ダサくて、弱くて、仲間に助けられながら紡ぐ英雄譚   作:すうがくだんご

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届かない背中

 

 

 門をくぐったとき、誰も何も言わなかった。

 

 言葉を交わす余裕がなかった、というのが正しい。アスは右足を引きずり、アテネは左腕を庇うように抱え、ミルは壁に手をつきながら歩いていた。魔界の薄暗い空気から街の光の中に出ても、身体の重さは変わらなかった。足を一歩出すたびに全身が軋む。それでも三人とも立っていた。立って、自分の足で帰ってきた。それだけが、今の自分たちにある全部だった。

 

 門番が何か声をかけてきた気がしたが、アスの耳には入らなかった。ただ前を見て、一歩、また一歩。それだけで精一杯だった。

 

 視線を感じたのは、門を出て数歩のところだった。

 

 顔を上げると、アイリスがいた。

 

 金色の髪が風に揺れている。白い外套を羽織り、門の近くに立っていた。誰かを待っていたのか、あるいは門の様子を見に来ただけなのか。理由はわからない。ただ、その青い瞳がこちらを捉えていた。

 

 一瞬だけ、アイリスの視線がアスの全身を走った。足を引きずる姿、泥と血にまみれた服、握ったまま下げられた剣——彼女がくれた剣。すべてを一瞥しただけで、アイリスは状況を把握したのだろう。英雄とはそういう人間だ。

 

 叱責が来ると思った。無謀だ、身の程を知れ、と。あるいは深い心配の言葉か。どちらもアスには重すぎて、受け止める自信がなかった。

 

 けれどアイリスは、そのどちらでもなかった。

 

「帰ってきたんだね」

 

 それだけだった。責めるでもなく、労うでもなく、ただ事実を口にしただけの、静かな声。わずかに目元が緩んだように見えたのは、気のせいかもしれない。

 

 アスは何か返そうとした。大丈夫です、とか、ちゃんと戦えました、とか。でも喉が詰まって、声にならなかった。代わりに小さく頷いただけだった。それがひどく情けなくて、同時に——その一言が、胸の奥に深く刺さった。

 

 帰ってきたんだね。

 

 当たり前のことのように言ってくれた。生きて帰ることを、当然のこととして迎えてくれた。それがどれだけ温かいか、たぶんアイリス本人はわかっていない。

 

 アイリスの顔を見た瞬間、ふいに別のことを思い出した。

 

 数日前、ギルドの酒場で耳にした話だ。がやがやとした喧騒の中、冒険者たちが興奮混じりに噂していた。英雄たちが動く。第6層への大規模遠征。これまで人類が踏み入れたことのない深層への開拓作戦。七英雄のうち数名がその先頭に立つ、と。

 

 あのとき、アスはその話を他人事のように聞いていた。第6層。自分には関係のない、遠い世界の話だと。

 

 でも今、目の前にいるのはその英雄の一人だ。アイリスは第6層に向かう側の人間だ。未知の深層を切り開く側の。

 

 自分は——第1層で死にかけた。

 

 たった一体の魔物に、三人がかりで、全員の力を使い果たして、ようやく勝った。それが自分たちの現在地だ。アイリスが向かう場所と、自分が立っている場所。その距離が、静かに、重く、胸の底に沈んでいった。

 

 わかっていたはずだった。英雄と自分の間に途方もない差があることくらい。でも数字や噂で聞くのと、こうして目の前に立たれるのとでは、まるで違う。同じ門を使い、同じ魔界に挑んでいるはずなのに、見ている景色がまるで違う。

 

 アイリスが軽く会釈して、背を向けた。外套の裾が翻り、金色の髪が揺れる。迷いのない足取りで歩いていく。その背中は、いつだってまっすぐだった。

 

 隣に立ちたい。

 

 その想いが胸の中で形になりかけて——声になる前に、沈んだ。今の自分がそれを口にする資格がないことを、身体が一番よく知っていた。

 

 アスはただ、遠ざかる背中を見ていた。見ていることしかできなかった。

 

        *

 

 宿に戻ってからの数日は、回復に費やされた。

 

 三人が借りた安宿の一室は狭く、壁は薄く、寝台も硬い。それでも魔界の地面に比べれば天国のようなもので、アスは最初の一日をほとんど眠って過ごした。目を覚ますたびに全身が痛み、それが「生きている」という実感をくれた。

 

 二日目の朝、身体を起こすと、枕元に水差しが置かれていた。昨夜はなかったものだ。

 

