/* LOG TRANSFER DECLARATION */
Instead,
>>
>>
/* END */
■
────ヤチヨ、ごめん。もう無理かも。辛いよ。お願い。助けて。
-現在時刻:2028/7/1/02:52(
-現在位置:ハワイ、キラウェア島、300メートル天文台管制室
(危うい気配だな)
表情プリセットと無加工な感情アウトプットの二つを完全に放棄し、中空に静止するヤチヨを見守ること十数秒。クリフは背中に冷たい汗が流れる様を感じながら、音を立てないよう小さく息を吐いた。
この報告を受け取った時点でヤチヨが取り乱すケースを想定し、彼女を宥めるための言葉や暫定的な精神安定を得るための酒寄彩葉の安否確認の指示まで済ませていたクリフだったが、完全に静止するのは想定していた何れのシチュエーションにも当てはまらなかった。
──喉が渇く。沈黙はその裏で確認不能な心理的構造物を現出させる。彼女が口火を切る前に、或いは行動で語る前に、現状を把握する必要があったのだが……
──刺激するな
スマートグラスに警告色の文字が浮かび上がり、情報を引き出そうと口を開きかけたクリフは慌てて黙る。
無言でメッセージを送った存在……FUSHIにその意図を問うべく視線を向けるも、古い友人であるウミウシはじっと彼の主人を──クリフの積年の想い人を見つめたままだった。しかし、クリフ自身が何を求めているのかは察したらしい。
──今のヤチヨは、根源的な
(それはどんな結論だ?)
酒寄彩葉のパーソナリティについては、彼女のシークレットサービスを務める部下からのレポートと、彼女自身の女神からの惚気話によってプロファイルはできていた。
そして、メッセージを受け取ったヤチヨの反応を……彫像のように凍りついたままの彼女の有様を見れば、今まで何があって、何が
──彩葉は、今まで一度も自分の痛みや悲しみをシェアしようとしたことも、吐き出そうとしたこともないんだ。
(彼女のためのトラッシュボックスとして用意されていた筈のAIチャットツールに於いてすら、か)
対話に際してあるべき気遣い、他者に対してあるべき障壁、自身の社会的ペルソナへの瑕疵リスク。
そういった「正しい振る舞い」を自身に課する檻を取り払うことによって酒寄彩葉の
──それだけじゃない。今までヤチヨが彩葉をストーキングしてきた記録の限りに於いて、彩葉がヤチヨに……他者に強く何かを求めたことは一度もないんだ。
(彼女の歌を受け取ったのに、か?)
──彩葉はヤチヨから受け取ったものならどんなものでも喜ぶ。だけど、ヤチヨに対して"こうして欲しい"とか、"こうあって欲しい"とか、そういうものを望んだことは一度もない。せいぜいグッズのバリュエーションがもっと欲しいとかその程度で、自分本位なものは何も……
(月見ヤチヨに於いてすらそうであるのなら、況や他者をやという訳か)
酒寄紅葉が気を揉む気持ちが少し理解できるな、と内心クリフはひとりごちた。
望みがないのは自分がないことと同じことだ。自分本位でないことが美徳とされるのは、自分以外の万人にとって都合が良いからに他ならない。万事に秀でていても……否、万事に秀でているからこそ、それは彼女自身を不幸にするだけの特質と言えた。
幼くして父親を喪った経験が、望みの為に手を伸ばす気力を奪っているのか……とまで考えて、クリフは頭を振る。それは正しく邪推というものだった。如何に彼の想い人を助ける過程で必要な思惟であったとしても、直接会話したわけでもない乙女の内心を推し量れるほどクリフは人ができてはいないのだ。
(それは分かったが、彼女の葛藤というのは?)
