ダサくて、弱くて、仲間に助けられながら紡ぐ英雄譚   作:すうがくだんご

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決着

 

 堕天使が立ち直った。

 

 左肩を押さえていた手が離れ、白濁した目がこちらを見据えた。核に傷を受けた衝撃から回復している。完全ではない。左肩からまだ黒い体液が滲み、腐食した翼の動きが鈍い。けれど立っている。立って、こちらを見ている。

 

 四人も立っていた。立っているのがやっとだった。ロイドの身体は打撲の跡だらけで、大剣を握る腕が微かに震えている。アスの背中には骨片が刺さった傷が熱を持ち、呼吸のたびに痛みが走った。アテネの魔力は残り僅かで、腕輪の光が蝋燭の炎のように頼りなく揺れている。ミルは走り続けた足がもつれかけていたが、それでも目だけは闇を読み続けていた。

 

 限界に近い。全員が。

 

 それでも前を向いていた。

 

 堕天使が口を開いた。

 

「ルシファーは止められない」

 

 声に嘲笑はなかった。勝ち誇ってもいなかった。ただ事実を述べている。自分を倒したところで何も変わらないと。その先にいる者の力は、お前たちの想像を超えていると。

 

「私はルシファーの配下の一人に過ぎない。私を倒せたとして、それが何になる。第七層の底で目覚めつつある力は——この世界の全てを呑み込む」

 

 言葉が闇に沈んでいく。四人の胸に、石のように落ちていく。嘘ではないとわかった。堕天使は嘘をつかないと言った。選択を奪われた者が語る事実には、嘘が入り込む余地がない。

 

 ルシファー。大罪の悪魔。第七層の底にいる存在。堕天使を生み出し、悪魔を強化し、結界を脅かし、世界を終わらせようとしているもの。

 

 その前に、目の前の存在すら倒しきれていない。

 

 沈黙が重かった。四人の呼吸だけが暗闇に落ちている。

 

「それはお前が心配することじゃない」

 

 ロイドの声だった。

 

 静かだった。さっきまでの震えがなかった。怒りも、悲しみも、感情の波が凪いでいる。何年も追い続けて、ようやくここに立って、家族の話を聞かされて、揺さぶられて、それでも——今のロイドは穏やかだった。

 

「お前を終わらせる。それだけだ。その先のことは、俺たちが考える」

 

 俺たち。

 

 一人ではなく。

 

 堕天使の白濁した目が、僅かに揺れた。

 

「ミル」

 

 アスが振り返った。ミルが闇の中に立っている。膝が震えている。それでも目が生きていた。

 

「最後の指示を」

 

「——核の位置は変わってない。左肩の奥。さっきの傷がまだ塞がってない。防壁も完全じゃない。今なら正面突破でも届く可能性がある」

 

 ミルの声が途切れた。息を吸った。最後の力を振り絞るように。

 

「ロイドさんとアスさんが同時に左肩を突く。一人では防げても二人なら——防壁の処理が追いつかない。アテネさん」

 

「はい」

 

「残りの魔力、全部使ってください。二人に。最後の一撃分だけ」

 

 アテネが頷いた。迷いはなかった。全魔力を使い切る。あとは何も残らない。回復もできない。この一撃で終わらなければ、四人とも——

 

 考えなかった。考える必要がなかった。ここで全部を出す。それだけだ。

 

 アテネの両手が光った。残り全て。腕輪が白く燃え上がるように輝き、光が二筋に分かれてアスとロイドに向かった。身体に流れ込む。温かい。アテネの全部が、この温もりに詰まっている。里のために外に出た覚悟。仲間のために魔力を使い切る決断。あの穏やかな笑顔の裏にある芯の強さ。

 

 アスの身体が軽くなった。痛みが引いた。力が戻った。一時的な。借り物の。けれど十分な力。

 

 隣でロイドも同じものを受けていた。大剣を構え直す腕から震えが消えている。

 

 アスは剣を握った。

 

 守りたい。

 

 その想いが、今ここにあった。思い出すのではなく、在った。ロイドの背中。アテネの光。ミルの声。レイたちが大群を抑えている、今この瞬間も。子供が走る市場。日向で茶を飲む老人。パンの匂いが漂う通り。アイリスが守っている世界。その全部が、手のひらの中にあった。

 

 白銀の光が、刃に灯った。

 

 ナイトブロウ。

 

