ダサくて、弱くて、仲間に助けられながら紡ぐ英雄譚 作:すうがくだんご
静寂は長くなかった。
第一波が引いてから十分ほどの間に、八人は通りの被害を確認した。北側の大通りに面した建物のうち三棟が壁を破られ、路地の一本が瓦礫で塞がれていた。負傷者が道端に座り込んでいる。腕を押さえた男。額から血を流した女。泣きながら母親にしがみつく子供。
アテネが走った。負傷者の間を縫うように動きながら、手を翳していく。回復の光が一人、また一人と包んでいく。立ち止まらない。走りながら、途切れずに。腕輪が断続的に光る。魔力の残量は厳しいはずだ。けれど足は止めない。目の前に傷ついた人がいる限り。
「深い傷の方を先に。浅い傷は止血だけで持ちます」
アテネ自身が優先順位を判断している。ミルの指示を待たずに。あの日から成長したのは戦闘中の支援だけではなかった。
遠くで剣戟の音が聞こえた。八人がいる場所だけではない。街の各所で冒険者たちが戦っている。結界が割れた瞬間、ギルドに集まっていた者たちがそれぞれの判断で散っていった。
通りの向こうで、三人組の冒険者が強化悪魔と格闘しているのが見えた。ベテランらしい動きだった。前衛が二人で悪魔を挟み、後衛が魔法で牽制している。けれど再生能力に苦戦していた。斬っても斬っても傷が塞がる。核の存在を知らないのだ。
「核がある! 腹の中だ! 体表を斬っても再生する!」
アスが走りながら叫んだ。三人組のリーダーらしい男が振り返り、一瞬怪訝な顔をして——すぐに頷いた。戦場では情報がそのまま命になる。出所を問う余裕はない。
三人組が攻め方を変えた。炎は使えないが、前衛の一人が力任せに腹を抉り、もう一人がそこを突いた。核を砕く。悪魔が崩れ落ちた。リーダーがこちらに手を上げた。アスも手を上げ返した。名前も知らない。けれどこの瞬間、同じものを守っている。
それだけで十分だった。
第二波が来た。
北の裂け目から再び黒い影が流れ込んできた。今度は数だけではなかった。第一波は危険度2から3が主体だったが、第二波には4クラスが混じっている。一体一体の圧が違う。街の通りを這うように進んでくる巨体が、建物の壁を掠めるだけで石が崩れた。
「分担する」
ミルの声がクロに向かって飛んだ。二人のサポーターが地図を広げる時間はなかった。頭の中で街を区画に切っている。
「東はレイたちに。こっちの四人で西を持つ」
「了解。東三ブロック、任せろ」
クロが走った。レイ、シア、ガルドに声をかけながら東へ。八人が四人と四人に分かれた。一瞬の分断。けれど不安はなかった。レイたちの力を知っている。東は任せられる。
アスたち四人が西の通りに展開した。
*
西側の大通りに、強化悪魔が三体並んで進んできた。危険度3が二体、4が一体。通りの幅いっぱいに広がり、壁のように迫ってくる。
アスは迷わなかった。
足元を見た。通りの石畳。左に路地。右に商店。商店の奥に人影が見える。隠れている人がいる。ここで悪魔を通したら、その人たちが巻き込まれる。通さない。ここが防衛線だ。
「ロイド、正面の4を。俺が右の3を取る。左はアテネの支援で遅延させて、ミルが核を見つけ次第潰す」
指示が自然に出た。以前ならミルに判断を委ねていた。今は自分で見て、自分で決められる。焦りではない。状況が見えているから動ける。仲間の位置が見えているから割り振れる。
ロイドが前に出た。大剣が唸りを上げ、危険度4の悪魔と正面からぶつかった。ロイドの動きが変わっていた。堕天使の因縁を断ち切ったあと、身体から何かが外れたように軽い。迷いが消えている。一振りごとに全力を出し切れている。以前は無意識に力を溜めていた——次の敵のために、本当の敵のために。その枷がなくなった。
大剣の一撃が悪魔の前足を砕いた。再生が始まる。けれどロイドは待たない。砕いた瞬間にもう次の一撃を振っている。再生の速度を上回る連撃。力任せではない。再生にかかる時間を計算し、その間隔に合わせて打点を変えている。ロイドなりの分析。武器を持つ者の分析。