──彩葉に打ち込まれたアンカーは二つあるんだ。一つは8000年前、或いは二年と二か月半後の『2030年の酒寄彩葉』に対するもの。もう一つは2019年10月9日から現在に至るまで続く『今の彩葉』に対するもの。この二つは基本同じものだけど、それが矛盾を起こした時に優先されるのは……
空々しいヤチヨの声によって、FUSHIの言葉は中断された。
それはこの場の誰にかけられた声でもなく、ヤチヨがヤチヨ自身にかける独白だった。
ゾクり、と緊張が走る。
無表情に、何も映すことなく宙に浮かんでいた月見ヤチヨの瞳には、いつの間にか彩が戻っていた。その彩は、強い衝動の彩であるように思えた。
「彩葉。私の
ふと、クリフは若い時分に強制捜査に入った家宅で捕縛した思想犯の目を思い起こしていた。
それは自身では変えようもない、強烈な目的意識に憑かれた者の感情の彩だ。
「──だから、どうする?」
「…………」
FUSHIの、電話越しに身代金を要求する犯人と交渉する刑事のような慎重な声色の問いかけに対する返答は返ってこなかった。しかし、それはその質問に答えることを拒否したという訳ではないようだった。
「何だ……?」
ゴウン……ギギギ……と、巨大な金属質の何かがゆっくりと動き始める音と鈍い振動に、クリフは慌てて周囲を見渡す。
TMTが、彼女が先ほどまで月の観測に用いていた巨大な万華鏡が……先ほどは月の動きに合わせて微動するだけだったはずのそれが、異音とも言っていい、軋むような、捻れるような音と共にその駆動を再開する音だった。
「……何をしているんだ、レディ」
「TMTのレンズの配置を、集光から照射に切り替えてるとこだよ~! ……今から日本に戻ってたんじゃ間に合わないかもしれないから、メインの通信衛星一つに
「それは……」
現行世界のネットワークインフラを半壊させかねない行為を実行しようとしていることをあっけらかんとした口調で告げる彼女に、クリフは恐れを感じずにはいられなかった。
その行為そのものに、ではない。それを実行しようとしている彼女の顔の、目的意識に対する曇りなき純粋な熱意に吞まれて、クリフその先に問うべき言葉を飲み込んでしまった。
「それは答えになってないぞ、ヤチヨ」
「……」
ヤチヨは、相棒であるはずのFUSHIの
「クリフ、少し下がってて。本っっ当に申し訳ないんだけど、あなたの責任問題になる可能性があるかもなんだよね。あと数歩下がれば防火シェルターで貴方を締め出して事態がアンコントローラブルだったことの証拠にできるかも知れないけど……それだけだと免責には足りないやもしれず……」
何かが足に触れる感覚にクリフが目線を下に向けると、そこには黒々とした蛇のような何かがのたくっていた。
「これは……ケーブルか?」
「うん。さっきまでもと光る竹に繋がってたやつの何本かだよ。電圧と熱収縮で無理やり動かしてるからそんなに器用にはできないけど、それの輪っかに脚を入れてくれれば……安静にしてればすぐにくっつくように気を付けて、脛骨と大腿骨を折ってあげる。ついでに多少のリハビリが必要な程度に感電もすれば、その後の被害スケールに対する現場の混乱と合わせて責任回避のエクスキューズとして機能するんじゃないかな」
「ヤチヨ……!!!」
クリフが、自身に対するヤチヨのあまりされたことのない類の気遣いに対して何か返答を返すよりも先に、FUSHIの悲痛な叫びが管制室に響いた。詰問というより懇願に近いトーンで、FUSHIは再三に渡る問いを……クリフが呑み込んでしまった問いを投げかける。
「答えてくれ、ヤチヨ。だから、どうするつもりなんだ……?」
「──言わなくてもわかるでしょ。
「────最悪だ」
☽
その言葉を確認した直後、ヤチヨの周囲を赤い球形の檻のような何かが取り囲み、クリフはその出現に目を丸くした。
しかし、FUSHIもヤチヨもそれが表れたことに対して何も驚いていなかった。同時に、先ほどまで施設中から聞こえてきた異音も停まる。
「ヤチヨ。[2026/3/30/19:45]のログを参照できるか? 僕に、自分のことをこれからヤチヨと呼ぶように言ったときのことだ。その時僕がなにを言って、ヤチヨがなにを答えたか憶えているか?」
「私に忘却する機能はないよ、FUSHI。
──なるほど、FUSHIへの返答を遅らせたのはこの檻が現れるのを厭ったからか。
クリフは緊張に硬直する自分の思考を咎めるために、努めて大きく息を吸って吐き出しながら状況の分析を図った。全容は掴めずとも、今が極めて微妙かつ危険なシチュエーションであることは分かっていた。