 隣の寝台では、アテネがこちらに背を向けて横になっていた。眠っているのか起きているのか、その背中からは判断できない。水差しを誰が置いたのか、聞くまでもなかった。

 

 アテネは不思議な距離感の人だった。こちらを気にかけてくれていることは、態度の端々からわかる。けれど言葉にはしない。近づきすぎない。最初に出会ったとき、アスが誤って触れてしまった瞬間の、あの凍りついた空気を思い出す。エルフにとって接触がどれほど重いものなのか、アスにはまだよくわからない。ただ、踏み込んではいけない領域があることだけはわかった。

 

 だからアスも何も言わなかった。ただ水差しの水を飲み、心の中で礼を言った。

 

 その日の昼、アテネが回復の経過を見ると言って、アスの腕に手をかざした。直接触れない、けれど至近距離。淡い光が傷を包む。

 

「……痛みますか」

 

「だいぶ楽です。ありがとうございます」

 

 アテネは小さく頷いた。それだけのやり取りだったが、以前より声が硬くなかった。最初に会ったときの、丁寧だけれどどこか壁のある話し方とは少し違う。ほんの少しだけ、自然になっている。

 

 戦場で互いの命を預けた。その事実が、言葉よりも確かに距離を縮めていた。

 

 ミルはミルで、療養中も手を止めなかった。

 

 三日目の夕方、アスが宿の食堂に降りると、ミルが隅のテーブルで何かを書いていた。紙の束と、ギルドから借りたらしい簡素な地図。近づいて覗き込むと、第1層の構造が細かく書き込まれていた。通路の幅、分岐点、魔物の出現場所、退路の候補。あの死闘の最中にも、こんなことを記憶していたのか。

 

 アスが何か言おうとする前に、ミルが顔を上げた。

 

「座るなら静かにして」

 

 素っ気ない。けれどテーブルの反対側には、椅子が引かれていた。最初からそこにあったのか、ミルが用意していたのか。アスは黙って座り、ミルが地図を書き進めるのを見ていた。

 

 何も話さなかった。でも居心地は悪くなかった。ミルが自分たちのために準備をしてくれていること、それは言葉にしなくても伝わった。信頼とはこういうものなのかもしれない、と思った。声に出さなくても、隣にいるだけで成り立つ何か。

 

 四日目には、三人で食堂のテーブルを囲んだ。

 

 たいした話はしなかった。明日には身体も動くだろう、という程度の確認。アテネが温かいスープを三人分運んできて、ミルがそれを無言で受け取り、アスが「うまい」と言ったら二人ともほんの少しだけ口元を緩めた。

 

 まだぎこちなかった。冗談を言い合えるような関係ではないし、長い沈黙が挟まることもある。でも——悪くない。一週間前、ギルドの掲示板の前で一人きりだった自分を思えば、隣に人がいるということの重さがわかる。

 

 その夜、アスは寝台の上で天井を見つめていた。

 

 身体はだいぶ回復した。明日か明後日には動ける。そうなれば、また魔界だ。第1層の奥へ。あの魔物との戦いで得たものを確かめるために。

 

 けれど考えるほど、焦りが滲んだ。

 

 今の自分たちは、第1層の奥ですら安定して戦えない。あの危険度3の魔物は偶然出くわしただけで、もし次があったら同じように勝てる保証はどこにもない。同じ作戦が通じる相手ばかりではない。ミルの分析も、アテネの支援も、自分の攻撃も——全部がぎりぎりだった。あれは勝利であると同時に、限界の証明だった。

 

 もっと強くならないと。

 

 その焦りは、理屈ではなく身体の奥から湧いてきた。アイリスの背中が脳裏をよぎる。第6層。自分がいる場所から、どれだけ遠いのか。

 

 翌日、食堂でミルが地図を広げていた。新しい書き込みが増えている。ミルはその地図を見つめたまま、低い声で言った。

 

「私の分析じゃ、次もああなる」

 

 それは自分への叱責に聞こえた。サポーターとして、もっとできることがあるはずだ、と。

 

 アテネも、自分のスープを見つめたまま口を開いた。

 

「……回復も強化も、もっと精度を上げないと。あの場面で全部使い切るようでは」

 

 途中で言葉を切った。自分の未熟さを噛みしめるような沈黙だった。

 

 三人とも、同じものを見ていた。同じ壁にぶつかっている。口には出さないけれど、共有されていた。今のままでは足りない。それぞれの領域で、それぞれに足りないものがある。

 