アスは右の悪魔に踏み込んだ。炎を灯す。細く、鋭く。腹部を狙って斬り込む。第一撃で肉を裂き、第二撃で奥へ。核が見えた。三撃目で砕く。一連の動作が、呼吸一つ分で終わった。
通りの奥で、別の冒険者たちが戦っていた。五人組のパーティーが、強化悪魔二体を相手に押し込まれている。若い冒険者たちだった。アスたちと同じか、それより経験が浅い。前衛の少年が盾で攻撃を受け、その衝撃で後ろに吹き飛ばされた。後衛の女が悲鳴を上げる。
「ミル、あっちは」
「見てる。でも今動けない——」
ミルが左の悪魔の分析に集中していた。核の位置を特定しようとしている。手が離せない。
判断の瞬間だった。あの五人組を助けに行くか、ここを守るか。
両方やる必要はなかった。
「核は腹にある! 再生するから表面だけ斬っても無駄だ!」
アスが叫んだ。全力の声。通りの端まで届くように。五人組のリーダーらしい少年が顔を上げた。半信半疑の目。けれど他に手がない。
「信じろ! 腹を狙え!」
少年が頷いた。立ち上がり、仲間に叫んだ。五人組が攻め方を変えた。体表ではなく腹部に集中攻撃。前衛が盾で突進を止め、後衛の魔法が腹を焼く。核が見えた。少年が剣を突き入れた。砕けた。悪魔が崩れ落ちた。
少年がこちらを見た。目が変わっていた。恐怖の色が薄れ、戦える目になっていた。情報が一つあるだけで、人は変わる。戦い方が変わる。
ミルが左の悪魔の核を特定した。アテネの支援で遅延させていた個体に、ロイドが大剣を叩き込んだ。三体目の核が砕けた。
西の通りが静かになった。一時的に。
けれど遠くから次の足音が聞こえている。
*
取り残された子供がいた。
西の住宅街の裏路地。瓦礫が散らばった狭い道に、五歳くらいの女の子が座り込んでいた。膝を抱えて、目を固く閉じている。泣いてすらいなかった。恐怖で声が出なくなっているのだ。
その路地に、悪魔が三体入り込んでいた。
アスが走った。裏路地は狭い。大剣を振るうロイドには向かない。アスの剣の間合いがちょうどいい。
一体目に炎を叩きつけた。路地の壁を蹴って角度を変え、二体目の側面を斬る。狭い空間で身体を回しながら、三体目を蹴り飛ばした。
三体が同時にこちらに向いた。子供から注意が逸れた。それでいい。
守りたい。
その想いが、今ここにあった。
白銀の光が剣に灯った。ナイトブロウ。意識していなかった。出そうとしていなかった。目の前に守るべき人がいて、身体が動いて、力が溢れた。自然に。あの日から変わらない、守りたいという意志の形。
三体をまとめて薙いだ。白銀の光が弧を描き、裏路地を一瞬だけ昼のように照らした。悪魔の身体が裂け、核が砕け、黒い残骸が地面に散った。
静けさが戻った。
アスは剣を下ろし、女の子の前にしゃがんだ。
「大丈夫。もう大丈夫」
女の子が目を開けた。大きな瞳に涙が溜まっている。アスの顔を見て——泣き出した。ようやく、泣けた。
アスが女の子を抱き上げた。軽かった。こんなに軽い命を、こんなに重い力で守っている。その対比が、胸の奥を締めつけた。
裏路地の入口に人影があった。近所の住人だった。瓦礫の陰に隠れていた中年の女性が、アスと女の子を見ていた。口元が震えている。
「あの子を——」
「お願いします」
女の子を渡した。女性が子供を抱きしめて、南へ走っていった。
アスが裏路地から出ると、通りの向こうで人々がこちらを見ていた。逃げ遅れた人々が、建物の窓から、瓦礫の陰から、アスの戦いを見ていた。
「あいつ、何者だ」
誰かが呟いた。聞こえた。英雄ではない。ギルドの幹部でもない。ただの冒険者だ。名前も知らない若い剣士が、裏路地に飛び込んで子供を守った。白い光で悪魔を薙ぎ払った。
アスは振り返らなかった。次の場所へ走った。まだ戦いは終わっていない。
*
遠くの空が光っていた。
北の方角。結界の裂け目があった場所。そこで複数の光が交差している。白い閃光。赤い爆炎。蒼い凍気。風の渦。闇の帳。七つの光のうち五つが、あの場所で何かと戦っている。
