笑い、ミルは笑わなかったが、手に取った本を戻さなかった。

 

 アスは声をかけずに通り過ぎた。邪魔をする気にならなかった。二人はあのまま、書店の前で情報を交換するのだろう。言葉は最小限で、けれど通じている。不思議な相性は最初から変わらない。

 

 路地を曲がったところで、人だかりが見えた。

 

 ロイドだった。

 

 子供たちに囲まれていた。五人ほどの子供が、ロイドの周囲をぐるぐると回っている。一人がロイドの脚にしがみつき、もう一人が大剣の鞘に触ろうとして背伸びしている。

 

 アスは足を止めた。

 

 ロイドは困っている——と思った。あの無口で無表情の獣人が、子供の群れに捕まっている。助けに行くべきかと思った瞬間、ロイドが動いた。

 

 しゃがんだ。

 

 膝を折り、子供たちの目線まで降りた。脚にしがみついていた子供を片手でそっと離し、大剣に触ろうとしていた子供には鞘の端を持たせた。口元が動いている。何かを話しかけている。声は聞こえないが、子供たちが笑った。

 

 アスは目を疑った。ロイドが子供と話している。あの、三語以上の文章を滅多に発しない男が。しかも子供が笑っている。怖がっていない。獣人の大きな身体と鋭い目を前にして、一人も泣いていない。

 

「……意外ですね」

 

 声が横から聞こえた。アテネだった。いつの間にか隣に立っている。

 

「いつからいたんですか」

 

「少し前から。買い物の帰りに見かけて」

 

 二人で路地の角から覗いている。ロイドは子供の一人を肩に乗せていた。子供が歓声を上げ、もう一人が「俺も」と手を伸ばしている。ロイドの口元が——笑っていた。ほんの僅かだが、確かに。

 

「家族がいたから」

 

 アテネが小さく言った。アスも同じことを思っていた。ロイドには兄弟がいた。近所の子供たちがいた。村があった。それを全て失って、一人で追い続けてきた。けれど身体は覚えている。子供との接し方を。家族の中にいた自分を。

 

 子供たちが走り去るのを見届けてから、ロイドが立ち上がった。こちらに気づいた気配があったが、視線を向けなかった。何も言わず歩き出した。見ていたことに気づいているが、触れないでくれと言っている。ロイドらしかった。

 

 アスとアテネは二人で歩き始めた。

 

 並んで通りを行く。午後の陽射しが石畳を温めていて、影が短い。風が穏やかで、遠くから楽器の音が聞こえた。どこかの酒場で演奏しているのだろう。

 

「アスさん」

 

「うん」

 

「あの……聞いてもいいですか」

 

 アテネの声が少し変わった。普段のおっとりとした調子に、僅かな遠慮が混じっている。

 

「アスさんが強くなりたい理由。守りたいから、って言ってましたけど。その……誰を、というのは——」

 

 アスの足が一瞬だけ遅くなった。

 

「……アイリスさん、ですか」

 

 心臓が跳ねた。名前を出されると思っていなかった。けれどアテネは勘のいい人だった。穏やかな顔の裏で、全部を見ている。

 

「……うん。あの人の隣に立ちたくて。最初はそれだけだった」

 

 口にしてしまうと、思ったより恥ずかしくなかった。アテネの前だからかもしれない。この人は嗤わない。茶化さない。ただ聞く。

 

「七歳のとき助けてもらって。それからずっと。でもただ隣に立ちたいだけじゃなくて、あの人が守ってるものを一緒に守りたいっていうか——うまく言えないけど」

 

 言葉が足りない自覚はあった。感情を正確に言語化する能力が自分にはない。けれどアテネは頷いていた。足りない言葉の隙間を、自分の想像で埋めてくれている。

 

「その人のために強くなりたいって、悪くないと思います」

 

 アテネが言った。静かな声だった。責めるでもなく、茶化すでもなく、ただそう思う、という温度。

 

「焦りで走ってしまったことは、もう終わったことです。でもその根っこにある気持ちは——私は、綺麗だと思います」

 

 アスは前を向いたまま歩いた。顔が熱い。耳まで赤くなっている自覚があった。綺麗だと言われた。自分の想いを。こんなふうに肯定されたのは初めてだった。

 

「……ありがとう」

 

「いいえ」

 

 アテネが微笑んだ。通りの向こうから、子供たちの歓声が聞こえた。

 

        *

 

「やあ」

 

 午後の遅い時間、空き地に戻ると、アリアドネがいた。

 

 休日だ。訓練の予定はない。それなのにいる。草の上にあぐらをかいて、野良猫を膝に乗せている。猫はアリアドネの手の上で丸くなり、目を閉じていた。

 

「休みじゃなかったんですか」

 

「暇だった」

 

 いつもの答え。けれど今日のアリアドネは、少し違った。道化の仮面が——薄い。完全に外れているわけではないが、厚みがない。素の顔が透けて見える。

 

 四人が集まった。いつの間にかアテネもミルもロイドもここにいた。休日なのに同じ場所に集まっている。約束はしていない。ただ足が向いた。それだけのことだった。

 

「散歩でもしようか」

 

 アリアドネが猫を下ろして立ち上がった。唐突だったが、誰も断らなかった。

 

 五人で街を歩いた。

 

 奇妙な光景だった。長身の赤髪の男と、剣を帯びた少年と、エルフの女と、小柄な少女と、大剣を背負った獣人が、連れ立って大通りを歩いている。すれ違う人々が二度見する。気にしなかった。

 

 アリアドネの歩き方が、普段と違った。いつもは目的地に向かって最短距離を行くか、あるいは意図的にふらふらと歩くか、どちらかだった。今日はゆっくりだった。通りの景色を見ている。露店の並びを眺め、路地の奥を覗き、壁に生えた蔦に指を触れた。