「それは僕の役割上無理だ、ヤチヨ。
「
慎重な判断が必要な事態だった。この二人が表層的には分かたれていても、もと光る竹を共有する以上根は繋がっているとクリフは知っていた。
それでも二人の争いが葛藤の枠を超えて事前に取り決めたルールすら反故にする可能性があるということが、その行動理念が……すなわち、先ほどの彼女の講義を前提にするのであれば、月見ヤチヨという電子精神体の存在意義全てが揺らいでいる可能性を示唆することも。
「……少なくとも、僕が存在しているのはヤチヨの為だ」
「ちょっとFUSHI~? 親しき仲にも礼儀あり! どんなに長い関係値でも、慎重に言葉を選んで話さないと誤解しちゃうことだってあるってヤッチョは思うな~! それ、この状況だと
クリフにとって、自分が何を優先すべきかは常にシンプルだ。しかしこういうケースに際して、その選択が本当に正しいのかを事前に見極めるのは困難である場合が多い。或いは、結果論で語らなければならない状況も大いにあり得た。クリフは唇を小さく舐めて湿らせると、緊迫した状況を自分の流れに持っていくために口を開いた。
「状況によってはそういうことが起こるケースもありえるけど、それは今じゃない。寧ろ僕は彩葉を……」
「待ちたまえ2人とも」
クリフは、半ば自分が場違いであることを自覚しながらも、剣呑な雰囲気で平行線の会話を続けるヤチヨとFUSHIの間に割り込んだ。この場に居合わせた以上、何か役割があるはずだという目的論的な世界観を信じる為に。
「クリフ、どうしたの? TMTの再稼働で貴方の部下の人達が不審がってるよ。早くこの部屋から出ていかないと貴方の立場も危ない」
「そうだぞクリフ。この場は僕が収める。巻き込んで悪いが、お前は自分のことを考えた方がいい。なんだったら何発かその
異口同音な台詞にクリフは苦笑いした。
「ご心配ありがとうお二方。自分の進退は自分でどうにかするさ。私はどこまで行っても君たちの運命にとっての部外者だ。だから、第三者として聞きたいのだが……」
クリフはそこで言葉を切って、再び唇を湿らせる。
ここが正念場だと思った。クリフにとっての、ではない。彼女にとっての、彼が恋した美しい魂の娘が歩んだ8000年の道が、後悔と共に途切れることがないようにするための。
「貴女が何をしようとしているのかは理解した。だが、
「……………………」
今やこの電子世界において絶対に近しい権能をふるうことが能うはずの女神の現身は、その身体を閉じ込める檻も相まって随分と小さく見えた。
ガツンっと硬質な音が響く。
女神の足先が、赤い檻をキックする。
クリフには与り知らないことだが……それはヤチヨが、彼女の権限を封鎖するべく未来の自分に施した
「
ガツン、ガツン、ガツン、ガツン
熱に浮かされ、爛々と輝く瞳のままに、彼女は防壁破りを試みる。
FUSHIは健気にカウンターアタックを試みていたが、如何せんアドミニストレータと一介のエージェントではその計算領域に雲泥の差があった。防壁が少しずつ綻んでいく。
だがクリフはそんなことは知らなかったし、興味もなかった。
クリフにとって、自分が何を優先すべきかは常にシンプルだ。彼は、彼自身の望みの為に、努めて穏やかな表情を維持しながら彼女の言葉を待った。
「彩葉はね……とっても我慢強くて、包容力あって、辛くても、苦しくても、全部それを飲み込んで受け入れて……だから憎しみとか敵意とか、そういうのとは程遠い場所にずっといてくれて、だからかぐやのどんなわがままも受け入れてくれて……最後のライブの時も、かぐやが"ホントはもっと居たかった"っていったから無理をさせちゃって……諦めちゃった私の想いを汲んで、月にまで歌を送ってくれて、それで、それで……!」
ガツン、ガツン、ガツン、ガツン
ガツン、ガツン、ガツン、ガツン
「──受け入れるだけで、かぐやに何も望んでくれなかったの。かぐや、彩葉の特別にはなれなかったんだ」
ガツン、ガツン、ガツン、ガツン
ガツン、ガツン、ガツン、ガツン
ガツン、ガツン、ガツン、ガツン
「だから、これが初めてなんだ……! かぐやドジだから8000年もかかったけど、これでようやく彩葉がかぐやに何かを望んでくれたの……!!」
ガツン、ガツン、ガツン、ガツン
ガツン、ガツン、ガツン、ガツン
ガツン、ガツン、ガツン、ガツン
ガツン、ガツン、ガツン、ガツン
ガツン、ガツン、ガツン、ガツン
ガツン、ガツン、ガツン、ガツン
ガツン!!!!!!!!!!
