ダサくて、弱くて、仲間に助けられながら紡ぐ英雄譚   作:すうがくだんご

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壊れた日常

 

 それは朝の鐘と同時に来た。

 

 ギルドのロビーに掲示された告知が、一時間ごとに更新されていた。結界北側の異常、拡大中。魔力の乱れが断続的に発生。原因調査中。文面は冷静だったが、告知を貼り替える職員の手が震えていた。

 

 アスたち四人はギルドにいた。昨日バッシュの屋敷から戻って以来、ここを離れていない。街の空気が変わっていた。市場は閉まり、通りの人影は少なく、窓を閉め切った家が増えている。結界に亀裂が入ったという情報が、一晩で街の隅々まで浸透していた。

 

 ロビーに冒険者が集まり始めていた。武装した者たちが、三人、五人と門の方からやってくる。普段は依頼掲示板の前でたむろしている連中が、今日は全員の顔が引き締まっていた。何が起きるかわからない。けれど何か起きたときに動けるよう、ここに集まっている。

 

 ロビーの奥の扉が開いた。

 

 空気が変わった。集まっていた冒険者たちの視線が、一斉にそちらに向いた。

 

 人が出てきた。一人ではない。複数。装備の格が違った。冒険者とは別の次元の武装。そして纏っている空気が、一人一人、部屋の温度を変えるほどに重かった。

 

 7英雄だった。

 

 先頭にいたのはアイリスだった。白い外套。金色の髪。青い瞳が真っ直ぐ前を見ている。その隣にバッシュ。黒髪の巨体が廊下を埋めている。さらに後ろに——アスの知らない顔が三つ。風のように軽い足取りの女。闇を纏ったような黒衣の男。白銀の髪をした寡黙な人物。リーファ、ナーバス、クール。名前と属性はロイドから聞いていた。実物を見るのは初めてだった。

 

 五人だった。七人ではない。アーサーとロキの姿はなかった。

 

 英雄たちが廊下を歩くだけで、ロビーの冒険者たちが道を開けた。誰も口を開かなかった。英雄たちの表情が、言葉を不要にしていた。全員の顔が——戦場に向かう者の顔だった。

 

 バッシュの視線がロビーを走り、アスたちを見つけた。足を止めた。他の英雄たちが先に進んでいく中で、バッシュだけが立ち止まった。

 

「街の人を守れ」

 

 短かった。それだけだった。命令でも依頼でもない。ただの言葉。けれどバッシュの目が言っていた。前線は英雄が受け持つ。お前たちには別の役割がある、と。

 

 アスは頷いた。

 

 バッシュが歩き出した。英雄たちの背中が門の方へ消えていく。アイリスの金色の髪が揺れて、外套の裾が翻って——視界から消えた。

 

 追いかけたいとは思わなかった。隣に立ちたいという気持ちは消えていない。けれど今は、自分にやるべきことがある。アイリスが前線に立つなら、自分はここに立つ。同じものを守るために、別の場所で。

 

        *

 

 轟音が来たのは、それから二十分後だった。

 

 音ではなかった。音に先立つ衝撃。地面が跳ね、壁が軋み、天井から埃が降った。ギルドのロビーにいた全員がよろめき、数人が膝をついた。

 

 そして音が来た。

 

 ガラスが砕けるような、けれどもっと巨大な音。世界の壁が割れる音。空気そのものが引き裂かれる音。耳の奥が痺れ、一瞬だけ全ての音が消えた。

 

 窓の外を見た。

 

 北の空が光っていた。結界の光ではない。結界が——壊れる光だった。あの薄い光の膜が、北側の一角で砕けていく。光の破片が宙に散り、花火のように夜空に——昼なのに、あの場所だけ夜のように暗くなっていた。

 

 結界が、割れた。

 

 ロビーが静まり返った。全員が窓の外を見ていた。誰も動けなかった。誰も声を出せなかった。この街を守ってきた壁が、目の前で崩れていく。それを見ていることしかできなかった。

