ダサくて、弱くて、仲間に助けられながら紡ぐ英雄譚   作:すうがくだんご

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それぞれの理由

 

 

 身体は休んでいるのに、頭だけが焦っている。

 

 魔界から戻って二日目の朝、アスは宿を出て街外れの空き地に立っていた。人通りのない、草が伸び放題の広場。朝露がまだ残る地面を踏み、剣を抜いた。

 

 素振り。ただの素振り。基礎の基礎だ。

 

 一振り。二振り。三振り。剣が空を切る音だけが朝の静けさに混じる。

 

 十振りを超えたあたりで、腕が重くなった。傷は癒えていても、消耗した身体はまだ戻りきっていない。それでも手を止められなかった。止めたら、あの距離のことを考えてしまう。第6層に向かうアイリスの背中と、第1層で倒れた自分と。

 

 炎を出そうとした。剣を握る手に意識を集中させ、あの戦いのときのように——

 

 ぼっ、と小さな火が刃の根元に灯った。不安定に揺れて、すぐに消えた。

 

 もう一度。今度は力を込めて。火は灯ったが、刃全体に行き渡る前に片側だけで膨れ上がり、制御を失って弾けた。手に軽い痺れが走る。

 

「……くそ」

 

 あの魔物との戦いでは出せた。全力の一撃に、炎を乗せることができた。けれどあれは極限の中でたまたま噛み合っただけで、再現しろと言われたらできない。自分の能力なのに、自分のものになっていない。

 

 もう一度。もう一度。繰り返すたびに、空回りしている実感だけが積もっていく。強くなりたいという気持ちが先走って、身体がついてこない。わかっている。焦ったところで技術は身につかない。わかっているのに、止められなかった。

 

 昼前に切り上げた。成果はなかった。腕が痛むだけだった。

 

 宿に戻る気分にもなれず、あてもなく街を歩いた。門の近くを通ったが、今日は素通りした。ギルドの前も過ぎた。冒険者たちが出入りするのを横目に見ながら、自分は何をしているんだろうと思った。

 

 大通りから一本裏手に入った道で、見覚えのある茶色い髪が目に入った。

 

 アテネだった。

 

 薬屋の前に立っている。店先に並んだ乾燥薬草を真剣な目で見比べていて、アスに気づいていない。白い指が小さな薬草の束に伸び、匂いを確かめるように鼻先に近づけている。穏やかな横顔が、戦場にいたときとはまるで別人に見えた。

 

「アテネさん」

 

 声をかけると、アテネが顔を上げた。一瞬だけ目が丸くなり、すぐにいつものおっとりとした表情に戻る。

 

「あら、アスさん。お散歩ですか」

 

「……まあ、そんな感じです」

 

 自主練がうまくいかなくて街をうろついている、とは言えなかった。アテネは薬草を一束選んで代金を支払い、小さな紙袋を抱えてアスの隣に並んだ。

 

「少し歩きませんか。天気がいいので」

 

 断る理由がなかった。並んで歩き始めると、最初は会話が途切れがちだった。何を話せばいいのかわからない。魔界の話はまだ生々しいし、天気の話をするほど距離が遠いわけでもない。中途半端なところにいる二人だった。

 

 それでも以前よりは楽だった。あの戦いの前は、並んで歩くことすら想像できなかった。今はまだぎこちないけれど、沈黙が苦しくない。

 

 市場の脇を通り過ぎたとき、アテネが乾燥した果物を売る露店に目を留めた。見慣れない種類の果実が並んでいる。

 

「これ、里にもあったんです」

 

 何気ない声だった。思い出話をするような、力の抜けた口調。

 

「アテネさんの里って、やっぱり森の中ですか」

 

「ええ。深い森の奥に。昔はもっと……広かったみたいですけど」

 

 少しだけ間が空いた。アテネは果実から目を離さないまま、続けた。

 

「結界の外にあるので。悪魔の侵食が、少しずつ」

 

 アスの足が止まった。結界の外。それはつまり、人間の街のように守られた場所ではないということだ。

 

「里の人たちは、ずっと自分たちの力で森を守ってきました。エルフの魔法で、土地に力を巡らせて。でも、年々それが難しくなっていて」

 