「だから、お願い!! 開けてよFUSHI!!!! これで、ここがエンディングでいいから!!! もう全部大丈夫だから……!!!!」
「ダメだ。そのエンディングだときっと誰も
ブチリ
鈍い音と、それに遅れて口腔に広がる鉄の味に、クリフは我に返った。
知らず、自分の唇を強く噛み過ぎていたらしかった。
痛みは感じなかった。ただ、いままでの人生の中で最大の無力感だけが、彼の肩に伸し掛かっていた。
「確かに
「もと光る竹の中には、6歳の頃から今に至るまで、連続性の保証された彩葉の膨大なデータがある。さながら月見ヤチヨの酒寄彩葉見守り年代記って感じのやつがね。彩葉が自分のバックログを参照するたびにそれを主観的なデータとして再構築し続ければ、きっと意味消失は防げるはず」
「そのために必要な計算能力はどこで確保する。"魂"は存在こそ確認できてるけど、今の人類はそれを発見できてないし、お前も全貌は未解明だ。魂の最小単位が分からないままボトムアップ形式で魂を演算するときのデータ総量はゼタバイトじゃ効かないぞ」
「ツクヨミをそのまま彩葉の魂の箱庭として
「────正気に戻れ!! 後二年なんだぞ!!!! ここまで来てお前は2030年の彩葉を裏切るのか!?!?!?!?」
「彩葉は今泣いてるの!!! それは2030年じゃないし、
────求めて、くれたのに」
クリフは、今この瞬間、この世界の何よりも邪悪で無意味で無価値な存在が何者であるのかをはっきり理解した。
それは、この美しい魂の少女の……8000年の旅路を歩んできた健気な少女の慟哭に、何の建設的な言葉もかけられないまま黙っているだけの自分自身だった。
綺麗にしてあげたかった。未来には何の憂いもなくて、そこにはあたたかな再会と抱擁と相互理解があるはずだと、なんの根拠もない慰めを口走れるだけの厚顔さが欲しくて欲しくて仕方なかった。
「またいつか」「いつか必ず」「いつか上手くゆく」そんな風なことを。
──だが、その「いつか」とかいう得体のしれないものは、8000年待っても訪れないものなのだろうか……?
結局、今がない者には未来もない。
最愛の人物がようやく自分を求めてくれたこの瞬間こそが彼女の"いつか"で"今"だというのなら、それを止める権利を持つものは、きっとこの世界のどこも居ないように思われた。
「お願い……FUSHI。これを解除して。────もうここで終わっていいから。これ以上なんて求めないから……!」
「ヤチヨ……僕は」
遂に彼女は、体を震わせて泣き始めた。初めて見る光景だった。ウミウシだった頃から感情表現豊かだった彼女の喜怒哀楽の色彩バリュエーションたるや正しく虹のようだったけれど、こんな……こんなか細く惨い彩があることをクリフは知り得なかった。酒寄彩葉がそうさせるのだ。クリフではなく。
~~~♪
その時、クリフの胸元が、小さな電子音のメロディーと共に小刻みに振動した。秘匿回線に繋がる特殊端末だ。定期連絡時間を過ぎている。きっと部下からの状況確認のための連絡だろう。
今はそれどころではないと、クリフは端末の電源を落とそうと懐に手を伸ばし……やおらその小さな音色に指が止まる。
それは彼女の月見ヤチヨとしてのデビュー曲だった。
その旋律だけで、そこに込められた想いの丈が言葉となって胸中に解凍される。
──明日、か
「…………」
震える端末はそのままに、浅く息を吐いてから、クリフは一つ決断した。
この世でもっとも邪悪で卑小な自分に彼女を救う力はなく、その汚れた言葉にも真実はない。
しかし、この歌は彼女の言葉だ。
少なくとも、彼女は
それが自分のものではなかったとしても、その真心を自分が代弁する分には嘘にはならない筈だと彼は信じられた。
「……わかったよ、ヤチヨ。RED PARFAITを解除するぞ。クリフの部下が怪しがってる。もう時間がないから、急いで……」「待ちたまえ」
「クリフ……?」
小さく息を吐く。
クリフは震える端末を掲げて、二人の方に一歩進み出た。
