青い春に馴染めない黝の星   作:うへうへ学生

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黎明の訪れ

 ──リンの執務室……本来連邦生徒会長が座るべき部屋の扉が開いていた。

 

「……?」

 

 誰かが入った、とは考えられない。ロックして昼休憩に入ったし、仮にしていなくても扉は自動で閉まる。つまりこれは扉側に異常があるということになるが──

 

「……ライナさん?」

 

 入ってしまった、部屋の奥。

 窓の外を眺める人影は間違いなく夏雪ライナなのに。胸騒ぎが酷い。呼吸が上手くできない。

 そして。

 

「我が怒りは黎明も闇夜も木となりて、やがて林檎の実を付けた ──ほう、都合が良いな」

 

 刹那、銃を抜いて臨戦態勢を取った。

 声が、違う。低く、深く、奈落のような声。聞いた声でありながら全くの別物と表現するしかない空っぽな声。壊れたスピーカーが雑音を吐き出し続ける有様の如き独り言ですらない独り言。

 

 そして視界に入る、歪んだヘイロー。

 ある筈の無いものが出現している。

 クルリと振り返る、ライナであってライナでない者。感情という感情が無く、右目はそのままなのに、左目が宇宙の如き青へと変貌している、何者か。

 普段通りのアビドスの制服を模したコーディネートなのに、全く別物のように感じられるそれ。

 必然的に、リンは確信した。

 ……この者は、ライナではない。

 

「──"あなた"は何者ですか」

「オマエ、オレを呼んだか?」

 

 ギョロリと視線が動き、リンを明確に認識した。それは無機質なガラス玉のようで、同時に何かの期待が込められている。

 

「ええ、呼びました」

 

 しかし、ライナを知るが故に出てしまった──絶対の禁忌。

 それを認知したライナならざる者は静かに目を伏せた。失望、憐憫、悲哀、落胆……

 

「……呼んだか。そうか、残念だ」

 

 落胆した表情を見せたのは僅かな間。

 途端、殺意と憤怒を全身から溢れさせ──

 

「殺すが、死んでくれるなよ」

 

 リンとて相応の実力はある。

 そこらのチンピラなど相手にならない程には。だからこそ眼前の相手に手も足も出なかったこの現実に絶望するしかない。

 一瞬、たった瞬間と瞬間の隙間だった。リンが銃を構えるより早く、ライナならざる者は一切の前兆無く眼前に現れ、一振りでリンを弾き飛ばした。

 メガネが吹き飛び、地面に大きく打ち付けられる。

 

「一撃でこれか。ヤツが用立てた右腕にしては随分と惰弱な」

 

 現実を認識した時、意味がわからなかった。

 それはまるで精錬されたばかりのアスファルトのような漆黒の流体。それが槌の形を模っている。殴られたのは頭だ。纏まらない思考と鈍い苦痛に支配された身体が、眼前の異物に恐怖を植え付けられている。

 

「……相変わらず頑丈だな。殺す気でやったが」

 

 怪訝な顔をして調子を確かめるように何度か槌を軽く振る少年は、物騒なことを言いながらブツブツと分析を続ける。

 

「しかし、槌で頭を砕く時は──あの時と違い調子は戻っている。なら単純にこれはそういう仕組み、齟齬も起きているようだ。ということはつまり、双方共に攻撃は通りづらいな。差があるとすれば解釈と適応の速度。あとはそれを維持できるかできないか。基本構造の違い故にオレの方が早いようだ。形状は剣の方が良かったか。銃……アレはまずいからな」

 

 何を……言っている? 

 理解できない言葉の羅列。こいつは本当に何者だ。ライナと瓜二つ──いやライナそのものでありながら全く異なる。

 

「ああ、部屋は閉ざさせてもらった」

 

 リンが逃げようと視線を動かしたのを、本人より早く認識したのか、ライナならざる者はそう言うと黒い流体に覆われた扉を指差す。

 

「それと、実はこの部屋の映像機器の類は無効化しておいた。何も変わらぬ映像でも流れているだろうよ。よかったな、オマエをはじめオレとアレの違いをはっきりと認識できるモノは多そうだ」

 

 閉じ込められて、孤立無援。

 そして眼前の存在は自分の理解の外にある。詰みだ。どうにかできる訳がない。まさかここから身投げしても、死ぬだけだ。自死を選ぶか殺されるか、それしかないのかと絶望した時。

