ダサくて、弱くて、仲間に助けられながら紡ぐ英雄譚   作:すうがくだんご

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殻の王

 

 

 数字は嘘をつかない。

 

 ミルが宿のテーブルに広げた紙には、びっしりと計算が並んでいた。武器の修繕費、消耗品の補充、宿代、食費。そして第2層に挑むために最低限必要な装備の見積もり。

 

「足りない」

 

 ミルの声は平坦だった。感情ではなく事実を述べている。

 

「今の資金では第2層用の装備が揃えられない。素材を売っても焼け石に水。第1層の雑魚が落とす素材じゃ単価が低すぎる」

 

 アスは紙面の数字を見つめた。計算の詳細はわからないが、赤字で引かれた線の意味はわかる。足りない。圧倒的に。

 

「ただし」

 

 ミルの指が紙の下段を差した。

 

「第1層のボス——殻王ガルムの素材は別格。甲殻は防具素材として高値がつくし、核に至っては武器への加工が可能。一体分の素材で、この赤字が全部消える」

 

 アテネが小さく息を呑んだ。アスも同じだった。話が大きすぎる。

 

「ボスを倒す、ってことですか」

 

「そうしないと第2層には行けない。数字の上では」

 

 三人の間に沈黙が落ちた。第1層のボス。危険度3の魔物一体に全員の力を使い果たした自分たちが、その上の存在に挑む。無謀と言われても仕方がない。

 

 けれどミルの目は冷静だった。無謀だとわかった上で、他に道がないことも計算済みなのだ。

 

「……情報を集めよう」

 

 アスが言うと、ミルは小さく頷いた。

 

        *

 

 ギルドの資料室は薄暗かった。

 

 棚に並んだ記録帳を三人で手分けして調べた。殻王ガルム。第1層最深部に棲む甲殻の魔物。危険度4上位。記録は少なかった。挑んだ者がそもそも少なく、帰還した者はさらに少ない。

 

 攻略成功の記録は、片手で数えるほどしかなかった。そのどれもが大規模パーティーによるもので、少人数での突破例は皆無だった。

 

「危険度4、上位」

 

 アテネが記録帳の文字をなぞりながら呟いた。

 

「私たちが戦ったのが危険度3で、あれが限界だったのに……」

 

 三人で顔を見合わせた。数字の意味を、身体が知っている。あの戦いの記憶が、危険度の差を実感に変える。3で死にかけた自分たちが、4の上位に挑む。一つ上ではない。次元が違う。

 

 資料室を出ようとしたとき、入口で人とぶつかりそうになった。

 

「おっと——悪い」

 

 明るい声だった。アスより少し高い身長、日に焼けた肌、短く切り揃えた茶髪。目が合った瞬間、相手の表情がぱっと変わった。

 

「お前たちも殻王の情報?」

 

 遠慮のない口調だった。人懐こいというより、距離感が最初から近い。その後ろに三人の姿が見えた。銀髪のエルフの女、軽薄そうな笑みを浮かべた細身の男、そして——入口の枠に収まりきらないほどの巨体を持つドワーフ。

 

「ああ、自己紹介か。俺はレイ。こいつらと組んでる」

 

 名乗られたので名乗り返す。アス、アテネ、ミル。互いのパーティーを眺める。似たような構成だった。前衛と後衛と支援。同じ目的で、同じ場所に来ている。

 

 レイはアスをまっすぐ見た。品定めというより、同じ匂いを嗅ぎ取ったような目つきだった。

 

「前衛?」

 

「……はい」

 

「何層まで行った」

 

「第1層の奥まで。ボスには——まだ」

 

「同じだ」

 

 レイが笑った。自嘲ではなかった。同じ場所にいる相手に対する、妙な親近感を含んだ笑みだった。

 

 けれどその親近感が、アスの中で別のものに変わった。同じ場所にいる。同じことを目指している。それは仲間かもしれないが、同時に——自分の立ち位置を映す鏡でもあった。

 

「どのくらい戦える?」

 

 レイが聞いた。

 

「それは——」

 

「俺たちは第1層の奥を安定周回できてる。危険度3なら三十分以内に処理できる」

 

 悪意はなかった。ただの事実確認だ。けれどアスの中で何かが引っかかった。三十分。自分たちは危険度3に全力で挑んで、全員の力を使い切って、ようやく倒した。その差を突きつけられたような気がした。

 

「俺たちだって——」

 