堕天使たちだ。サマエル、アザゼル、ムルムル。ロイドが倒したものと同格か、それ以上の存在が三体。英雄たちがそれを止めている。
規模が別格だった。光が交差するたびに、遠く離れたこの通りにまで衝撃波が届く。地面が揺れ、窓が割れ、空気が鳴る。あの場所で起きている戦いは、アスたちの戦いとは次元が違った。
アスは一瞬だけ、その光を見た。
あそこにアイリスがいる。光の英雄が。自分が好きな人が。街を守るために、今あの場所で戦っている。
まだ届かない。あそこには。堕天使と戦える力は、まだ自分にはない。
でも今は、それでいい。
目を前に戻した。
この通りにも守るべき人がいる。目の前の戦いがある。英雄たちが堕天使を止めている間、街に流れ込む悪魔から人々を守る。それが今の自分の役割だ。
危険度4の強化悪魔が、西の通りの奥から現れた。大きい。ガルムに匹敵する体格。甲殻こそないが、体表を覆う魔力の膜が分厚い。
「四人で行く」
アスが言った。ロイドが横に並んだ。アテネが後方に下がり、ミルが建物の壁に背をつけた。
連携が回った。ロイドが正面から圧をかけ、アスが側面から炎で核の位置を探る。アテネの支援がロイドに集中し、ミルの分析が核の位置を特定する。
「右肩の奥。深い」
ミルの声。アスが炎を最大にして右肩を抉った。核が見えた。ロイドの大剣が突き入れられた。核が砕けた。
一連の動作が、分単位ではなく秒単位で終わった。ガルム戦では何十分もかかったことが。それだけ強くなっている。四人とも。
アテネが前線に近い位置で支援を回し続けていた。走りながら。途切れずに。かつて立ち止まって詠唱していたエルフが、戦場を駆けながら魔力を飛ばしている。里で学んだ術式を超え、アリアドネに教わった起点を使い、自分だけの形を作り上げていた。前線が崩れかけた一瞬——ロイドの足がもつれた刹那に、即座に回復が飛んだ。間隙なく。あの穏やかな笑顔の裏にある反射速度は、もう後衛の域を超えていた。
ミルが全体を見ていた。四人の位置。悪魔の動き。街の構造。逃げ遅れた人の位置。全てを頭に入れて、必要な情報を必要な人に必要なタイミングで出す。感情を出さない。冷静に、正確に、途切れず。その背中が頼もしかった。声だけでこの戦場を動かしている少女の背中が。
第二波を押し返した。
西側の通りから悪魔の影が消えた。東の方角からも戦闘の音が遠のいている。レイたちが抑えている。通りに散った冒険者たちも、それぞれの持ち場で戦い抜いた。さっき核の情報を叫んだ五人組も、その後二体を自力で倒していた。
街の被害は——出ている。建物の崩壊。負傷者。そして、間に合わなかった命。ゼロではない。けれど最小限に抑えられている。英雄たちが裂け目を、冒険者たちが街を、八人が要所を守った。その全てが噛み合って、街はまだ立っている。
八人が通りの中央で合流した。東から戻ってきたレイたちと、西を守ったアスたち。全員が疲弊していた。けれど全員が立っていた。
空気が変わった。
唐突に。悪魔の気配が消えた。第一波のときのような引き戻しではない。気配そのものが——消滅した。通りに残っていた残骸すら、塵のように散っていく。
静寂が降りた。
けれど安堵はなかった。
「これは撤退じゃない」
ミルが呟いた。目が鋭い。聴音器を耳に当て、北の方角を探っている。
「気配が消えたんじゃなくて、吸い込まれてる。北の一点に。さっきより密度が上がってる。何かが——集まってる」
全員が北を見た。
空が赤かった。さっきまで複数の光が交差していた場所が、今は一色に染まっている。赤。深い赤。血の色ではなく、もっと古い色。世界の底から滲み出してくるような、重い赤。
英雄たちの光が——見えなくなっていた。赤に呑まれている。
何かが来る。
悪魔の群れではない。堕天使でもない。もっと根本的な何か。全ての異変の源。全ての強化の原因。全ての崩壊の始まり。
それが——地上に出ようとしている。
アスは剣を握り直した。手が震えていなかった。
了