 カラカラと転がされてきたのは椅子だ。

 部屋の椅子が、リンの前に出されている。彼女を殴り倒した槌は、知らぬ前に消えている。

 

「オレは無益な殺生など好まん……お話をしようか。オマエを力で殺すより、オマエの心を踏み躙り、捩じ伏せ、へし折り、生きる気力を奪い取って殺す方が楽そうだ」

 

 冗談が本音かわからないことを言いながら、表情と声色を一切変えることなく、少年は静かに机の上に腰を下ろした。

 

「……立たないのか。死に真似などやめろ」

「──言って、くれますね……! 不意打ちで、頭を殴ってくれた奴がっ」

「ああ、酸素が遅れていたのと苦痛で歪んでいたのか。悪かった。どれ、座るがいい」

「メガネまで壊して……!」

「視力が悪いのか。すまんな。加減が効かん」

 

 ヨタヨタと立ち上がり、ようやく正常に戻りながらリンはとりあえず言うことに従い椅子に座る。本音を言えば何処に腰を下ろしていると激怒したいところだったが、先程のやり取りでこちらが何故か生かされているだけに過ぎないのはわかっている。

 刺激するのは得策ではない。彼女が座ったのを確認すると、少年は淡々と告げ出した。

 

「オマエたちは誰もあの男の味方をしていない。あの男はオマエたちの味方だが、オマエたちは庇護下にいる雛鳥だ。誰も対等ではない。味方をしているつもりでも、真に味方となっていない。オマエたちはあの男の背を支えてもいない。あの男の背に寄りかかるだけだ」

 

 ──先生の事を言っているのは明白だった。

 こいつはリンたち生徒が子供が、何をやろうが先生であり大人である者に寄りかかっているだけに過ぎないのだと、冷たく言葉の刃を突き刺した。

 

「それは大人と子供だから、ですか……!」

「違う。根本として対等にはなれない。オマエたちは暗闇に光あれと祈るだけ。あの男は暗闇に光あれと行動する」

 

 突然哲学的な事を言われても、飲み込むのには時間を要する。しかし少年は何一つ気にする事なく、自分の言いたい事を捲し立てるように続ける。

 

「オマエたち忘れられたモノどもの味方をする者がいないなら、誰か一人くらいは味方してやるべきだろうという考えはオレも賛成だ。だが構造として、一人に全てを押し付けて我関せずである現状には何も変わらん。縋る存在が、アレから変わっただけ」

 

 よくわからないが、先生がいることには彼も賛成らしい。だが縋る先が連邦生徒会長から先生に変わっただけで、大枠で言えば大して変わらない……そう言いたいようだ。

 

「ヤツもまた所詮は雛鳥。アレがどれだけオマエたちの前に立ち、あの男の為に舞台を整えようとも、対等な存在ではない。肩を並べ、横には立てない。そう、オマエたちはただひたすらに前に立つ者を孤独にすることしかできない」

 

 そして彼は連邦生徒会長すら所詮子供で生徒なのだから、リンたちも含めて全員が先生に縋り付いているに過ぎず、支える事などできていないと、極めて嫌な言い方で突き刺してきた。

 

「そして、オマエもまた孤独になりつつある。違うか。有象無象の愚物どもは、様々な塵に脚を取られてオマエの行動を理解しようともしない。まあ、オマエも自らの居場所の為に立ち上がった存在を割と邪険にあしらったようだから、これは自業というものか。どちらにせよ、オマエたちは王のいない王国を、王国のまま運営しようとして、王が頼んだ相手を王にしようとしてるだけだ。また、何処かで雲隠れされたら、今度は誰を生贄にするのかね」

 

 変わらないし変われない。それがオマエたちなのだから。どうせ先生が消えたら新しい先生を用立てるだけなのだろう? と悍ましい言い方で見て見ぬフリをし続けた現実を、まるで読み上げるような抑揚の無さで突き付ける。

 なのに──悪意が、無い。機械が読み上げているような、そんな歪さ。

 聞かされているリンですら困惑する程に、悪意と呼べる物がない。貶してやろうとか、侮辱してやろうとか、そういう物を感じられない。確かに言葉自体は悪く言っているが、悪く言っているだけだ。向き合うべき議題を正しく認識するように、淡々として現実を突き付けるだけで、そこから先の意図が見えない。まるで時間稼ぎのようでもある。

 本人は心を折った方が早そうだと言ったが、もしも、もしも無益な殺生を好まないという言葉が本当なら……と。

 

 半ば賭けるように、リンは尋ねた。

 