「別に馬鹿にしてない。聞いてるだけだ」

 

 レイの声に棘はなかった。でも引く気もなかった。まっすぐこちらを見ている。この男は嘘をつかない代わりに、遠慮もしない。

 

「やめなさいよ、レイ」

 

 銀髪のエルフが割って入った。シアと名乗った女だった。切れ長の目でアスたちを一瞥し、露骨に興味を失った顔をした。

 

「見ればわかるでしょ。経験が浅い。第1層のボスに挑むレベルじゃない」

 

 空気が凍った。言い方は冷たかったが、嘘ではなかった。だから余計に刺さった。アテネが唇を引き結び、アスの拳が無意識に握られた。

 

「シア」

 

 レイが名前を呼んだだけで、シアは肩をすくめて黙った。けれど撤回はしなかった。

 

 気まずい沈黙の中、別の声が聞こえた。

 

「よう、サポーター同士じゃん」

 

 軽い声。細身の男——クロが、ミルの隣にいつの間にか立っていた。ミルは一瞬だけ眉を動かしたが、それ以上の反応は見せなかった。

 

「お前さんも殻王のデータ集めてたろ。さっき資料室で同じ棚見てた」

 

「……だから何」

 

「いやさ、俺も集めてたんだけど、一人だと限界あるじゃん。お前が見てた記録、俺が見たやつと違う棚だった。合わせたら面白いかもと思って」

 

 ミルは無言でクロを見た。警戒はしている。けれど情報という言葉に、目が反応していた。

 

「見せて」

 

「お前のも見せろよ」

 

「……いいけど」

 

 二人は資料室の入口に戻り、持っていたメモを突き合わせ始めた。あっという間だった。ミルの無愛想をクロが全く気にしていない。壁に話しかけているようなものなのに、クロは平然と会話を続けている。不思議な相性だった。

 

 数分後、ミルが振り返った。いつもの無表情だが、目の色が違った。何かを掴んだときの目だ。

 

「アス。ちょっと来て」

 

 テーブルの上に二人分のメモが並べられていた。ミルの整然とした文字と、クロの走り書き。内容はまるで違うのに、合わせると一枚の絵が見えてくる。

 

「ガルムの甲殻には再生機能がある。ダメージを与えても一定時間で閉じて修復する。つまり外側からどれだけ叩いても、消耗戦に持ち込まれる」

 

「核を狙うしかない、ってことか」

 

 クロが指で紙を叩いた。

 

「そう。でも核は甲殻の内側にある。普段は絶対に露出しない。——ただし」

 

 ミルとクロが同時に同じ箇所を指差した。目が合って、クロが小さく笑った。ミルは笑わなかったが、否定もしなかった。

 

「ガルムは定期的に震動攻撃をする。その攻撃の直後——甲殻が一瞬開く可能性がある。記録の中に、その瞬間を目撃したという証言が一件だけあった」

 

「でも一件じゃ確証がない」

 

「だからこそ二人分のデータが要った。俺が見つけたのは震動攻撃のタイミングの記録で、お前さんが見つけたのが甲殻の開閉に関する観察記録。一人じゃ繋がらなかった」

 

 アスはレイを見た。レイもこちらを見ていた。同じことを考えている。どちらか一方のパーティーでは、この敵は倒せない。情報も戦力も足りない。

 

「——合同で行くか」

 

 レイが言った。提案というより確認だった。

 

「……そうするしかない」

 

 アスが答えた。認めるのは少し悔しかった。自分たちだけで挑みたいという気持ちがなかったと言えば嘘になる。でも現実が許さない。ミルの数字も、クロの情報も、そう言っている。

 

 素材の分配について話し合いが始まった。レイが最初に口を開き、アスも意見を出す。二人の視線がぶつかった。

 

「うちの前衛は俺だ。核を叩くのは俺がやる」

 

「——俺だって前衛だ」

 

「だから二人で、って話じゃねえよ。核を狙える瞬間は一回だ。その一撃を誰が担うかって話をしてる」

 

「それなら——」

 

「はいはい、そこ後で決めればいいから」

 

 クロが間に入った。ミルも無言で頷く。前衛二人が主導権を巡って張り合っている間に、後方の二人が具体的な段取りを組み上げていく。役割分担、陣形、撤退条件。ミルとクロのメモが合流し、一つの作戦になっていく。

 

 シアは腕を組んで壁にもたれ、黙ってそれを見ていた。格下だという評価は変えていない。ただ、邪魔はしなかった。

 