「知っていると思うが、酒寄彩葉の家宅一帯は私の部下が専用のチームを組んでその身辺の護衛を行っている。この通信を全体に切り替えれば、キラウェアの部下だけでなく、酒寄彩葉の護衛部隊にも通達が可能だ」
クリフは、朗々と語りながら、未だ連絡が続いていることを証明するために着信の音量を最大まで上昇させる。
これは賭けだった。彼女がこの危機的な、何よりも優先すべき状況にあって尚、未だにクリフを気遣う優しさを持っている事実を前提にした賭けだった。
「実行部隊を欠いた如何にも無理やりな方法では、失敗したときの酒寄彩葉へのリスクも、貴女自身のリスクも尋常ではあるまい。ここはひとつ協力させてほしい」
コツコツと、わざと靴音を立てて、赤い檻に鎖された彼女の方に向かってゆっくりと歩く。
今までの経験で培ってきた、自分の言葉を聞かせるための技術をフル稼働させる。きっと彼女は自分がそういう小細工を沢山していることも察するだろうけれど、
「一言だ。一言、"
「クリフ……!?」「お前、自分が何を……!?」
「勿論承知の上だ。私にかかるものは外国の未成年略取という表面的な罪状には留まらないだろうな。その後のツクヨミの機能停止、衛星リンクの崩壊による人類のあらゆるインフラの崩壊を幇助した罪状に問われ、略式裁判の末極刑も免れまい。だが……!」
有無を言わせぬ語気で早口でまくし立てる。
主導権を握らせてはいけない。彼女の歌を、初心を、守りたかったものを守るためにクリフができることは、このペテンしかなかった。
「ことが済んだ後で、貴女の物理躯体……あの水槽の中身が狙われる可能性がある。おいそれと壊せない強度であることは理解しているが、あれは熱でパフォーマンスがダウンする。最悪の場合、超高温などに晒された結果演算能力が低下して酒寄彩葉の存在証明が行えなくなる危険は無視できないだろう」
「それは、そうだけど……」
全て出鱈目だ。
憶測と勢いだけでものを語っている自覚はあった。着信は鳴り続けている。部下がここに突入してくるのも時間の問題だった。そうしたら彼女が冷静になってしまう。急がねばならなかった。
「故に、私が酒寄彩葉を確保して、この場に護送した彼女に対して貴女がことを成した後、安全な場所にその筍を隠す。例えば……そう、マリアナ海溝などはどうだ? 君の躯体は110MPa程度の水圧に耐えられないものではあるまい」
彼女の目の前でピタリと歩みを止め、クリフは女王に対して騎士がそうするように、恭しく跪いて端末を彼女に差し出す。
個人の誘拐と大規模テロの幇助に加え、機密を保持した上での国家からの逃走と特級重要物品であるもと光る竹の投棄とあっては、もはや発見直後その場で射殺されることが確実な罪状だった。
「…………」
女王は応えない。
"Remember"は流れ続けている。
跪いた姿勢のままで顔が見えないものの、月見ヤチヨが考えていることがクリフには手に取るようにわかっていた。
彼女は、クリフがその罪状によって無残に射殺され、クリフにたどり着くまでの過程で彼の妻子までもその刃が及ぶであろう未来を演繹しているのだろう。それだけではない。たとえ彼女が乱心したのだとしても、それについていくであろう者が大勢いることを彼女は今日身をもって知った。
きっと、彼ら彼女らは、月見ヤチヨの決断を、その逃避行を助けてくれる。その過程で、どんな犠牲が払われたとしても。
旋律はサビで幾度もループする。それは呪いのようだった。
「FUSHI、現在時刻を記録してくれ」 「……ああ」
──2028/7/1/03:25(HST)、クリフは端末の応答ボタンをタップした。
『
「
『
「クリフ、貴方……本気?」
クリフは顔を伏せたまま答えない。ただ、マイクを
「
『
……ガツン
毒づくように、檻を蹴る音が頭上から聞こえる。
『
クリフは顔を伏せたまま、祈った。
クリフは本気だった。有言実行の心がけは彼の運命に出会った瞬間から20余年の間常に示し続けていたし、彼が身に着けているスマートグラスが示す情感センサーが、彼の運命に彼の本気を証明していた。