「──ライナさんは、何処ですか」

「ライナ? ……あぁ、そういえばアレは、そんな名前だったな」

 

 アレ、そんな名前。

 

「さあ、頭を回せ。オレを退けるには何がいいかを考えろ。状況を整理すれば答えが見当たるやもしれんぞ。できるかどうかは不明だがな」

 

 どういう訳か、相手はリンがこの状況を解決する事を望んでいるようだ。

 ならばやることは一つだろうと、彼女は代行を務められるだけの、その卓越した能力を駆使し始める。

 

「ゲマトリアという存在が……ライナさんを狙っていた。その答えが、あなたか」

「さぁな。ヤツらが欲しがってそうなモノは無限にある。ライナもその内の一つだっただけに過ぎないかもしれんな」

 

 要領を得ない答えだが、無いよりマシだ。

 リンは一気に、間違っているかもしれないが、ただなんとなく感じていたものの正体を突き止めにかかる。

 

「あなたがライナさんの中にいるなら、どうして──!」

 

 もしかするとこの存在は、ライナならざる、ライナの中に潜んでいた者なのではないかという仮説を。

 

「……そんなことなど、見てなかったからに決まっている。本に着いた黒ずみを蟲か黴か滲みか、それとも劣化か判別するにはじっくりと見てからでないとわからぬだろう。オマエは今、それに近い。本に付いた蟲を見ているが故に、その全体像を蟲と認識している」

 

 ──やけに。

 やけに丁寧に答えた少年は、まるで解決法を教授するように告げる。

 

「視野を広く持て。本を見ろ。目次を思い出せ。そこに着いている汚れなぞ、注目せずに払うのが筋というものだろう」

 

 ライナという全体像の中に、きっとこれがある。集中して、意識する。全体像はライナであり、こいつはその付属品。それ故にこれを見る時はライナであり──と。

 

「……ほう、上手くやるモノだ。あの女の右腕、伊達ではない。その権能は何処から……いや、こんな仕草はオレではない。──オレらしい? オレはオレにすらなれんのにか。ククク……」

 

 どうやら上手くいったようで、少年から放たれていた強烈な殺意と憤怒が消え失せる。そしてその奥に隠れていた雰囲気は──老成し切って疲れ果ててしまったような、そんな雰囲気。

 

「これが真実なのですか」

「いいや。真実ではない。が、嘘というわけでもない。全ては見るモノの次第で変わる。理解できない事象を通じて、理解できないということを理解できるのだからな」

 

 どういうことかと尋ねたのに、言葉遊びを始められては困る。しかも古則の話まで持ち出して。

 すぐに別の話題に、この状況を作った理由を問う。

 

「……私はあなたに殺されたくなどない」

「そうか」

「だが、あなたもできることなら殺したくない。違いますか」

 

 虚偽は許さぬと、毅然とした表情のまま告げてみれば。

 

「……オマエ、正面から行くのか。呆れたな。まさかオレが本気で答えると思っているのか。ならばそれは──」

 

 不敵な笑みが返されて。

 

「確かな洞察力と評価せざるを得ない。よくぞ気付いたな、コレが反射的な行動であるということに。そうだ、オレの意志としては別に殺戮を望むわけでもない。だがオレの存在は、オレを見つめるモノを破壊したい。状況が幸いしたな。その上、無益な殺生は好まないと言って、信じてもらえるのは気分が良い」

 

 ……なんだか、肩の力がドッと抜けるような事を言い出した。つまりなんだ、こいつは別にリンを殺したい訳でもなくて、たまたまリンが攻撃対象に選ばれる条件を満たしてしまったからこうしたというわけで──

 それで死を覚悟する一撃を撃ち込まれるなど、たまったものではない。故に抗議が言葉に出て当然である。

 

「今更えらく自分語りをするんですね。早くそれを教えてくれれば、こうもならなかったでしょうに……」

「事故だ、許せ。それになんだ。わざわざこんな、重要なことを隠して話すとでも思ったか。バカバカしい。オレだって起きたくて起きた訳ではない。ほれ、さっさとオレを引っ込めろ。オマエたちの相手はアレがしなければならんだろう。知人のフリでもしろというのか」

 

 事故かよ。もううんざりした表情も態度も隠さない。面倒事が増えるばかりだったが、ライナ関係の面倒事は意外と増えてなかった。なのにここで特大の面倒事を放り込まれるとは。現実とは常に残酷である。