 ガルドは終始無言だった。テーブルの隅に立ち、腕を組み、話を聞いている。表情が読めない。けれど最後に一度だけ、小さく顎を引いた。了承の意だと、レイだけが理解しているようだった。

 

        *

 

 七人で門をくぐった。

 

 魔界の空気が肌を刺す。もう何度も通った道だが、今日は重さが違った。目指す場所が違う。第1層の奥。最深部。誰も行ったことのない場所。

 

 道中、自然と陣形が決まっていった。前方にレイとアス。中央にクロとミル。後方にシアとアテネ。そしてガルドが、全体を見渡せる位置に。

 

 レイの戦い方を初めて間近で見た。堅実だった。無鉄砲に突っ込むのではなく、一歩ずつ確認しながら進む。それでいて、魔物が出れば迷いなく前に出る。弱い自分を知っている人間の戦い方だった。自分の限界を把握した上で、その範囲内で最大の働きをする。

 

 似ている、と思った。同時に、違う、とも。レイには自分にない安定感があった。アスのような爆発力はないかもしれない。でも折れない。状況が悪くなっても足が止まらない。それは才能ではなく、積み重ねた経験の厚みだった。

 

 道中で小規模な魔物と数回遭遇した。処理は早かった。七人いると、これほど違う。三人で苦戦した場所を、息をつく間もなく通り過ぎる。

 

 ガルドの動きに、アスは途中から注意を引かれていた。巨体に似合わず足音が静かで、常に後方を気にしている。特にアテネの近くにいることが多かった。意図的かどうかはわからない。ただ、アテネが詠唱の体勢に入るたびに、ガルドが自然とその前に立っていた。守るというほど大げさではない。ただ、そこにいる。

 

 アテネも気づいているようだった。最初は警戒の色があったが、ガルドが一切話しかけず、距離も詰めず、ただ壁のようにそこにいるだけだと悟ってからは、少し肩の力が抜けたように見えた。

 

 一時間ほど歩いたころ、通路が急に広くなった。

 

 天井が高い。壁が遠い。足元の岩の質感が変わっている。これまでの狭い洞窟とは明らかに違う空間。広い。あまりにも広い。

 

 七人の足が止まった。

 

 静寂だった。魔界の奥にはいつも何かしらの音がある。魔物の唸り、岩の軋み、風の通る音。それが、ここにはなかった。音の無い空間。そのこと自体が、異常だった。

 

 全員が息を呑んだ。空気が重い。肌に圧がかかる。何かがいる。見えなくても、感じる。この空間の主が、どこかでこちらを見ている。

 

 地面が揺れた。

 

 小さな振動ではなかった。足元から突き上げるような衝撃が走り、全員の身体が跳ねた。岩壁にひびが入る音が、空間全体に反響する。

 

 闇の奥から、それが現れた。

 

 巨大だった。

 

 四本の足が地面を踏み、その一歩ごとに震動が走る。全身を覆う甲殻は灰褐色で、鈍い光沢を帯びている。岩を圧縮して固めたような、凄まじい密度の装甲。頭部らしきものはなく、甲殻の隙間から赤い光が漏れている。それが目なのか核なのか、この距離ではわからない。

 

 殻王ガルム。

 

 危険度4上位。その肩書きが示す意味を、全員が身体で理解した。空気が違う。あの危険度3の魔物とは、存在の格が違う。立っているだけで足が震える。本能が逃げろと叫んでいる。

 

 レイが剣を抜いた。アスも続いた。二人が並んで前に出る。

 

 後方でシアが詠唱を始め、アテネが支援の構えを取った。ミルとクロが左右に散り、それぞれの位置から全体を見渡す。ガルドが盾を構え、後衛の前に立った。

 

 七人の陣形が、一瞬で組み上がった。

 

 ガルムが動いた。

 

 前足が持ち上がり、地面に叩きつけられた。範囲震動。事前に聞いていたギミックだ。わかっていた。わかっていたはずだった。

 

 それでも、想像を超えていた。

 

 地面が波打った。比喩ではなく、岩の床が液体のようにうねった。全員の足元が崩れ、立っていられる者は一人もいなかった。アスは膝をつき、レイは片手を地面について堪え、シアの詠唱が途切れた。アテネが倒れかけたところをガルドが片腕で支えた。

 

 初手。たった一撃で、七人全員が体勢を崩された。

 

「——嘘だろ」

 