 アテネは歩き続けていた。アスが止まったことに気づいて、半歩先で振り返る。

 

「若い人が外に出るようになりました。里を守る方法を探すために。私もそのうちの一人です」

 

 重い話のはずだった。故郷が衰退している。守る力が足りない。それは深刻で、切実で、本来なら声を落として語るような話題だ。けれどアテネの声には悲壮感がなかった。ただ事実を述べている。自分が何をしなければならないかを、とっくに受け入れた人間の声だった。

 

「回復魔法を学んだのも、そのためです。里にはもう、術を使える人が少なくて。外で技術を磨いて、持ち帰れるものを持ち帰る。そのつもりで来ました」

 

 アスは黙って聞いていた。軽い返事はできなかった。「大変ですね」とも「頑張ってますね」とも言えなかった。そんな言葉ではアテネが背負っているものの輪郭にすら届かない気がした。

 

 里が消えかけている。自分が学ばなければ、守る術を持ち帰れる者がいない。その重さを、アテネは静かな笑顔の裏にずっと抱えていたのだ。

 

 翻って、自分はどうだ。

 

 隣に立ちたい。アイリスの隣に。その想いは本物だと信じている。でもアテネのそれと並べたとき、自分の動機がひどく小さなものに思えた。比べるものではないとわかっている。誰かの理由に優劣をつけるのは間違っている。それでも——胸の中で、何かが軋んだ。

 

「アスさんは、どうしてここに?」

 

 アテネが穏やかに聞いた。問い詰めるのではなく、ただ知りたいという素朴な響きだった。

 

「……強くなりたくて。守りたい人が、いるので」

 

 それ以上は言えなかった。アテネは小さく頷いただけで、それ以上聞かなかった。

 

        *

 

 二人で通りを歩いていると、ギルドの裏手にある小さな資料館の入口が見えた。普段は訪れる人も少ない、古びた建物だ。その入口の階段に、見覚えのある小柄な影が座っていた。

 

 ミルだった。

 

 膝の上に分厚い冊子を広げ、傍らには何冊もの記録帳が積まれている。こちらに気づく様子もなく、指先でページを追いながら何かをメモしている。集中している。完全に自分の世界に入っている。

 

「ミルさん」

 

 アテネが声をかけた。ミルの指が止まり、顔が上がる。二人を見て、ほんの一瞬だけ意外そうな顔をした。

 

「何」

 

 一語。いつものミルだった。

 

「何を読んでるんですか」

 

 アスが階段に近寄ると、ミルは冊子を閉じかけ——少し迷って、開いたままにした。

 

「ギルドの過去の探索記録。第1層から第3層までの魔物出現データ。それと、深層の地形に関する考察」

 

「こんなにたくさん……」

 

「足りない」

 

 素っ気ない。が、そこにはいつもの冷たさとは少し違う色があった。苛立ちに近い何か。情報が足りない、もっと知らなければ、という飢えのようなもの。

 

 アテネが隣に腰を下ろし、アスもその横に座った。ミルは二人を追い払いもせず、再び冊子に目を落とした。三人で階段に並んで座っている。一週間前には想像もしなかった光景だった。

 

「この記録、面白いの」

 

 ミルが不意に言った。目は冊子に向けたまま。

 

「第2層と第3層の境界で、魔物の種類が明確に変わる。第1層から第2層は連続的なのに、第3層から突然別の体系になる。まるで層ごとに生態系が設計されたみたいに」

 

 声が変わっていた。普段の抑制された話し方ではなく、言葉が自然に溢れ出ている。目の輝きも違う。分析の話をするときだけ、ミルは別人のようになった。

 

「あと、危険度の分類体系自体に矛盾があって——」

 

 そこまで話してから、ミルは口を閉じた。自分が饒舌になっていることに気づいたのだろう。わずかに目を逸らす。

 

「……ごめん。聞いてないよね」

 

「聞いてます」

 

 アスが即答した。正直なところ半分も理解できていなかったが、ミルが生き生きと話す姿を初めて見た。それだけで聞く価値があった。

 

「とても興味深いです」

 

 アテネも頷いた。穏やかだが、嘘ではない声だった。

 

