ダサくて、弱くて、仲間に助けられながら紡ぐ英雄譚   作:すうがくだんご

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亀裂

 

 

 暖炉の炎が穏やかに揺れていた。

 

 バッシュの書斎で、四人は4層での出来事を話した。堕天使との遭遇。ロイドの因縁。核の位置を見つけた経緯。そして決着。

 

 バッシュは椅子に深く座ったまま、黙って聞いていた。質問はしなかった。詳細を求めもしなかった。ただ、四人の言葉を一つずつ受け止めるように、時折小さく顎を引いた。

 

 ロイドが堕天使の最後の言葉について話したとき——「すまなかった」と言ったこと——バッシュの目が一瞬だけ動いた。暖炉の炎を見た。すぐに戻った。それだけだった。

 

 報告が終わると、しばらく沈黙があった。暖炉の薪が爆ぜる音だけが部屋に響いていた。

 

「わかった」

 

 バッシュが言った。それだけだった。良くやった、とも、大変だったな、とも言わない。ただ事実を受け取った。それがこの男の流儀なのだろう。

 

        *

 

 翌朝、四人はバッシュの屋敷を出た。

 

 数日の滞在で全員の傷はほぼ癒え、魔力も戻っていた。この屋敷の空気自体に回復を促す力があったのか、それともバッシュが何かしていたのか。聞いても答えは返ってこないだろうと思い、聞かなかった。

 

 玄関の石段で、バッシュが見送った。大きな身体が扉の枠に収まりきらず、少し横にずれて立っている。朝の光を背に受けて、浅黒い顔に影ができていた。

 

「また会う」

 

 それだけ言った。手も振らなかった。大きな背中が扉の向こうに消えて、重い木の扉が閉まった。

 

 四人が石段を下りた。バッシュの屋敷は街の外れの丘の上にあった。石畳の道が丘を下り、街の北門へと続いている。朝の風が草原を渡って頬を撫でた。

 

「ロイド」

 

 アスが隣を歩く獣人に声をかけた。

 

「どうだ。少しは楽になったか」

 

 直接的な聞き方だった。けれど今のロイドには、回りくどい聞き方より合っている気がした。

 

 ロイドは少し歩いてから答えた。

 

「わからない。まだ」

 

 正直だった。何年も追い続けた相手を倒して、それで全部が消えるわけではない。家族は戻らない。村は戻らない。けれど——

 

「ただ、少し軽い」

 

 小さな声だった。足取りが、確かにいつもより軽かった。大剣を背負った大きな身体が、地面を踏む音が違う。背負っていたものの一部が、4層の闇に置いてきたのかもしれない。

 

 アテネが微笑んだ。ミルは何も言わなかったが、メモ帳をしまったまま歩いていた。記録ではなく、この時間を味わっている。珍しいことだった。

 

 丘を下りきると、街の北門が見えてきた。

 

 アスは最初、何かがおかしいと思った。感覚的なものだった。街の方角から聞こえてくる音が、いつもと違う。朝の市場の喧騒ではない。もっと鋭い。もっと慌ただしい。

 

 北門に近づくにつれて、人の動きが変わっていった。門を出入りする人間が多い。それも冒険者ではなく、一般の住人たちだった。荷物を抱えた女。子供の手を引いた男。顔が強張っている。足が速い。目的地に急いでいるのではなく、何かから逃げているような動きだった。

 

「……何か起きてる」

 

 ミルが呟いた。聴音器を取り出し、耳に当てた。街の方角に向ける。数秒聞いて、眉を寄せた。

 

「声が多すぎる。通常の朝の十倍は人が動いてる」

 

 四人の足が速くなった。北門をくぐり、街の中に入った。

 

 大通りの空気が違った。

 

 市場は開いていなかった。露店の半分以上が畳まれている。代わりに人だかりができていた。ギルドの方向に向かって、人の流れが集中している。冒険者も、一般の住人も、同じ方向に歩いている。顔が険しい。不安が足取りに出ている。

 

 すれ違った冒険者をアスが呼び止めた。

 

「何があったんですか」

 

 男が振り返った。見知らぬ顔だったが、アスの装備を見て同業者だと判断したらしい。声を潜めて言った。

 

「結界だ。北側に亀裂が入ったって話だ」

 

 結界。この街を守っている光の膜。悪魔の侵入を遮る、世界の壁。

 

「亀裂——?」

 

「昨日の夕方から。ギルドが確認して、今朝から情報が出回り始めた。まだ小さいらしいけど——」

 

 男は言葉を切った。それ以上は知らないのか、あるいは口にするのが怖いのか。足早に去っていった。

 

 四人が顔を見合わせた。結界に亀裂。それが何を意味するか、全員がわかっていた。

 

        *

 

 ギルドのロビーは、これまで見た中で最も混乱していた。

 

 カウンターに人が押し寄せ、職員が怒声混じりに対応している。掲示板の前には身動きが取れないほどの人だかり。壁に貼り出された告知が何枚も増えている。走り回る職員の足音が石の床に反響し、会議室の扉が何度も開閉されている。

 

 職員の顔が険しかった。普段のギルドには、忙しくても余裕がある。冒険者の出入りを裁き、報告を処理し、情報を管理する——日常業務の範疇。今はその日常が崩れている。目の下に隈がある職員がいた。昨夜から寝ていないのだろう。