 とはいえ、分析はやめない。放たれた言葉から必要な情報を掴み取り、尋ねなければならない事を適切に判断する。

 

「これは私一人だから、マシだと?」

「ああ。しかもオマエはライナを見れる。相当にマシだ。その上、オレたちに関係した存在でもない。遠いが故に舵取りを効かせやすい。オマケに頭も硬いしな。オマエで良かったよ」

 

 それで殴られたこっちの身にもなってくれ。

 

「じゃあ早く教えてください。あなたを引っ込める方法を」

「ふむ。教えていいんだが……おい、オマエ。アヌ──いや、ええと、なんだっけ。ああそうそう。確か今は……砂狼シロコだったか。アレを知っているな」

 

 ……もしかしてこいつ、色々な理由でおかしいだけで、元々は結構愉快な奴ではないか? そう思ってしまった。

 

「? はい。それがどうかしましたか」

「オマエ、アレがライナに惚れてるとは……あぁ、まぁ、流石に知らんよな」

「──ま、まさか……」

「強く感情を動かすような言葉を投げてみろ。一例として挙げたが……まあ乙女の秘めたる純情を、知らぬところで暴露するのはいかんだろう。やるなら上手く言葉を弄せ。そしてもちろんオレを見るな。わかったな。上手くやれよ」

 

 急に無理難題を押し付けられた。

 人の恋心を今知って、それを教えるなりなんなり、そういうレベルの衝撃を与えろと? 無茶言うなとする以外に無い。リンだってそこまで愛想が良い方でもないし、なんならあまり隠さずに生きてきた人間だ。

 

「私だってそんな経験ありませんよ。それを上手く伝えろってどうしろと……!」

「オマエにあの女の代行を務められる能力があるならば、と信じたのだが……所詮、肉付きがいいだけの生娘か」

「きっ──!?」

「とにかくなんでもいい、上手く何か言え。早くしろ。オレとていつまで抑えられるかはわからん」

 

 こ、この野郎。ど直球のセクハラかましてきやがった。更に急かしてくるし。

 不愉快極まりない相手だ。さっさと消えてもらって、ライナと変わってもらおう。

 

「なら、一度しか言いません」

「ほう」

 

 恋心を明かすのは論外。

 ならばリンに残された、ライナの感情を強く揺さぶるであろう選択肢は──

 

「……いつも、ありがとうございます。憎い気持ちもあるだろうに、それでも私たちを信じてくれて」

「──そういう言葉が一番効く。中々どうして」

 

 どうやら正解だったようだ。

 表面上は鉄面皮の為なにもわからないが、少年にとってそれは正しいことだったらしく、ヘイローが点滅を繰り返す。

 

「おい、聞け。オレはオレを見た者、呼んだ者を認知する。そして憎悪し、憤怒のままに行動する。眠っていても見つけてしまう。これはオレがオレであるが故に。オレですら止められん。オレの始まりは憤怒、憎悪、嫌悪、拒絶……これくらいは知る権利があるというもの。オマエはあの男に告げるだろう? 上手いこと伝えてみるといい。ただ気を付けろよ。真にオマエがオレを見て、オレを呼び、オレに触れるならば、今回のように歯止めを効かせられると思うな」

 

 今回は例外だから平和的に済んだが、もし本当にタブーを行うならば容赦は出来ない。その言葉には自らを沈めることに協力してくれたことへの、確かな感謝の念があった。気味が悪いが、しかしこの少年の本音なのだろう。知る権利をリンが得たならば、それで悲劇が起こるかもしれなくても、知っておかねばならないことなのだと。

 

「──さて、起きろ」

 

 そう呟き、ガクンと少年は項垂れる。

 それから少しして、呻きながら起きたのは──両の瞳が銀の少年、ライナであった。

 

「うっ……なんだ、ここは──連邦生徒会の……?」

「大丈夫ですか、ライナさん」

「リン行政官──!? 俺は、確かにここら辺来るとは思ってたけど、どうして……? バイクは!?」

 

 ──記憶が途切れている。

 そしてヘイローは点灯することもない。

 間違いなく、リンの知る夏雪ライナだ。不安気に辺りを見渡してはいるが、間違いなくライナだ。

 ここに来て初めて──何処か超然とした印象さえ持っていた、夏雪ライナという人間が、自分たちと何も変わらない誰かに縋ってでも両の足で立ちたいと足掻く子供ではないかと思えた。

 