 ミルは二人の顔を交互に見て、少しだけ——本当にわずかに——肩の力を抜いた。

 

 しばらく三人で記録帳を眺めていた。ミルが時折解説を挟み、アテネが質問し、アスは聞きながら自分たちが戦った魔物のことを思い出していた。穏やかな時間だった。

 

 ふと、アスの口が勝手に動いた。

 

「ミルは、なんでサポーターになったんですか」

 

 聞いてから、しまった、と思った。踏み込みすぎただろうか。ミルは個人的な話を嫌う。最初からそうだった。必要なこと以外は話さない。聞かれたくないことは無視する。それがミルだった。

 

 案の定、ミルの手が止まった。冊子の上に置かれた指が、一瞬だけ強張った。

 

 沈黙が落ちた。アスは謝ろうとした。余計なことを聞いた、忘れてくれ、と。

 

 けれどミルが先に口を開いた。

 

「父と母が、深層で消えた」

 

 声に感情がなかった。まるで天気の話をするように、事実だけを並べた。

 

「二人とも冒険者だった。優秀な方だったらしい。第4層の探索中に消息を絶って、それきり」

 

 冊子のページが風でめくれた。ミルはそれを押さえもしなかった。

 

「私には戦う力がない。体も小さいし、魔力もない。でも、情報があれば死なずに済む場面がある。二人に足りなかったのは、たぶんそれだった」

 

 それだけだった。それ以上は語らなかった。声は最後まで平坦で、震えも詰まりもなかった。だからこそ、その言葉の奥にあるものの深さが伝わった。

 

 誰も何も言えなかった。

 

 アスは口を開きかけて、閉じた。安易な慰めは要らないと、ミルの背中が語っていた。アテネも黙っていた。膝の上で手を組んだまま、ミルの横顔を静かに見ている。

 

 同情ではない。責めでもない。ただ、そこにある。三人で同じ沈黙の中にいる。それが何なのか、アスにはうまく言葉にできなかった。でも、初めての感覚だった。三人がそれぞれ別のものを抱えていて、それを知って、それでも隣にいる。空気がほんの少しだけ変わった。境目が溶けたというほど大げさなものではない。ただ、同じ場所にいることを認め合ったような、微かな変化。

 

 アスが口を開いた。何を言えばいいかわからなかった。気の利いた言葉も、深い共感を示すような表現も持ち合わせていなかった。でも、黙っていることは違うと思った。

 

「……一緒に、強くなろう」

 

 言ってから、自分でも安っぽいと思った。ミルが両親を失った重さに対して、この言葉は軽すぎる。アテネの里が消えかけている現実に対して、こんな一言では何にもならない。わかっている。それでも他に言えることがなかった。

 

 ミルはしばらく黙っていた。冊子の表紙を指先でなぞりながら、何かを考えている。否定されるかもしれない、と思った。甘い、と。現実はそんなに単純じゃない、と。

 

「……そうしないと、意味がない」

 

 ミルは冊子から目を上げなかった。声は相変わらず淡々としていた。でもその中に、否定ではないものが混じっていた。同意というには控えめすぎる。けれど拒絶ではない。ミルなりの肯定だった。ここにいること、三人でいること、その先に進むこと——否定しない、という形での肯定。

 

 アテネが小さく笑った。

 

 声を上げて笑ったわけではない。ただ、口元がふっと綻んで、目が細くなった。

 

「私も、同じです」

 

 静かな声だった。でも温かかった。アテネが笑うと空気が和らぐ。それは優しさだけではなくて、この人も同じものを抱えて、それでもここにいる、という覚悟の表れだった。

 

 三人の間を風が通り抜けた。さっきまでと同じ場所にいるのに、空気が違った。

 

        *

 

 翌日の朝、誰が声をかけたわけでもなく、三人は街外れの空き地にいた。

 

 アスが昨日一人で素振りをしていた場所だ。朝露はもう乾いていて、低い草が風に揺れている。

 

 アスは剣を抜き、アテネは回復術の構えを取り、ミルは地面に座って記録帳を広げた。示し合わせたわけではない。ただ、昨日の会話のあと、それぞれが同じ結論にたどり着いたのだろう。今のままでは足りない。ならば、やるしかない。