 意識していなかった。出そうとしていなかった。守りたいという意志が現在にあるとき、自然に表に出てくる。アリアドネが言った通りだった。炎とは違う光。静かで、鋭く、深い場所から溢れる力。

 

 刃全体が白銀に輝いた。闇を切り裂くように。4層の光を殺す暗闇の中で、その光だけが消えなかった。

 

「——行くぞ」

 

 ロイドが言った。アスが頷いた。

 

 二人が同時に踏み込んだ。

 

 ロイドは正面から。大剣を渾身の力で振り上げ、堕天使の左肩目がけて叩き下ろす。堕天使の防壁が反応した。正面からの攻撃を遮ろうと魔力が集中する。

 

 アスは左から。半歩遅れて。ロイドの一撃に防壁が集中したその瞬間、横から白銀の刃を突き入れた。

 

 防壁が処理しきれなかった。

 

 二方向からの同時攻撃。ロイドの大剣が防壁の正面を叩き割り、アスのナイトブロウが側面から防壁を貫いた。二つの刃が、堕天使の左肩に同時に到達した。

 

 核に——届いた。

 

 ロイドの大剣が核の表面を砕いた。先の戦いで入った亀裂が広がり、赤い光が噴き出した。アスの白銀の刃がその亀裂に滑り込み、核の内部に炎ではない力を注ぎ込んだ。

 

 光が弾けた。

 

 赤い光と白銀の光が混じり合い、堕天使の体内で爆発した。衝撃波がアスとロイドを吹き飛ばし、二人とも地面を転がった。

 

 堕天使が叫んだ。

 

 声ではなかった。音ではなかった。存在そのものが軋む音。核が砕けていく音。腐食した翼が一枚一枚散っていく。黒い羽が闇の中に溶けるように消えていく。

 

 堕天使の身体が傾いた。膝が折れた。地面に手をついた。白濁した目がロイドを見ていた。

 

「……ロイド」

 

 声が変わっていた。先ほどまでの冷たい声ではなかった。もっと——人間に近い声。堕ちる前の声が、最後の瞬間に戻ってきたのかもしれない。

 

「すまなかった」

 

 それだけだった。

 

 堕天使の身体が光に変わった。黒い体躯が内側から白く燃え上がり、形を失っていく。翼の残骸が光の粒になって散り、長い腕が、細い胴が、白濁した目が——消えていった。

 

 最後に残ったのは、微かな白い光の粒だった。かつて白かった翼の名残。それが、数秒だけ闇の中に漂い、やがて消えた。

 

 静寂が戻った。

 

 完全な静寂。4層の闇が、全てを呑み込んだ後の空白。

 

        *

 

 ロイドが膝をついていた。

 

 大剣が手から離れ、地面に横たわっている。両手を膝の上に置き、頭を垂れている。肩が動いていた。呼吸なのか、それとも——

 

 泣いてはいなかった。

 

 目を閉じていた。静かに。力が全部抜けた顔をしていた。追い続けてきた何年分もの緊張が解け、その跡が顔に残っている。怒りの跡。悲しみの跡。執念の跡。その全部が、今はただの疲労として表面に浮かんでいた。

 

 アスは何も言わなかった。近づきもしなかった。今この瞬間は、ロイドのものだった。家族を奪った存在を終わらせた。「すまなかった」という言葉を聞いた。それを消化する時間は、誰にも邪魔されるべきではなかった。

 

 四人が地面に座り込んだ。崩れ落ちるように。

 

 アスは仰向けに転がった。暗い天井——天井があるのかすらわからない闇を見上げた。全身が重い。指一本動かすのも億劫だった。アテネの支援が切れた今、疲労の全てが一気に押し寄せてきている。

 

 アテネが横で膝を折っていた。目を閉じ、壁にもたれるように身体を預けている。壁はないのに。ただ、もう姿勢を維持する力がなかった。腕輪の光は完全に消えていた。魔力が空だ。

 

 ミルが座り込んで膝を抱えていた。メモ帳は閉じたまま。目も閉じている。分析を止めた頭が、ようやく休息を求めていた。

 

 達成感があった。堕天使を倒した。ロイドの因縁を終わらせた。四人で。

 

 同時に、限界だった。体力も魔力も残っていない。武器を持ち上げる力もない。ここは4層の深部。門までの距離は、途方もなく遠い。

 

 静寂の中で、アスの耳が音を拾った。

 

 音のないはずの4層で。何かが——聞こえた。

 

 足音ではなかった。気配でもなかった。振動。地面を通じて伝わってくる、微かな震え。規則的ではない。不規則に、けれど確実に近づいてくる。

 