「色々ありました」

「い、色々って……」

「ですが、あなたの記憶が途切れていると言っても、恐らく報告にあったこととは別でしょう。ほら、襲撃事件で記憶が途切れていたことと。現に手を見てください。何も持ってないじゃないですか」

「本当、だ。なら──あれ? メガネは?」

「失くしましたが何か」

「あ、そう、なの」

 

 あからさまに何か隠しているような言い方だが、ライナ自身もあまり深く突っ込む気はなかった。というよりも、やってはいけないような気がしていた。

 

「えーっと、なんだ。お邪魔、しました?」

「ええ。顔を出してくれて、ありがとうございます。でも早く帰った方がいいですよ。こんな時間に私と会っていたなど、アビドスのみなさんに要らない邪推をされても困るでしょう」

「あっやっべぇ! ごめん!」

「バイクなら近くの駐輪場に停めてありましたよ」

「サンキュー!」

 

 ドタドタと大急ぎで去るライナを見送り、リンは静かに傷口を鏡で見る。──特に痕は無い。それどころか、奴がいた時からそうだが、痛みが引いていくスピードが早い。まるで、リンがあれで殴られても単に痛いだけで、実際には全くダメージになっていないような──

 

「……とりあえず、メガネの予備を出さないと」

 

 疑問には蓋をして。

 とりあえず、業務だけはやってしまおうと。

 リンは、今は仕事に集中し始めた。

 

 

「先生、伝えねばなりません……夏雪ライナを、見てはいけません。私はそれと出会い、そして見てしまいました」

 

 急な連絡だったから何かと思えば、抱えていた爆弾が爆発したような気分だった。

 諸々の混乱はとりあえず落ち着きを見せたが、しかしまだまだ時間を要する……そんな時に、先生はリンがわざわざ直接顔を出して、口頭で伝えてきた内容で頭を抱えるハメになった。

 

「ライナさんは異物です。ですが異物とは言い難い。私には伝える手段が限られています。全て真に受けず、裏を読み取ってください」

 "リン、何があったの?"

 "教えてくれないかな"

「教えられるのはこれだけです」

 "そんな、アイみたいなことを──"

 "……まさか、ライナ関係で何か?"

「申し訳ありません。他に言えるとしても、見るな呼ぶなということだけです」

 

 リンですらこれなら、アイの一件は相当にギリギリを攻めたことだったのではないかとも感じられる。ライナの味方であるが、アビドスや連邦生徒会長を侮辱するようなことを言っていた彼女。抱えている秘密が、このように複雑かつ巨大であればそうもなろうというものか。あるいは──

 必要最低限の連絡で済ませるのにも訳があるのは明白であり、それしか話せないことを謝罪したリンが去った後、アロナの方から話しかけてきた。

 

「先生……リンさんはきっと、何か重要な手掛かりを掴んだ筈です」

 "でもそれは言えない"

 "裏を読み取れって"

「それは、きっとアイさんが言えないのに教えに来たことと同じで──リンさんを信じましょう、先生」

 "うん、そうだねアロナ"

 "あの子が教えてくれた事を、信じよう"

 

 夏雪ライナを見てはいけない。

 夏雪ライナに触れてはいけない。

 ──そして異物だが異物とは言い難い。哲学的なヒント。何があったかさえわからないが、とにかくリンはライナ関係で何か……待てよと。

 ライナさんという言い方と、夏雪ライナという言い方。分けられた二つ。

 思い出す、黒服との会話。『彼』、黒服はずっとそう言っていた。そして先生は、これはライナを指している言葉でないと理解していた。

 

 ならばリンが出会ったのは──

 

 "『彼』が、遂に現れたということになる"

 "でも、何故──?"

「やめな」

 "──アイ"

「や。センセイ、箱の管理者。ちょっと状況が変わったから警告しに来た」

 

 唐突にシャーレ内部に現れた件の人物。

 だがその表情は真剣で、かつて会った時のような何処か見下したものは一切感じられない。それだけ今回起きた事が重大であることを如実に語っている。

 

「……厄介な事は起こらない。まず安心して欲しい」

 "リンが、『彼』と──"

「誰か、ゲマトリア辺りがちょっかいをかけてきたのか……リンちゃんがアイツと遭遇するのは通常あり得ない。今は確か、あのほら、トリニティとゲヘナ、そしてアリウス関係の話がまだ落ち着いてないんだろ? 薄々とはわかってる筈だ。ヤツらの後ろにいるのは──」

 "うん、わかってる"

 "とりあえず、向こうの再編成が終わるまで待たないと……"

 