 

 どこか懐かしそうだった。

 

 市場を通り過ぎ、鍛冶通りを抜け、城壁の近くまで歩いた。結界の光が間近に見える場所。空の端で薄く揺れるあの光が、手を伸ばせば届きそうなほど近かった。

 

「アリアドネさん」

 

 アスが声をかけた。

 

「この街が好きなんですか」

 

 なぜそう聞いたのか、自分でもわからなかった。ただ、この人が街を見る目があまりにも柔らかくて、聞かずにいられなかった。

 

 アリアドネが足を止めた。

 

 城壁の上に視線を向けている。古い石壁。紋様が刻まれている。門に刻まれていたものと似た、古い文字。読める者がいるのか怪しいほど古い文字。

 

 間があった。風が吹いて、赤い髪が揺れた。

 

「昔からある街だから」

 

 それだけだった。

 

 短い答え。けれどその一言が含む時間の重さに、アスの胸が締まった。昔からある。アリアドネにとっての「昔」は、普通の人間の「昔」とは桁が違う。この街がいつからあるのか。アリアドネがこの街をいつから知っているのか。百年か。五百年か。千年か。

 

 聞けなかった。聞いてはいけない気がした。この人の中にある時間は、十七歳の自分が触れていいものではない。

 

 アリアドネが笑顔に戻った。いつもの笑み。道化の仮面が戻ってきた。けれど今日は、その仮面の下に何があるか、少しだけわかった気がした。

 

 この街を守りたいと思っている。

 

 千年分の記憶で、この街を知っている。この石壁を、この結界を、この通りを、ずっと見てきた。この人もまた——守りたい何かがある。約束。あの日呟いた、たった一語の理由。

 

        *

 

 夜、ギルドに寄った。

 

 報告の提出と情報確認のつもりだったが、ロビーで見知った顔と鉢合わせた。

 

「お」

 

 レイだった。カウンターで書類を受け取っているところだった。背後にクロとガルドとシアがいる。全員、装備を整えていた。日常の服装ではなく、戦闘用の装備。

 

「準備してるな」

 

 レイが振り返り、アスを見た。

 

「そっちもだろ」

 

 そうだった。四人とも、なんとなく察していた。休日は今日で終わりだと。明日から先は、次の戦いに向かう日々だと。

 

 自然な流れで八人がテーブルを囲んだ。ガルム戦以来の全員集合。酒場の喧騒の中で、声を潜めて話す。

 

 4層の話が出た。

 

 ミルとクロが持ち寄った情報を突き合わせた。4層は3層よりさらにデータが少ない。到達した記録自体がほとんどない。わかっているのは、強化悪魔の密度がさらに上がること。そして——ロイドが追っている堕天使の気配が、4層の深部から来ていること。

 

「一緒に行こう」

 

 レイが言った。回りくどい前置きはなかった。

 

「4層に四人で行くのは無謀だ。八人でも厳しいかもしれない。でも四人よりはマシだ」

 

 アスはレイを見た。ガルム戦のとき、この男と主導権を巡って張り合ったことを思い出した。あのときの二人は噛み合わなかった。今は違う。噛み合うとか合わないとかいう段階を、とっくに越えている。信頼がある。

 

「頼む」

 

 アスが言った。短く。それだけで十分だった。

 

 ミルとクロが地図を広げ、情報のすり合わせを始めた。二人のサポーターの目が輝いている。情報量が倍になる瞬間が、この二人にとっては武器が倍になることと同義だった。

 

 シアがアテネの隣に座っていた。二人のエルフの後衛が、小声で何かを話している。シアの表情が柔らかい。以前はアテネに対しても素っ気なかったはずだが、ガルム戦を経て何かが変わったのだろう。

 

 ガルドとロイドは壁際に並んで立っていた。どちらも無言。腕を組んで、テーブルの上の地図を見ている。言葉を交わさなくても、この二人の間には通じるものがあった。盾役と前衛。守る者同士の、無言の共感。

 

 テーブルの話がまとまったころ、ロイドが口を開いた。

 

「次は逃げない」

 

 前にも聞いた言葉だった。3層から撤退したあとの夕暮れに、小さく呟いた言葉。けれど今日の声は違った。あのときより太く、あのときより深い。独り言ではなかった。七人に向けて言っていた。

 

 四人が頷いた。アス、アテネ、ミル。そして——レイが。クロが。シアが。ガルドが。

 

 八人が頷いた。

 

        *

 

 翌朝。

 

 門の前に八人が立っていた。

 

 朝の光が鉄の門を照らしている。古い紋様が白く浮かび上がり、結界の魔力が薄く脈動している。門の向こうは暗い。いつもと同じ暗さ。けれどその先にあるものを、今は全員が知っている。

 

 アスは剣の柄に手を置いた。アイリスの剣。ガルムの素材で強化された刃。握る手に力が入りすぎていないことを確認した。ちょうどいい。焦りではなく覚悟が、手のひらに馴染んでいる。

 

 隣にアテネがいた。腕輪が朝の光を受けて静かに光っている。

 

 反対側にミルがいた。メモ帳を胸に抱え、聴音器を首にかけている。

 

 前方にロイドがいた。大剣を背に負い、金色の瞳が門の向こうを見据えている。

 

 その隣にレイが並んでいた。片目の傷跡。揺るがない目。

 

 後方にシアとクロとガルドが控えていた。それぞれの武器を手に、それぞれの覚悟を胸に。

 

 門が開いた。

 

 守るために行く。

 

 アスはその一歩を、静かに踏み出した。

 

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