「……何か来る」

 

 ミルが目を開けた。疲労の底から、分析の目が戻っている。身体は動かない。けれど頭だけが再起動していた。

 

「多い。四方向。——速い」

 

 四人が顔を見合わせた。

 

 堕天使の消滅で、この領域の均衡が崩れたのだ。堕天使が支配していたこの一帯の悪魔たちが、主を失って統制を失った。獣が檻から解き放たれたように、四方八方に散り始めている。その一部がこちらに向かっている。

 

 赤い目が灯った。

 

 闇の中に。一つ。三つ。七つ。十を超えた。四人を取り囲むように、赤い光点が円を描いている。

 

 アスは起き上がろうとした。身体が動かなかった。腕に力を入れても、地面から身体を持ち上げられない。剣は手の中にある。握ってはいる。けれど振れない。

 

 隣でロイドが大剣に手を伸ばした。届いた。柄を掴んだ。けれど持ち上がらない。腕が震えるだけで、刃は地面から離れなかった。

 

 アテネが掌を前に出した。光がない。魔力が空だ。何も出ない。それでも手を出した。それしかできることがなかった。

 

 ミルが四人の中央で膝を抱えていた。声すら出ない。指示を出すべき口が、動かない。

 

 悪魔たちが近づいてきた。赤い目が迫る。体躯が闇の中に浮かび上がり始めた。一体一体が強化個体。再生能力を持つ、4層の悪魔。それが十体以上。

 

 終わりが見えた。

 

 アスの目の前で、最も近い悪魔が口を開いた。牙が並んでいる。数歩の距離。飛びかかれば届く。

 

 ——守れなかった。

 

 その言葉が胸を過った。堕天使は倒せた。ロイドの因縁は終わらせた。でも——ここで全員死んだら、何の意味もない。守りたかった。この仲間を。でも身体が動かない。声も出ない。何もできない。

 

 七歳のあの日と同じだ。地面に倒れて、動けなくて、何もできなかった。また同じだ。

 

 悪魔が跳んだ。

 

 光が来た。

 

 真横から。灼熱の光条が悪魔の身体を貫き、吹き飛ばした。一体ではない。光は扇状に広がり、アスたちを囲んでいた悪魔の半数を一瞬で薙ぎ払った。

 

 衝撃波が遅れて来た。風が頬を叩き、地面の骨片が舞い上がった。残った悪魔たちが怯んで後退した。光に焼かれた仲間の残骸を見て、本能的に。

 

 光の残滓が闇に散っていく。白と金を混ぜたような、温かい光。

 

 人影が立っていた。

 

 四人の前方、十歩ほどの距離。闇の中に、一人。

 

 シルエットだけが見えた。長身。広い肩幅。片手に武器を持っている。もう片方の手から、さっきの光の名残が漏れていた。

 

 圧倒的だった。

 

 ロイドが強い。アリアドネが底知れない。堕天使が異次元だった。その全てを知った上で——今、目の前に立っている存在は、それらとは別の格にあった。立っているだけで空気が変わっている。4層の暗闇が、この人物の周囲だけ薄くなっていた。闇を押し退けている。存在そのもので。

 

 残った悪魔たちが後退していた。逃げ始めた個体もいた。さっきまで四人を取り囲んで牙を剥いていた強化悪魔たちが、この一人の存在を前にして——怯えている。

 

 人影が振り返った。

 

 顔は見えなかった。闇と光の境目に立っているせいで、輪郭だけが浮かんでいる。

 

 声が聞こえた。

 

「生きてるか」

 

 低い声だった。けれど冷たくはなかった。確認の声。ロイドが2層で四人に聞いたのと同じ種類の問いかけ。生存確認。

 

 アスは答えようとした。声が出なかった。喉がつかえている。疲労のせいか。それとも——今、目の前にいるものの重さに、言葉が追いつかないのか。

 

 7英雄。

 

 その二文字が頭に浮かんだ。根拠はなかった。この人物が名乗ったわけでもない。けれど身体が知っていた。あの光の質。あの存在感。人間が到達し得る力の頂点。結界を守り、悪魔を退け、世界を支えている七つの柱。

 

 そのうちの一人が——今、ここにいる。

 

 四人が見上げていた。地面に座り込んだまま、倒れたまま、膝を抱えたまま。ただ見上げていた。

 

 闇の中に立つ、光を纏った人影を。

 

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