 

 アスは素振りから始めた。一振りごとに炎を灯す練習。昨日と同じことだ。けれど昨日とは気持ちが違った。空回りしていた焦りが少しだけ落ち着いて、一振りずつに意識を向けられる。

 

 炎は相変わらず不安定だった。刃の片側に偏る。出力の加減がきかない。強く念じれば暴走し、抑えようとすれば消える。自分の能力なのに、扱い方がわからない。

 

 二十振りほど繰り返したところで、明確にわかった。独学では限界だ。何が間違っているのかすらわからない。炎をどう制御すればいいのか、基本の理屈を知らないまま力任せに振っている。あの魔物との戦いで出せた炎は、技術ではなく感情の爆発だった。それでは再現できない。戦場で毎回死にかけなければ力を出せないのでは、意味がない。

 

 視線を横に向けた。アテネが目を閉じ、両手を前に出している。掌から淡い光が漏れ、空中で霧散する。何かの術式を試しているようだが、光は安定しない。何度か繰り返し、そのたびに微かに眉を寄せる。

 

「……効率が、悪いんです」

 

 アスの視線に気づいたのか、アテネが目を開けて苦笑した。

 

「同じ量の魔力でも、もっと効果を出せるはずなのに。里で習った方法だと、どうしても無駄が多くて」

 

 あの戦いで、アテネは全魔力を使い切って強化をかけてくれた。あれが限界だった。もし効率が良ければ、同じ魔力量でもっと強い支援ができたかもしれない。回復に割く余力も残せたかもしれない。それがわかっているから、アテネは術式そのものを見直そうとしている。

 

 けれどそれは、里で学んだ基盤を超えるということだ。独力でできることには限りがある。

 

 ミルは記録帳に何かを書き込んでは消し、書き込んでは消しを繰り返していた。

 

「情報が足りない」

 

 昨日と同じ言葉。けれど今日は、そこに具体的な苛立ちが乗っていた。

 

「あの魔物の動きを分析したけど、データが一体分しかない。一体の癖を見抜いても、次に同じ種類が出るとは限らない。種全体の傾向を掴むには、もっと体系的な情報が要る」

 

 ミルの指示は的確だった。あの戦いで、ミルがいなければ勝てなかった。しかしミル自身は、あれが綱渡りだったことを誰よりわかっている。限られた情報から推測し、賭けに近い判断を強いられた。次も同じようにうまくいく保証はない。

 

「でもギルドの記録には、そこまで体系的なデータがない。個別の報告はあっても、分類や分析がされてなくて」

 

 三人とも、壁にぶつかっていた。

 

 アスの炎は制御できない。アテネの術式は効率が悪い。ミルの分析は情報不足で精度が出ない。どれも独学や現場経験だけでは越えられない壁だった。努力の問題ではなく、知識と技術の問題。頑張れば何とかなるという段階を、三人ともとうに過ぎていた。

 

 夕方まで続けたが、目に見える成果は出なかった。

 

 三人並んで空き地の端に座った。橙色の夕陽が街の屋根を染めている。誰も口を開かない。疲労と、成果のなさと、自分たちの現在地を噛みしめる沈黙だった。

 

 アスは膝を抱えて、夕陽を見ていた。がむしゃらに振っても駄目だった。気合いだけでは炎は言うことを聞かない。アテネもミルも同じだ。それぞれの領域で、それぞれの限界にぶつかっている。

 

「……誰かに教わらないと、無理かもしれない」

 

 誰が最初に言ったのか。あるいは三人が同時に思っていたことが、たまたまアスの口から漏れただけかもしれない。

 

 ミルが小さく頷いた。アテネも否定しなかった。

 

 自力で足掻く時間は必要だった。壁の形を知るために。でも壁の形がわかった今、必要なのは別のものだ。自分たちだけでは見えない角度から、導いてくれる誰かの存在。

 

 夕陽が沈みかけている。三人の影が長く伸びて、空き地の草を横切っていた。

 

 この街のどこかに、自分たちに必要なものを持っている人がいるのだろうか。

 

 アスはまだ知らなかった。その出会いが、もうすぐそこまで来ていることを。

 

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