 

 四人がカウンターに近づくと、顔見知りの職員が気づいた。

 

「あなたたちは——4層に入ったパーティーの」

 

「帰ってきました。それより、結界のことは」

 

 職員は一瞬ためらい、それから声を落として言った。

 

「北側の結界に、異常が確認されました。亀裂というほどのものではありません。正確には、結界を構成する魔力の流れに乱れが生じています。原因は——不明です」

 

 原因不明。

 

 けれどアスの胸の中で、答えは静かに浮かんでいた。

 

 ルシファー。

 

 堕天使が言った。「ルシファーは止められない」と。第七層の底で力を取り戻しつつある大罪の悪魔。その影響が悪魔を強化し、群れを押し上げ、層の均衡を崩してきた。そして今——結界にまで届き始めた。

 

 根拠と呼べるものはなかった。理屈で繋がっているわけではなかった。けれど確信に近いものがあった。横を見ると、ミルが目を細くしていた。同じことを考えている顔だった。

 

 ギルドを出た。

 

 大通りに戻ると、街の様子が目に入った。さっきまで人だかりだった場所が、少し空いている。情報を聞いた人々が、それぞれの家に戻り始めている。けれど空気は軽くなっていない。むしろ、情報を得たことで不安が形を持ったように見えた。

 

 子供を抱えた女が足早に通り過ぎた。子供は母親の首にしがみつき、通りの向こうを不安そうに見ている。何が起きているかわからないまま、母親の緊張だけを感じ取っている。

 

 老人が路地の角に座っていた。いつもの場所だ。茶を飲む老人。けれど今日は茶碗が膝の上に置かれたまま、空を見ている。結界がある方角を。

 

 パン屋の前に行列はなかった。店自体が閉まっていた。

 

 アスは通りの真ん中で立ち止まった。

 

 この景色が揺らいでいる。子供が走り、老人が笑い、パンの匂いが漂う——あの日常が。守りたいと思ったものが。まだ壊れてはいない。まだここにある。けれど地面の下で、何かが軋んでいる音が聞こえる。

 

 焦りではなかった。あのころの焦りは、もうない。代わりにあったのは——覚悟だった。この景色が壊されるかもしれない。自分の手が届かないところで、世界が変わろうとしている。それでも、守る。守れるだけのものを守る。足元にあるものから。

 

「7英雄が動いてるらしい」

 

 通りを歩いていた冒険者の声が聞こえた。

 

「結界の修復に向かってるって。アイリスもリーファもナーバスも、全員集められたって話だ」

 

 アイリスの名前が耳に入った。

 

 心臓が跳ねた。いつものように。けれどそのあとに続く感情が、以前とは違った。焦りではない。「追いつけない」という距離感でもない。ただ——あの人もまた、同じものを守ろうとしている。自分と同じものを。

 

 それが今は、痛みではなく力になった。

 

「アス」

 

 声が降ってきた。

 

 見上げた。建物の屋根の上に、赤い髪が揺れていた。

 

 アリアドネだった。屋根の縁に腰掛けて、足をぶらぶらさせている。いつもの登場だった。いつの間にかそこにいて、上から見下ろしている。

 

 けれど今日は笑っていなかった。

 

 街の様子を見ていた。慌ただしい通り。不安な顔をした人々。閉まった店。走る子供を抱えた母親。その全部を、赤い髪の人が屋根の上から見ている。

 

 アリアドネが飛び降りた。音もなく着地し、四人の前に立った。

 

「始まったな」

 

 小さな声だった。独り言のようでもあり、四人に向けた言葉でもあった。いつもの軽さがない。道化の仮面が——今日は最初から外れていた。

 

「結界の異常のこと、知ってたんですか」

 

「知っていたかどうかは関係ない。起きてしまったことが全てだ」

 

 はぐらかしたのか、正直に答えたのか。どちらとも取れる言い方。けれどアリアドネの目は街を見ていた。「昔からある街だから」と言ったあの目で。千年分の何かが宿った目で。

 

「お前たちが強くなる時間が短くなった」

 

 淡々と言った。声に感情がなかった。事実を述べている。計算結果を読み上げるように。

 

 けれど目が違った。いつもの底の見えない目ではなく、もっと——近い目。焦りとは違うが、切迫した何か。この人が感情を見せるのは、本当に限られた瞬間だけだ。そしてその瞬間が来ている。

 

「短くなったって、どれくらい」

 

「わからない。けれど長くはない」

 

 それ以上は言わなかった。アリアドネが空を見上げた。青い空。雲が流れている。けれどその空の端——北の方角に、何かが見えた。

 

 光だった。

 

 結界の光とは違う。もっと鋭く、もっと不安定な光。明滅している。点いたり消えたりを繰り返している。遠くて小さい。けれど確かにそこにある。結界の一部が、揺らいでいる。

 

 亀裂。

 

 あそこだ。あそこで結界が軋んでいる。英雄たちが今向かっているのはあの場所だ。アイリスが。光を操る英雄が。

 

 アスは剣の柄を握った。

 

 手に力は入りすぎていない。焦りではない。覚悟が、掌に馴染んでいる。

 

 世界が動いている。今度は——自分たちの足元で。遠い魔界の話ではない。この街の、この結界の、この空の下で。

 

 侵食が、始まろうとしていた。

 

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