 

 悲鳴が聞こえた。

 

 外から。窓の向こうから。結界が割れた方角から、人の声が押し寄せてきた。一人ではない。何十人もの悲鳴が重なって、一つの波になって街を走ってくる。

 

「来る」

 

 ロイドが言った。低い声だった。獣人の耳が、人間には聞こえないものを拾っている。

 

「悪魔だ。結界の裂け目から流れ込んでくる」

 

 アスは剣を抜いた。迷いはなかった。

 

「行こう」

 

 四人がギルドを飛び出した。

 

        *

 

 街が、壊れかけていた。

 

 北側の大通りに出た瞬間、景色が変わっていた。人が走っていた。南に向かって。結界が割れた北側から逃げている。老人が。子供が。荷物を抱えた女が。全員が同じ方向に走っている。顔が歪んでいる。恐怖で。

 

 その流れに逆らって、四人は北へ走った。

 

 悪魔が見えた。

 

 結界の裂け目から、黒い影が流れ込んできている。一体ではない。十体。二十体。数えきれない。強化悪魔だった。再生能力を持つ、底上げされた個体。それが、街の中に。人々が暮らす通りに。

 

 子供が泣いていた。

 

 路地の角で、一人の子供が座り込んでいた。三歳か四歳か。母親とはぐれたのだろう。大きな目から涙が流れ、口を開けて泣いている。周りに大人はいない。全員が逃げていった。

 

 悪魔が一体、その路地に入りかけていた。

 

 アスが走った。考える前に。判断より先に身体が動いた。けれど焦りではなかった。冷静だった。足元を見ている。呼吸を整えている。必要な速度で、必要な方向に走っている。

 

 剣を振った。炎が走った。悪魔の前足を斬り、よろめかせた。振り返った悪魔の顔面に二撃目を叩き込む。核を狙う余裕はない。時間を稼ぐだけでいい。子供を連れ出す時間を。

 

「アテネ!」

 

 叫ぶ前にアテネは動いていた。路地に駆け込み、子供を抱き上げた。腕輪の光が子供を包む。傷はないが怯えている。アテネが子供を胸に抱え、南へ走る大人たちの流れに合流した。

 

 ロイドが来た。アスの横に並び、大剣で悪魔を叩き斬った。核ではない。けれどダメージで動きが鈍る。再生が始まる前に、アスが炎で焼く。再生を遅延させる。その間にロイドがもう一撃。

 

「核は腹部の右側」

 

 ミルの声が飛んだ。どこにいる。姿が見えない。けれど声は正確だった。建物の二階の窓から見下ろしていた。高所から全体を俯瞰し、悪魔の動きと構造を分析している。

 

 アスが炎を最大にして腹部の右側を抉った。核が見えた。ロイドが大剣を突き入れ、核を砕いた。悪魔が崩れ落ちた。

 

 一体。

 

 振り返ると、通りの向こうに十体以上の影が見えた。

 

 次々と来る。結界の裂け目は開いたままだ。流れ込みが止まらない。一体倒す間に二体が通りに入ってくる。四人では——

 

「手が足りないだろ」

 

 声が横から飛んだ。

 

 レイだった。

 

 剣を抜いて走ってきた。その後ろにクロ、シア、ガルド。四人が大通りの向こう側から合流してきた。全員が武装している。全員の顔が据わっている。

 

「いつから」

 

「結界が割れた瞬間から走ってきた。ギルドで鉢合わせ損なったけど、お前たちが北に行くのは見えた」

 

 レイが笑った。場違いな笑みだった。けれどその笑みが、アスの胸に力をくれた。

 

 八人になった。

 

 ロイドとガルドが前線に立ち、レイとアスが左右を固めた。シアとアテネが後方から支援と攻撃を分担し、ミルとクロが高所と地上に分かれて全体を見渡した。ガルム戦と同じ布陣。けれど今は街の中だ。背後に逃げる人々がいる。退路がない。退くわけにいかない。