 不思議な安堵があった。一人で焦っていたわけじゃない。三人とも同じ場所にいる。その事実が、焦りの輪郭を少しだけ和らげた。

 

        *

 

 その日の午後、ギルドに報告に行ったときだった。

 

 受付の向こう側が、いつもより慌ただしかった。職員が何人も行き来し、声を潜めて言葉を交わしている。いつもは暇そうにしている受付嬢の表情も硬い。

 

 アスたちが戦闘報告を提出すると、受付の女性が少し間を置いてから言った。

 

「第1層で危険度3の魔物と遭遇したとのことですが……実は、同様の報告が他にも上がっています」

 

 アスは目を見開いた。自分たちだけではなかったのか。

 

 本来、第1層に出現する魔物は危険度1から2が相場だ。危険度3は第2層の中層以降、あるいは第3層で遭遇する水準。それが第1層に出現するのは、明らかに異常だった。

 

「ギルド内でも正式に問題として扱われています。現時点で原因は不明ですが、第1層に入る際は従来以上に注意してください」

 

 事務的な口調だったが、その奥に緊張が滲んでいた。

 

 ギルドを出る途中、廊下で別の冒険者たちの会話が耳に入った。声は潜めていたが、完全には隠せていなかった。

 

「——6層の遠征、前倒しになるって話だろ」

 

「1層の異変と関係あるのかね」

 

「さあな。ただ上の連中が慌ててるのは確かだ」

 

 足を止めた。隣でミルも立ち止まっている。アテネも、おっとりした表情の奥で何かを考えている顔をしていた。

 

 第1層の異変。第6層への遠征。二つの出来事が同時に動いている。偶然かもしれない。関係があるのかもしれない。どちらにせよ、世界が静かに動いている。自分たちの知らないところで、自分たちの手が届かないところで。

 

 宿への帰り道、三人はしばらく黙って歩いた。

 

 魔界の異変。英雄たちの遠征。ギルドの緊張。そのどれもが、今の自分たちには遠い話だった。聞くことはできても、関わることはできない。理解することはできても、手を伸ばすことはできない。その事実が、沈黙の中に漂っていた。

 

 でも、目を背ける気にはなれなかった。今は届かない。それでも、知らなかったことにはしたくなかった。三人とも、何も言わないまま、同じことを感じていたのだと思う。

 

        *

 

 夜、アスは一人で宿の裏手に出た。

 

 小さな中庭のようなスペースに、木箱が積まれている。その上に腰を下ろし、膝の上に剣を置いた。アイリスからもらった剣。何度見ても自分には過ぎた代物だと思う。刃紋が月明かりを受けて、青白く光っていた。

 

 目を閉じると、今日見たアイリスの背中が浮かんだ。

 

 迷いなく歩いていく後ろ姿。白い外套の裾。金色の髪。あの人はこれから第6層に向かう。人類が足を踏み入れたことのない場所へ。自分が第1層で膝をついている間に、遥か先を歩いている。

 

 距離は縮まるどころか、広がっている気すらした。

 

 まだ足りない。

 

 それは嘆きではなかった。ただの事実として、静かに胸に落ちた。あの戦いで学んだことがある。仲間を得たことで、見えるようになったものがある。でも、それだけではまだ全然足りない。第1層を安定して踏破できるようにならなければ、その先には進めない。進めなければ、あの背中にはいつまでも届かない。

 

 剣の柄を握った。冷たい感触が掌に馴染む。

 

 焦りはある。不安もある。今日聞いた異変の話が、胸の底で小さな棘になっている。世界は待ってくれない。自分の成長を待って、魔界が大人しくしてくれるわけがない。

 

 それでも。

 

 アスは目を開けた。夜空には星が散らばっている。街の結界が薄く光を帯びて、外界の闇と隔てている。この結界の向こうで、世界は少しずつ蝕まれている。

 

 立ち上がった。剣を鞘に戻し、宿の扉に手をかける。

 

 明日からまた始まる。次に魔界に入るとき、昨日より一歩でも先へ。それしかできないし、それでいい。

 

 部屋に戻ると、アテネの寝息が聞こえた。ミルの寝台の上では、読みかけの資料が広がったまま、本人は突っ伏して眠っていた。

 

 アスは音を立てないように寝台に横になり、天井を見た。

 

 隣に立ちたい人がいる。守りたい人がいる。今はまだ、どちらにも手が届かない。

 

 でも明日が来る。明日の自分は、今日の自分よりほんの少しだけ前にいるはずだ。

 

 そう信じることだけが、今の自分にできる全部だった。

 

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