 何故知っているかなどこの手の相手に問うことは愚かだ。だから気にしない。

 先生が本格的に首を突っ込めるようになるのは、まだ先だ。どうなったかを確かめるとか、色々やりたいことはあるが……あれ以上やたらと首を突っ込むわけにもいかない。故に時間が必要だった。

 その時になれば、ナギサが呼ぶだろうと信じて。

 

「それでその、何があったんですか」

「説明はできない。リンちゃんから聞いた通りだよ。見るな、触れるな。それが全てだ」

 "だから君は、この事態を想定して色々動いていた"

 "最悪が起きた時、私たちが予想して動けるように"

「とはいえ、今回は完全に想定外だけどね。やられたよ、畜生……前回黒服が起こしやがった時は、まだ取り返しが簡単につく程度だったけど……」

 

 ──やはり。

 ゲマトリアとてそうそう起こすような存在でもないし、黒服は慎重に慎重を重ねて動いていたようだ。ホシノを手中に収めるべく入学当初からずっと動いていたような存在が、思い付きで行動するなど奇妙。当然にそれは、長い年月をかけて思考・検証し、手に負えない状況にならないように調整した結果生じた物。

 

 "色々、ありがとう"

「気にしないでよ。ボクはライナの味方だ。それ以上でも以下でもない。それにキミらに喧嘩売ったのも事実だからね。感謝されるとむず痒いし申し訳ない。──ったく、恋のレクチャーした後にこれかよ……素直に応援させてくれっての」

 "シロコにしたの?"

「まぁね。明かせる程度の情報は多少開示したけど、まさかこうなるとは」

 

 アイからしても冗談ではない。

 ゆっくりと時間をかけて恋の成就と共に丸く収まる方法を考えていたのに、ゲマトリアの内誰かが愚行を犯した結果、いきなり事態は急展開を起こしてしまった。

 その上、下手をしたらリンが死にかねない状況など。誰もそんなことは望んでもいないというのに。

 

「……言えることは少ないが、気にせずってのも無理か。そうだな──いいかいセンセイ、管理者。キミたちはライナを見るんだ。いいか、ライナをだ。全てライナという本質に従属するモノだと思う。そうしていれば、仮にアイツが現れても荒事になる事は無い」

「ライナさんの中には、何が」

「それも言えない。言ったら、アイツはキミを見る。そして殺す。そうなって欲しくない」

 

 呼ぶな、見るな。呼べば殺す、見れば殺す。

 呼ばず、見ず。呼ばなければ現れず、見なければ現れない。

 非常に哲学的だが、実のところアイの言いたいことは先生にはボンヤリとわかっていた。つまり気にしてはいけない。中身がどうのこうのと考えること自体が無駄。ただ在るが儘に見て、ただ在るが儘に触れる。それ自体は先生も得意とすることである。

 そんなことを言われても、生徒は生徒なのだからと。まぁそうやってどっち付かずをしている自覚はあるが、さりとて──先生は、もっと完璧であるべきだと自分を消し去り、迷いを斬り刻むことを望む。……望むだけで、できるとは一言も言えないのだが。

 

 "とにかく、気にしないのが一番の対策なんだね"

 "じゃあ、そうしよう。ね、アロナ"

「うう……はい。仕方ないとはいえ、歯痒いですね」

「本当は、こうする必要もなかったんだけどね……クソ。予定は変更してしばらくはライナを陰ながら見守る事にするよ。一度起きたんだ、二度あるかもしれない。何かあったら、ボクも介入する。もちろん居合わせた生徒も守る。それでいいかい」

 "お願い"

「それとできる限り、最悪を想定して対策しておく。あとリンちゃんから伝えられた事は、ライナには絶対に伝えないで」

 "もちろんだよ"

 "……きっと、知ったら耐えられない"

 "アビドスの悪魔になっていた、あの子なら"

 

 途端、アイの様子が豹変した。

 その言葉を聞いた瞬間から、虚偽を一切許さぬと、以前さえも見たことない視線を投げ付けてくる。

 

「──誰経由で知った」

 "薄々とは勘付いてた"

 "でも明言したのはゲヘナの風紀委員長、ヒナから"

 "……そして、彼女の事も"

「あの角付きか。覗き見してたのは知ってたが、知らんところでよくもまぁ……とにかくホシノとライナの前で、彼女の事は絶対に触れるなよ」

 "うん"

「なら、いいんだ」

 

 ──不思議だった。

 ライナはともかく、ホシノについても気遣うなんて。

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