 レイが呻いた。同じ言葉が、アスの喉まで出かかっていた。

 

 体勢を立て直す間もなく、ガルムが前進してきた。四本の足が地面を揺らしながら、ゆっくりと、しかし確実に距離を詰めてくる。

 

「攻撃しろっ!」

 

 レイが叫び、剣を振った。甲殻に刃が当たる。硬い。金属を叩いたような衝撃が腕を伝い、刃が弾かれた。傷一つつかない。

 

 アスも斬りかかった。炎を纏わせた一撃。甲殻の表面を炎が舐め、一瞬赤く焼けた。だが甲殻そのものは無傷だった。熱は通る。しかし破壊には至らない。

 

 シアが詠唱を完成させた。冷気の矢が三本、ガルムの側面に突き刺さる。——否、突き刺さったように見えて、甲殻の表面で砕けた。エルフの魔法が、通らない。

 

「冗談でしょ」

 

 シアが初めて顔色を変えた。自分の魔法に絶対の自信があったのだろう。それが一切通じなかった衝撃が、その表情に出ていた。

 

 七人がかりで攻撃を浴びせても、甲殻に傷がつかない。これが危険度4上位。層のボス。人類が踏み込むべき領域の境界に立つ存在。

 

 ガルムの体側から、何かが伸びた。

 

 触手だった。甲殻の隙間から生えた灰色の触手が、信じられない速度で後方に伸びる。狙いは——シア。

 

 シアが反応する前に、触手が腕に絡みついた。引かれる。後衛の位置から、ガルムの本体に向かって。シアの顔が歪んだ。詠唱どころではない。

 

 金属音が響いた。ガルドだった。

 

 盾ではなく、自分の身体を割り込ませていた。触手とシアの間に入り、太い腕で触手を掴んでいる。引っ張られる力に、ドワーフの足が地面を削りながら耐えている。

 

「——離れろ」

 

 ガルドが声を出した。低く、短い。この男が声を発するのを聞いたのは、これが初めてだった。

 

 シアが腕を引き抜き、後方に転がった。ガルドが触手を振りほどき、盾を構え直す。一連の動作に無駄がなかった。

 

 アスはその光景を見ながら、同時に別のことを考えていた。考えていたのではない。ミルがそう仕込んでいたのだ。戦闘が始まる前に言われていた。「戦いながら観察して。私が見落とすものを、前衛の目線で拾って」と。

 

 震動攻撃のあと。ガルムの甲殻。何かが——

 

 見えなかった。混戦の中で、そこまで注意を向ける余裕がなかった。自分が生き残ることで精一杯だった。

 

 けれどミルは見ていた。

 

 戦場の端で、クロの隣で、二人は見ていた。ミルの目が、震動攻撃の直後のガルムの甲殻を追っていた。クロもまた、別の角度から同じ瞬間を捉えていた。

 

「——開いた」

 

 ミルの声が聞こえた。小さいが、確信のある声。

 

「クロ」

 

「ああ、見えた。震動の直後、二秒くらいだ。背中側の甲殻が開く。そこに核がある」

 

 二人の目が合った。資料室で突き合わせた推測が、目の前で事実になった。震動攻撃の直後、甲殻が一瞬だけ開く。その隙間に核がある。それがこの魔物を倒す唯一の道だ。

 

 ミルがアスの名を呼ぼうとした。作戦を伝えようとした。

 

 その瞬間、地面が再び揺れた。

 

 二度目の震動。今度は一度目より強い。天井から岩片が降り、空間全体が軋んだ。全員が再び体勢を崩される。アスは地面に片膝をつき、レイは壁に叩きつけられた。アテネの支援が途切れ、シアが詠唱を中断し、クロが転がった。

 

 ガルムの赤い光が、闇の中で脈打っている。

 

 方針は見えた。核を狙えばいい。震動のあとの一瞬を突けばいい。理屈の上では、それだけだ。

 

 けれど全員が消耗していた。たった数分の交戦で。まだ核に一撃も入れていないのに。

 

 アスは膝をつきながら、ガルムを見上げた。巨大な甲殻が暗闇の中で鈍く光っている。圧倒的だった。こちらの攻撃は通じず、向こうの攻撃は防げない。七人でも足りない。そう思わせる存在感。

 

 それでも、穴はある。ミルが見つけた。

 

 次の震動が来る。そのとき、すべてが決まる。

 

 ガルムの足が、ゆっくりと持ち上がった。

 

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