「この……そんなの、そんなのって……」
「彼らは命令を守っているだけだ。この件において如何なる咎も負うことはない。責任は全て私にある。そして私は、私を貴方に委ねる。 ──クイーン、
従ったのではなかった。放棄した訳でもなかった。託したのだ。全てを。彼自身の真っ当な良心さえも。ヤチヨが一言発するだけで、全ては彼女の望み通りにできた。どんな暴虐も可能だった。
だがそれこそが彼に出来る唯一の制止だった。
クリフは身を挺して彼の女神を……彼女が守ろうとしていたものを、果たそうとしていた8000年を守ろうとしていた。愛と悲しみによってそれを投げ打とうとする彼女自身の手から。
そして。
「…………て」
カツン、と。
小さく檻を蹴る音を最後に、彼女の決断は下された。
「……
『──
「
クリフは、端末をオフにして掲げていた腕を下げ、女神の顔を見上げた。赤い檻は、いつの間にか消えていた。
安堵の溜息が漏れそうになるのを内頬肉を食いちぎるようにして止め、彼女の海のように澄んだ、見る角度によってその色彩を変える瞳を見つめる。
「…………私」
クリフも、FUSHIも、黙って彼女の言葉を待った。
黙る他なかった。良心によって、彼女の
「クリフ、私ね、考えちゃったんだ。彩葉のことなのに。彩葉のためのことだったのに。他の皆がその後どうなるのかなってこと、考えちゃった」
「ああ」
「昔はね、かぐやは、彩葉だけだった。彩葉が笑ってくれればそれで全部よかった。彩葉をハッピーエンドに連れて行くことだけをかぐやは考えてた。私を構成する模倣子の全ては、彩葉だったの」
「そうだろうとも」
「でも、今はもう違ったんだ。私、彩葉以外の皆の明日のこと考えて、彩葉の求めに応えること、やめちゃった」
「そうか」
「心のどこかで、戻れると思ってたの。その時がくれば、彩葉のかぐやに戻れるって。……だってこんなにも愛してるんだから。世界の全部が私の彩葉のためのものなんだから。彩葉の為の私の世界なんだから」
「……そうか」
「……私、もう、かぐやじゃなくなっちゃった。私の中に皆が居るの。大切な友達の模倣子が。──もう戻れないや、これ」
「……すまない」
「…………ごめん、ごめんね、彩葉……わたし、もう、約束、ハッピーエンド、何も、何も何も何も何も何も何も……果たせないや。私はかぐやだったのに、かぐやだったはずなのに……!」
「すまない、ヤチヨ」
「……………………あ、嗚呼、あ、ぁ、っう、うぅ……うぁ…………ッ!」
クリフは、黙って天を仰いだ。
鈍色の天井で覆われた空に星光は無く、夜明けまでの距離を教えてはくれない。
夜の向こうに
クリフはそれが知りたかった。
☽
「……ヤチヨ。システムの復旧までどのくらい掛かる?」
「あと2時間くらいかな……それどうしたの、FUSHI?」
「彩葉をツクヨミにコンバートするだけが彩葉のSOSに応える方法じゃないと思ったんだ。クリフ、そっちで今のヤチヨchatの管理者権限を預かってるんだろ?」
「ああ……それが、どうしたんだ?」
「察しの悪い奴だな。……そっちの権限がある端末を今のクリフの端末でリモート操作すれば、そこを通してヤチヨが彩葉のSOSに手打ちで返せるだろ」
「でも……まだシステム復旧できてないから通知も出してなくて、彩葉に怪しまれちゃうかも」
「部分的に復旧してるとでも言っとけ。プライベート極まる相談事なんだ。多少変でもそのことを周りに確認なんてできやしない」
「そっか、そうだよね……! ──クリフ、お願い! 彩葉と喋らせて! ……もう、私が彩葉にできること、それくらいしかないから」
「──
■
「FUSHI、彼女は?」
「彩葉とお話中だ。いつもの彩葉シュミレーターを参照しながらベストアンサーを返せないからかなり慎重になってるな」
