ダサくて、弱くて、仲間に助けられながら紡ぐ英雄譚   作:すうがくだんご

4 / 32
届いた一撃

 

 

 息が、足りない。

 

 視界の端が暗く滲んで、膝が笑っている。剣を握る右手はとっくに感覚を失くしていて、それでも離さずにいられるのは、意地なのか、それとも指が硬直しているだけなのか、自分でもわからなかった。

 

 魔物もまた、無事ではなかった。アスの炎がえぐった左半身は焼け爛れ、動きは明らかに鈍い。だが——まだ立っている。赤黒い眼がこちらを睨み、低い唸り声が洞窟の壁を震わせていた。

 

 三対一。数の上ではこちらが有利なはずだった。けれど現実は違う。アテネは膝をつき、荒い呼吸を繰り返している。ミルは壁に背中を預けたまま、かろうじて立っているだけだ。

 

 誰もが限界だった。

 

 魔物が動いた。

 

 ずるり、と片足を引きずるように前へ出る。たったそれだけの動作なのに、空気が一変した。追い詰められた獣の圧。先ほどまでとは質が違う。死を覚悟した生き物だけが放つ、剥き出しの殺意。

 

 アスの背筋に、冷たいものが走った。

 

 知っている。この感覚を、知っている。

 

 幼いころ、結界の外で感じたものと同じだ。全身の毛が逆立ち、身体が本能的に逃げろと叫ぶ。足が動かない。動かないのではなく、動けない。身体が拒否している。

 

 剣を構えようとした。腕が震えて、切っ先が揺れた。情けないほどに。

 

 ——逃げたい。

 

 その声は、自分の奥底から湧いてきた。当然だった。怖いものは怖い。強がったところで、身体は正直だ。足は石のように重く、呼吸は浅く速い。構えた剣が、自分の震えをそのまま映していた。

 

「——これが、最後の勝負」

 

 声が聞こえた。小さいが、はっきりとした声。ミルだった。

 

 壁に背を預けたまま、彼女の目だけが異様に冴えていた。汗で額に張りついた髪の奥、冷徹な瞳が魔物を射抜いている。

 

「あの傷で、長くは動けない。でも私たちも同じ。次はない」

 

 淡々と、けれど一言も無駄にしない声。戦いの最中、ずっとそうだった。ミルだけが、この地獄の中で思考を止めなかった。

 

「アス。最後に一撃だけ、全力を出せる?」

 

 全力。今の自分に、そんなものが残っているのか。足は震え、腕は上がらず、身体中が悲鳴を上げている。けれどミルは問うている。できるか、ではない。出せるか、だ。

 

「……出す」

 

 喉から絞り出した声は掠れていた。それでも、嘘ではなかった。

 

「アテネさん」

 

 ミルの視線が動いた。地面に膝をついたアテネが、顔を上げる。いつも穏やかに微笑んでいた彼女の表情は蒼白で、唇の色が消えていた。魔力の枯渇が近いことは、素人の目にも明らかだった。

 

「残りの魔力で、アスに身体強化をかけられますか。回復じゃなくて、強化」

 

 一瞬の沈黙があった。アテネの瞳が揺れた。回復を捨てるということは、このあと誰が傷ついても治す手段がないということだ。失敗すれば、全員ここで終わる。

 

「……かけられます」

 

 アテネは静かに言った。震えてはいなかった。決めたのだ、と思った。優しい人が覚悟を決めたときの声は、誰よりも静かだった。

 

「お願いします。それとアス——」

 

 ミルが最後の指示を出した。

 

「あの魔物は攻撃の直前に一瞬止まる。それは変わってない。私がその瞬間を作る。合図を出すから、迷わず踏み込んで」

 

 失敗すれば全滅。言わなくても、全員がわかっていた。

 

 アテネが両手を持ち上げた。掌が淡く光る。回復術しか見たことがなかったその光が、今は違う色を帯びていた。より鋭く、より熱く。彼女の残りすべてを注ぎ込む光。

 

 その光がアスの身体に触れた瞬間、全身に電流が走ったような感覚が広がった。重かった足が軽くなり、震えていた腕に力が戻る。視界が一段、鮮明になった。

 

 ただし、それは借り物の力だとすぐにわかった。身体の奥で、何かが軋んでいる。これが切れたとき、自分は立っていられないだろう。

 

 アテネの手が、力を失って落ちた。彼女はそのまま両手を地面について、ただ荒い息をしている。もう何も出せない。全部をくれたのだ。

 

「——行くよ」

 

 ミルが壁から背中を離した。その手には小石が握られていた。大したものじゃない。武器にもならない。けれど彼女が持てば、それは戦術になる。

 