 

 強化悪魔の波が押し寄せた。

 

 八人が迎え撃った。通りの幅いっぱいに展開し、壁のように立ちはだかる。一体が来れば斬り、二体が来れば挟み、三体が来れば分断して各個撃破する。核を壊さなければ倒せない。けれど八人なら回せる。一人が弱点を見つけ、一人が隙を作り、一人が核を砕く。その循環を途切れさせない。

 

 五体を倒した。十体を倒した。けれどまだ来る。裂け目が開いている限り、終わらない。

 

 遠くで光が見えた。

 

 北の空の、さらに向こう。結界の裂け目の近く。複数の光が交差していた。白い光。赤い光。青い光。風が渦巻いている。闇が蠢いている。

 

 英雄たちが戦っている。

 

 結界の裂け目から流れ込んでくるのは、末端の悪魔だけではなかった。堕天使。ロイドが倒したものと同じか、それ以上の存在が、裂け目から入ろうとしている。英雄たちが、それを止めている。

 

 街全体が戦場になっていた。

 

 八人が通りを守り、英雄たちが裂け目を守り、その間を縫って人々が逃げている。どこもかしこも戦いと悲鳴と光と闇が入り混じっている。

 

 守り切れなかった場所があった。

 

 東の通りから煙が上がった。建物が崩れた音が響いた。悲鳴が——途中で止まった。止まったということは。

 

 アスの目がそちらを向いた。見えた。崩れた建物の下敷きになった人影。動いていない。もう動かない。

 

 間に合わなかった。

 

 この八人が北の通りを守っている間に、東では守れなかった。人が死んだ。守りたかった人が。名前も知らない人が。この街に暮らし、日常を生き、結界に守られてきた人が。

 

 胸が軋んだ。悔しさが来た。怒りが来た。自分がもっと速ければ。自分がもっと多くの場所にいられれば。——違う。それは焦りだ。それに飲まれたら、また判断を誤る。

 

 アスは前を向いた。

 

 守れなかった命がある。その事実は消えない。消えないまま、まだ守れる命を守る。足元にあるものを。目の前にいる人を。今この瞬間に手が届くものを。それだけを考える。

 

 剣を振った。炎が走った。目の前の悪魔を斬った。次の一体。また次。足は止めない。止めたら、もっと多くが失われる。

 

 二十体を超えたあたりで、波が止まった。

 

 突然だった。押し寄せてきた悪魔たちが、足を止めた。後退し始めた。逃げているのではない。何かに呼ばれている。裂け目の方角に引き戻されていくように、一斉に北へ向かっていく。

 

 八人が息を整えた。全員が消耗している。レイの額から血が流れ、シアの魔力は底に近い。クロが壁にもたれかかり、ガルドが盾を地面に置いた。アテネの腕輪が消えかけていた。ミルが二階から降りてきて、膝をついた。ロイドだけが立ったまま、北を見ていた。

 

「止まった——けど」

 

 ミルが掠れた声で言った。

 

「気配が消えてない。むしろ集中してる。北の一点に」

 

 悪魔たちが引き戻されている。裂け目の方角に。何かに引き寄せられるように。

 

 集まっている。

 

 何かのために。

 

 アスは北の空を見た。

 

 赤かった。

 

 夕焼けではない。昼間の空が、北の一角だけ赤く染まっている。結界の裂け目があった場所。英雄たちの光が交差していた場所。そこが今、赤い光に包まれている。

 

 悪魔の気配が一点に収束していく。散らばっていた圧が、一つの場所に凝縮されていく。密度が上がっていく。限界を超えて、さらに上がっていく。

 

 何かが来る。

 

 さっきまでの波とは違う。強化悪魔の群れとは違う。もっと——根本的に別のもの。

 

 アスは剣を握り直した。

 

 手が震えていなかった。

 

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