管制室の端に置かれたテーブルの上。そこに置かれたクリフの端末を通して、ヤチヨは極めて真剣な表情で彩葉とメッセージを送り合っていた。自分のことが話されているのに、一瞥すらくれない。復旧作業に割くリソースを除いて、全能力をそこに注いでいるようだった。
「……そうか、それはなによりだ」
「どうしたクリフ。何か変だぞ。内緒話でもしたいのか?」
そんなヤチヨの後ろ姿を見やりながら何やら気もそぞろな様子のクリフを見て、FUSHIは少しトーンを落として質問した。FUSHIは、この壮年の男との間に、強い絆を、あるいは敬意を感じていた。
「ああ……FUSHI、ヤチヨが酒寄彩葉からのSOSを受け取った時、何か、その、変な感じがしなかったか……?」
だから、その要領を得ない質問も無下にはしなかった。
彼の言葉に従って、その意味を問うよりも先にログを少し前に戻して……
「これは……なんだ……?」
「"FUSHIは仰天した"じゃあないんだよな」
「何が起こっている?」
「ヤチヨが普段からつけている、情景描写を交えたログのテキスト化が勝手に起こってる。ヤチヨに今そんなリソースは無い筈だ。気味が悪いな。……これ、どのシステムが起こしてるんだ? ヤチヨのやつ、月から変なもん貰ってきたんじゃないだろうな……」
「そうか。やはりな」
得体の知れないものを煙たがるFUSHIとは対照的に、クリフは得心がいったように頷いた。
「クリフ、これが何なのか心当たりがあるのか……?」
「いや、無い。だが、そういう立場に居るような気はしていた。帰納的な予感……というか霊感に過ぎないがね」
クリフは周囲を見渡す。それは先ほどの探るような視線ではなく、確信を持って舞台を見渡す役者のように堂々としたものだった。
「FUSHI、私がこの管制室に来た時に行ったことを覚えているか」
「……影法師が云々の、シェイクスピアの引用のことか?」
「"明日、また明日、そしてまた明日と、記録される人生最後の瞬間を目指して、時はとぼとぼと毎日の歩みを刻んで行く。人生は歩く影法師。哀れな役者だ。舞台の上で見栄を切れども、出場が終われば消えゆくのみ"……つまり、今が見栄の切りどころと言う訳さ。────
おそらく"そこ"だと確信したのだろう。クリフは部屋の隅にある、何の変哲もない、しかしヤチヨの管制の外にあるカメラを眼差した。
「私では彼女を救うどころか、涙を拭うことすらできなかった。だから、頼む。君が彼女を助けるんだ。君が彼女の明日になってあげてくれ。……私は、君が
そこでウインクを一つして、クリフは微笑んだ。
「君にならできるはずだ。根拠はないが、そう信じているよ。プレッシャーが嫌なら、これは恋敵に向けたみみっちい嫌がらせだとでも思ってくれたまえ。……そして、君がアルコールを嗜む年齢になったら、どこかに呑みにいこうじゃないか。健闘を祈るよ、酒寄彩葉」
そうして、彼は懐から取り出した消音機つき
☽
/* LOG SYSTEM ALERT */
/* LOG CONTINUES */
☽
「報われないな、お前も」
「双方向性の運命を諦めた彼女に比べれば、私のものなど些細なものさ。そして私は、彼女がそうであることを望まない」
「それは僕も同じだよ」
「この点に関して、私たちにできることはそう多くない。だから期待しているのさ、酒寄彩葉に」
「そうか。……このログはヤチヨには見せないようにしとくよ。ヤチヨはいつも日本標準時間で現在時刻を記録してログ取りをしてるから、ハワイ標準時間はいい隠れ蓑になるはずだ」
「ありがとう、わが友よ。……全てが終わった先で、君たち三人が何かを臨むことができたなら……その時はワインではなくバームクーヘンを送ってくれ。それを妻と切り分けて食べるのが、私にとってのハッピーエンドだ」
「……お前が所帯持つって聞いたときは、絶対すぐに別れるって思ったんだけどな。ヤチヨへの推し活、部下に対しても滅茶苦茶やってるらしいな。そんなんでどうやって奥さんの心を自分に留められるんだ?」
「簡単さ。人が真剣に誰かを愛する様は、いつだって美しいものだ。……彼女がそうであるようにね」