 ミルが走った。走ったというには遅すぎる。足を引きずるような、よろめきながらの突進。それでも、魔物の正面に向かって。

 

 石が飛んだ。魔物の顔面に当たり、弾けた。ダメージなどあるはずがない。ただ一瞬——ほんの一瞬だけ、赤黒い眼がミルに向いた。

 

 魔物が腕を振り上げる。ミルに向かって。

 

 その動作が、止まった。

 

 攻撃の直前。一瞬の硬直。ミルが最初に見抜いた、この魔物の唯一の癖。

 

「——今っ!」

 

 ミルの声が洞窟に響いた。

 

 アスの足は、もう動いていた。

 

 怖い。怖くないわけがない。眼の前の魔物は、まだ自分より遥かに強い。一歩踏み出すごとに、逃げろと叫ぶ声が頭の中で鳴る。身体が覚えている。幼いころ、何もできずに蹲ったあの恐怖を。

 

 でも。

 

 後ろにいる。アテネが、全部を使い果たして倒れている。ミルが、身一つで魔物の前に立っている。

 

 ——守れるくらい、強くなるって決めたんだ。

 

 あの日の誓いは、遠い理想だった。アイリスのように強くなりたい。守る側に立ちたい。それがどれだけ途方もないことか、魔界に来て思い知った。自分は弱い。怖がりで、非力で、一人では何もできない。

 

 でも今、一人じゃない。

 

 背中を預けられる人がいる。自分を信じて、最後の力を託してくれた人がいる。その人たちを——この手で守る。

 

 恐怖を踏み潰した。比喩ではなく、足で地面を踏み砕く勢いで最後の一歩を踏み込んだ。

 

 剣に炎が灯った。出し惜しみも加減もない。持てるすべてを、この一振りに。

 

 赤い炎が洞窟の闇を焼いた。

 

 刃が魔物の胸を貫いた瞬間、炎が内側から弾けた。魔物の咆哮が途切れ、巨体が大きく仰け反り——そのまま、崩れ落ちた。

 

 どさり、と重い音が洞窟に響いて、それきり動かなくなった。

 

 静寂が降りた。

 

 アスは突き出した姿勢のまま、動けなかった。剣を握った右手が開かない。身体中の力が、一瞬で抜けていく感覚があった。アテネの強化が切れたのだ。膝が折れ、視界が傾き、冷たい地面に倒れ込んだ。頬に触れる岩の感触が、やけに鮮明だった。

 

 横を見ると、アテネが座り込んでいた。両腕を投げ出し、壁にもたれ、目を閉じている。その顔には疲労の色しかなかったが、口元がわずかに——ほんのわずかに、緩んでいるように見えた。

 

 ミルは、その場に膝をついていた。いつも冷静な彼女が、両手を地面について、肩で息をしている。前髪の隙間から見えた目元が、少しだけ潤んでいたような気がしたが、アスがそれを確かめる前に、ミルは顔を伏せてしまった。

 

 誰も口を開かなかった。しばらくの間、三人の荒い呼吸だけが洞窟に響いていた。

 

 最初に声を出したのは、アスだった。

 

「……勝った、のか」

 

 自分で言って、自分で信じられなかった。あの魔物に。危険度3の、本来なら自分たちが挑むべきではなかった相手に。

 

「勝ったよ」

 

 ミルの声が返ってきた。地面に手をついたまま、いつもより少しだけ柔らかい声で。

 

「三人で」

 

 その一言が、胸の奥に沁みた。

 

 一人じゃ無理だった。一人で来た初日、第1層の入口で怯えて引き返した自分を思い出す。あのときの自分が、今ここで魔物を倒せたはずがない。ミルがいなければ弱点を見抜けなかった。アテネがいなければ最後の一撃を放つ力が残っていなかった。二人がいたから、恐怖を踏み越えられた。

 

 仰向けに転がったまま、天井を見上げた。暗い岩肌が、ぼんやりと揺れている。

 

 嬉しかった。初めて勝てたことが。仲間がいることが。

 

 けれど同時に、わかっていた。

 

 これは第1層の、それもたまたま出くわした魔物だ。この先には第2層があり、第3層があり——第7層まで続いている。あの魔物一体にこれほど追い詰められる自分たちが、どこまで行けるのか。

 

 まだ弱い。

 

 その自覚が、重く静かに胸に落ちた。嬉しさを否定するわけではない。今日の勝利は本物だ。でも、それだけでは足りない。まだ全然、足りない。

 

 身体が動かなかった。指一本持ち上げるのも億劫で、このまま眠ってしまいそうだった。それでもアスは、握りしめたままの剣の柄を、もう一度だけ強く握った。

 

 ——もっと、強くなる。

 

 この三人で。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。